HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

  • 東京創元社
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  • Amazon.co.jp ・本 (393ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784488016555

感想・レビュー・書評

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  • 時は第二次世界大戦中の1942年。チェコの首都プラハは、「第三帝国で最も危険な男」ラインハルト・ハイドリヒが統治しています。このナチ幹部を、二人のチェコスロバキア軍青年兵が暗殺する計画「類人猿作戦」を描いた作品です。

    全体をとおして、とにかく書き方が独特です。歴史小説はこんな風に書けるのか!という驚きと、著者の執念や主人公たちへの敬意を感じました。また、どんどん変わる視点、短く区切られた章立てに、ぐいぐいと引き込まれていきました。特に、§206から§222にかけては息をのむ展開に夢中になってページをめくりました。

    戦中の写真や映像がどれも白黒だからかはわかりませんが、この時代はたとえその日が快晴だったとしても、世界中が重くどんよりした曇り空に覆われているような印象を持ってしまいます。『1942年のプラハには、白黒写真のような雰囲気がいやおうなく漂っている』(§193の冒頭)の一文が、私のこの時代の印象をまさに言い当てています。この作品も多分に漏れずそのような雰囲気です。
    ですが、祖国チェコスロバキアに鮮やかな色彩を取り戻すため、勇敢に戦った人たちがいる。それを教えてくれる物語でした。



    -----以下、ネタバレ内容を含みます-----

    著者が抱いているガブチーク、クビシュ、そしてチェコの勇気あるレジスタンスたちへの敬意を表すのにもっとも向いていたのが、この徹底した史実主義と著者目線の物語口調だったのかな、と思いました。

    ところが、§131から、一気に主人公二人と同じ立場から物事を見るような視点も含まれていきます。この章の最後の「これから〈歴史〉に参入するところだ」。あくまで彼ら自身の視点ではなく、著者自身が、読み手それぞれ自分自身がその時代にタイムスリップし、彼らの息遣いを間近で感じるような、そんな描写です。

    §150では、著者の歴史に対する思い、チェコスロバキアのために戦った人の思いが書かれています。物語に直接関係があるとは言えないこの一章ですが、この章こそがもっとも著者が伝えたかったことなのではないかと思いました。彼らへの敬意です。

    そして何より、§206から§222にかけての、ハイドリヒ襲撃のシーンの臨場感がものすごいとしか言いようがない。ガブチーク、クビシュ、ヴァルチークの緊張感がこちらにまで伝わってきます。あんなに入念に確かめたのに、ステンがなぜか発射しないことによるガブチークの焦り。意を決し爆弾を投げたクビシュの覚悟。街中を逃げるシーンは、追手が巻けるかどうかハラハラしながら展開を追いました。
    この中では、なんといっても§217。これは誰目線なのか。妻リナが第三者目線から語っているのかと思いましたが、あまりに客観的すぎるし、やはりここは誰の設定でもなく読むべきなのでしょうか。実際の時間にして数秒から数十秒の出来事が、スローモーションのように目の前に現れる見事な描写だと思います。

    そしてもう一つ、最後の山場である納骨堂のシーン。一見無関係そうな日付が並んでいます。現代です。著者がこのシーンを書いている実際の日付でしょうか。著者はまさに1942年に同化しています。それくらい思いをはせてこのシーンを書いたのだろうと思いました。

    最終章、§257は、のちに英雄となるガブチーク、クビシュ二人の出会いのシーンを描いています。
    なぜだかはわかりませんが、柔らかなハッピーエンドに感じました。

  • これを傑作と呼ばずに、傑作と呼ばれる物語があるだろうか
    これを文庫にしないのは、東京創元社の怠慢の一つだ

  • ナチスドイツのゲシュタポ長官、ユダヤ人問題の最終的解決計画の実質的な推進者にして、"金髪の野獣""プラハの虐殺者"などと呼ばれたハイドリヒが、ロンドンに亡命したチェコ政府が送り込んだ2名の英雄・プラハのレジスタンスの固い結束によりに暗殺される物語。

    ヒトラーによる報復、報奨金目当ての1人の仲間の裏切りにもめげず、レジスタンスの献身的、利他的な行動に感動する。日本ではナショナリズムは悪い意味で使われがちだけれど、、

    また、今までの歴史小説にはないタッチ、ノンフィクションを極めようとする作者の想いが強く伝わる作品。

  • タイトルの「HHhH」は、「ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる」という文章のドイツ語での略称。
    ヒムラーは聞いたことがあるけれど、ハイドリヒは聞いたことがなかった。
    誰?

    ”ハイドリヒはナチス・ドイツの悪名高きゲシュタポ長官にして、〈第三帝国で最も危険な男〉〈死刑執行人〉〈金髪の野獣〉などと呼ばれ、「ユダヤ人問題」の「最終解決」の発案者にして実行責任者として知られている人物である。”(訳者あとがきより)

    この小説は、このハイドリヒをチェコスロヴァキアの兵士が暗殺するまでの話だ。
    しかし、これを小説と言っていいのか。

    真実を捻じ曲げないために過剰なまでに小説的な表現を避ける作者。
    ドラマチックに書こうと思えばいくらでもドラマチックにかける題材を、淡々と文献で確認のとれたことだけを書いていく。

    その代わり作者が何を考え、感じ、事件を、登場人物たちをどう思っているか。
    その表現手法はどのような意図で選択したのか。
    こと細かに作者は語り続ける。

    ”〈歴史〉だけが真の必然だ。どんな方向からでも読めるけれど、書き直すことはできない。”

    ハイドリヒについて執拗に語り続ける作者が、その暗殺者たち、ある意味この小説の主人公たちと言っていい彼らをストーリーに組み入れるまで200ページ近くもかかる。
    (名前だけなら最初から出ているということに気がついたのは、読み終わってからだった)

    暗殺者がなぜ二人いるのか。
    ナチス・ドイツはチェコスロヴァキアを分断し、チェコを占領し、スロヴァキアは形の上では独立を認めたのだ。
    イギリスに逃げたチェコ政府の高官は、チェコスロヴァキアの威信をかけて二人の暗殺者を選び出した。

    この辺の歴史には詳しくないので、暗殺が成功したのか失敗したのかはわからない。
    本来なら手に汗握って読むところだけれど、作者がそれを望まないのでしょうがない。
    淡々と描かれた文章を淡々と読む。

    が、時間は止まらない。
    暗殺のシーンの後も話は続く。もちろん実際にも。
    そして、暗殺というのは殺す人と殺される人だけのものがたりではないのだ。

    愛する祖国のために暗殺者たちに協力する人たちがいる。
    上司の機嫌を損ねないために必死で犯人を捜そうとする人たちがいる。
    メインの登場人物たちではない、名もない(実際にはあるけど)人たちの話を読みながら心を打たれている自分がいた。

    ”この物語も終わりにさしかかり、僕は完全に虚しくなっている自分を感じる。ただ空っぽになっているのではなく、虚しいのだ。ここでやめてもいいけれど、ここでやめたのでは具合が悪い。この物語に協力してくれた人々は、ただの脇役ではない。結局は僕のせいでそうなってしまったのかもしれないけれど、僕自身はそんなふうに彼らを扱いたくない重い腰をあげ、文学としてではなく―少なくとも僕にその気はない―あの一九四二年六月十八日に、まだ生きていた人々の身に何が起こったかを記すことにしよう。”

    作者が書きたかったのはそれだったのだ。
    限りなくノンフィクションのような小説。
    歴史を作っているのは、その時を懸命に生きた人々なんだなあと思い知らされる。

  •  2010年度ゴンクール賞最優秀新人賞、2014年度本屋大賞(翻訳小説部門)第1位の作品。タイトルはドイツ語の Himmlers Hirn heißt Heydrich(ヒムラーの頭脳はハイドリヒと呼ばれる)の頭文字4つから取ったもの。
     ストーリーは、かつてフリッツ・ラングとブレヒトが『死刑執行人もまた死す』(1943)で描いたナチのチェコ副総督にして実質的な支配者だった、ラインハルト・ハイドリヒ暗殺事件に取材している。しかし作者は、すでに何度も作品化されたこの題材を、いたずらに物語化しなかった。徹底して資料にあたり、同じテーマを扱った過去の作品を批判・批評しながら、「歴史小説を書く小説」という自己言及的なスタイルで貫徹させた。そうすることで作者は、過去に生きた人々の「声」と同時に、その「声」を探りあてていく時間、その「声」と出会えたことの静かな亢奮の双方を、小説の言葉に刻むことができた。
     物語化・英雄化の欲望に抗いながら史料と向き合うことで、侵入パラシュート部隊のメンバーの勇敢さと同時に、彼等を助けた人々がいたこと、彼等彼女らの肖像も歴史の中に刻みつけること。本作によって、小説というジャンルができることが、またひとつ付け加わったと感じられた。

  • 小説と史実の資料の間に立っている感覚。
    地図を片手に地名を確認しつつ、襲撃に挑んだ彼らの後ろで見ているような描写に引き込まれて緊張感を味わった。
    博物館にあるような資料や関連する映画、小説に対する著者の葛藤が、事件の流れと混ざって書かれているが、流れが細切れにされて現実に戻されたという不満は全くなく、一つの物語として最後まで没頭できた。

  • 2019年封切り「ナチス第三の男」の原作。
    映画も面白かったが原作のほうが更に面白い。「僕」が語る現在と過去が入り交じった257の断章は映画のメーキングを見ているかのようだった(登場人物の顔が見分けられなくて、映画鑑賞時はレジスタンス/ナチス/レジスタンス協力者くらいの分類でしか理解出来なかったのがすっきりしたし)。
    著者のローラン・ビネはこれが小説第一作とのことだけど、第二作は書けるのか?心配になるくらい凄い出来だ。

  • 2014.10記。
    (ネタバレには気を付けていますが、ストーリーに結構立ち入っています)

    第三帝国で最も危険と言われた男、ラインハルト・ハイドリヒ。
    英仏に見捨てられ、ナチス・ドイツに占領されたチェコ。

    二人のパラシュート部隊員が、祖国チェコ(スロヴァキア)のために首都プラハで決死のハイドリヒ暗殺作戦を実行する。
    緊迫感あふれるこの小説の中で、「史実とは何か、史実を忠実に小説にすることは可能か」、著者は徹底的に追求する。

    例えば、「X月X日、ハイドリヒは黒いメルセデスに乗っていた」といった何気ない描写。ここで著者のローラン・ビネは立ち止まる。「厳密にはこのとき乗っていたメルセデスが黒だったという証拠はないのだが、当時の文献によると・・・」といった調子の検討記録がその都度挿入される。この異様なまでのストイックさで、二人とその周辺の人々を徹底的に検証し尽くしていく。

    ストーリーの先を急ぎたい読者にとって、この検証部分は邪魔に感じるかもしれない。しかし、この検証の緻密さゆえに、その後の記述が一切の脚色のない「事実そのもの(にもっとも肉薄した推察)」であることがいやおうなく伝わってくる。「多少事実誤認はあっても、問題の本質は変わらない」、こんな考え方をビネは採らない。

    多くの困難、見込み違いを乗り越えて、ハイドリヒ暗殺作戦は遂行される。親衛隊の常軌を逸した犯人追及と必死の逃避行、ここからは、恐怖と切なさとで平静に読み進むのは難しい。

    蛇足だが、本書をバルガス・リョサが激賞したそうだ。実際、彼の「チボの狂宴」は実在の独裁者の暗殺劇を描いているという意味で一定の共通点がある。

    歴史とは、真実とは、小説とは、リアリティとは。重い・・・。

  • 戦争をフィクションの題材にすることへの逡巡と誠意を示す形式のひとつなのだろうと思う。終盤、意図的に作者の登場頻度を減らしてからの対象との接近方法が力強い。

  • 文学

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