- Amazon.co.jp ・本 (246ページ)
- / ISBN・EAN: 9784488629120
感想・レビュー・書評
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あべかず『クエーサーと13番目の柱』を読んだ後、元ネタらしいこれを読もうと思ったらキンドルがなくて挫けて早2年。先日映画『チタン』を観て車偏愛つながりでこの本の存在を思い出し、ついに読んだ(仕方なく紙で)。最初はああ私はこういう流麗な文章で書かれた変な話が好きだったんだと思い出し、すっかり夢中で読み進めた。ここ数年、ポリコレ的にアップデートされていない作品を読むのが苦痛になってきたのに、これはなぜだか全然読めて、文章さえ良ければいいのかな、なんなんだろうと我ながら謎(これについては引き続き考えたい。たとえばナボコフの『ロリータ』とかも今読んでもいけるのか?)。ただ、後半はしつこいポルノ描写にさすがに辟易。車運転しないし乗らないので、部品?の名前もわからないし。でもまあ、ヴォーンはバラード(最初のほうで語り手の名前がバラードだと分かった時にはズッコケそうになった)の分身だったのか、みたいな展開は悔しいけど好きなんだよ。70年代のカルト映画っぽい雰囲気、今からすれば昔なんだけど近未来を描いているような街の描写もイカしてた。続けて『クエーサー』の再読行きます。
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バラードの代表作のひとつとして有名な作品であり、鴨も読む前からだいたいの内容は知識として持っていました。自動車事故に性的興奮を感じる男女が、乾いた現代社会の片隅でエクスタシーを求めて蠢く群像劇。いかにもバラードらしい、ビザールで劇的でスタイリッシュな問題作。
・・・との前知識を持って、読み進めたんですけど。
特殊性癖のヘンタイがヤリまくるだけの作品でしたヽ( ´ー`)ノ
いやまぁ、乱暴すぎるまとめだということは鴨もわかっているつもりです。が、煽情的で押出しの強い作品世界の中から、立ち上ってくる「美学」がないんだよなぁ・・・。
この作品をバラードが世に出した意図は、序文でバラード自身が明確に語っています。バラードが実際に日々感じていたであろう現代社会のテクノロジーの発展、その帰結としてバラードが幻視する、人間の制御を超えて暴走するテクノロジーのランドスケープ。そして、テクノロジーに飲み込まれて無意識のうちに変容していく、人間精神のあり方。そうした作品テーマをダイレクトに伝えんがために、敢えてポルノグラフィの体裁を取ったと、バラード自身が説明しています。
が。残念ながら、鴨にとっては、ただのポルノグラフィ以上のテーマ性が最後まで見えてきませんでした。異形の世界観ではあります。柳下毅一郎氏の翻訳らしい独特の癖のある文体が生み出す幻惑感もあって、読んでる最中は「なんだかスゴいもん読んでるなー」という実感はありました。でも、後に残るものは、鴨には残念ながらありませんでした。ポルノグラフィとして肝心な○○○シーンも、ただただ気持ち悪いだけで、全く盛り上がらず。
フィクションの世界観において、悪や背徳や変態性を描くことは、何ら問題ではないと鴨は思っています。ただ、そこで描かれる悪や背徳や変態性には、読者の平凡なモラルを圧倒的な力でねじ伏せる、他をもって代えがたい「美学」が必要です。何をもって「美」を感じるかは全く主観的な問題なので、たまたま鴨の基準には合わなかっただけ、ということだと思います。
異形の怪作であることは間違い無いので、その筋がお好きな方にはオススメです。かなり人を選びますねー、これは。 -
テレビCMプロデューのジェイムズ・バラード(!)40歳は、
六月の夕暮れ、雨上がりの高速道路を走行中、
車をスリップさせ、対向車と正面衝突。
相手側は女医とその夫で、夫が死亡したと知らされた。
結婚から一年で早くも倦怠期に入り、
互いに外で恋人と情事を愉しんでいたジェイムズと
妻キャサリンは、この事故をきっかけに
自動車そのものと運転することと、また、
それに付随する事故への不安・恐怖から
性的興奮を得るようになったが、
かつてジェイムズが関わった番組の出演者だった
ロバート・ヴォーンに付きまとわれ始めた。
ロバートの目的は――。
下衆で汚らしいエピソードを、
あたかも高尚な事象であるかのように綴った、
作者と同名の人物が主人公のフィクション。
原著は1973年。
まだエアバッグもシートベルト着用義務も
一般化していなかった頃か。
先行する『残虐行為展覧会』収録短編「衝突!」(Crash!,1969)【*】の、
遙かにネチッコい拡張版といった趣き。
スピードに身を委ね、危険を感じると興奮する
というのは理解できなくもないが、
庶民にも手が届くテクノロジーとfxxkして
昇天しようぜ、と言われても……なぁ(笑)。
【*】
自動車事故の衝撃が性欲亢進、及び、
そこから導き出される家庭の円満さと
結び付いていることが立証された――
と言わんばかりの“トンデモ”テクスト。
作者は主人公に自分の名前を与えたが、それは、
内容はまったくの作りごとであっても、
心情的には他人事ではなかったからこそ――
といったことが解説に書かれていた。
当時、仕事と子育てに邁進していた、
よき作家であり父親だった人物は、
自身の内面を覆う得体の知れない欲望を
外在化しようとしたのだろうか。
だとすると、主人公とその妻をストーキングする
自滅願望に取り憑かれた変態野郎(笑)とは、
ウィリアム・ウィルソンのような存在だったのか。
格調高いポルノグラフィというと、
ジョルジュ・バタイユの名が思い浮かぶのだが、
生から死へ、破滅に向かって加速する
スピードの物語としては(知名度が低いけれども)、
モーリス・ポンス『マドモワゼルB(ベー)』を連想した。
https://booklog.jp/users/fukagawanatsumi/archives/1/B000J958HM -
誤訳と直訳だけで書かれた、今まで読んだどのジャンルのどの翻訳より酷い翻訳でした。
以下、この小説の翻訳を紹介したいと思います。
唇で目のまわりをなぞるとき、
目から流れ落ちる雲母水は〜
(水素水の次にマルチ商法が目をつけた水かな?)
ヴォーンはムービーカメラをハンドルの縁に押し入れた。
(物理的にどういうことかな?車のハンドルにカメラ入っちゃうんだ?)
膝のマリファナ巻き機に広げた煙草を〜
(マリファナ巻き機ってなんだよ巻き機って…)
コンバット・ジャケットを着た背の高い〜
(SFではないのでパワードスーツ等ではなくおそらくMA-1のことだと思われる)
トラック運転手の上着を着た〜
(そんな上着は存在しないので、おそらくトラッカージャケット=デニムジャケットのことだと思われる)
銀鋲打ちジャケットを着た〜
(おそらくシルバースタッズの付いたライダースジャケットのことだと思われる)
脱色した金髪はわたしのヘッドライトを浴びてナイロン織物のように輝いていた。
(ナイロンの服地のこと?ナイロンの織物は無いからポリエステルの気がする…)
旅行用膝掛け
(トラベルブランケットは旅行用じゃない…)
尾灯
(テールランプでいいじゃない…)
後輪えぐり
(バイクのパーツらしいのだが想像もつかない…)
この視覚コンテキストにあっては〜
(意識高い系かな?)
自身のカタストロフ宇宙に〜
(またやっちゃいました?)
「何かがあるんだ、あの男のオブセッションには」
(だからそのバッドオブセッションを訳せよ…)
肛門粘液とエンジン冷却液の混じった臭いが立ち昇った。
(…どなたか説明できる肛門とエンジンに詳しい方いらっしゃいますか?)
ブレーキペダルを踏むたびにこすれあう太腿を見つめていた。
(脚と脚をクロスさせて左足でアクセル踏んで右足でブレーキ踏んでるから太腿こすれちゃうんだね?)
このコンクリートと構造鉄鋼の結接点のどこかで〜
(お前は何を言っているのだ…)
ヴォーンはワインボトルをダンベルのように振り回して、女たちを車に追い込んだ。
(ダンベルを振り回す…ワインボトルで上腕二頭筋を鍛えるみたいに、ボトルを持った腕を曲げたり伸ばしたりしながらお前ら早く車に乗れ!と煽ったのかな?かっけぇ…)
……
ちなみに"雲母水"はmica=雲母と訳したのでしょうが、魅力的な女性という意味もありますよね。この場合は絶対に女性の涙という意味だと思います…
それからこの翻訳者、フロントガラスをウインドシールド、車のボンネットのことをアメリカ風にフードと繰り返し書いているのですが、最初何の事かわからなくて辞書で調べました…でも後半ではボンネットをボンネットって普通に書いてるんですよ…
あとウインドウ・ピラーという車のパーツも繰り返し出てくるのですが、どのパーツのことなのか全く解りません。
同じように"車のビニールシート"なる単語も繰り返し出てきますが、ビニールシートってお花見の時に敷くやつしか知りません…
またクロームという色が車内の描写にしつこく出てくるのですが、車の内装にクロームメッキなんて使われてますか?…自分は車もバイクもヴィンテージカーも好きなのですが、それでも車内にメッキの何かってちょっと意味解りません…
懐かしのエキサイト翻訳を思い出しました。
正直あのレベルです。
小説のテーマやプロットは退屈ではないのですが、これはそれ以前に人に読ませる文章ではありません。
これはひどい。
今まで読んだ海外文学の中で、鵜戸口 哲尚 訳 "パンク、ハリウッドを行く"と青柳 祐美子 訳 "ペル・ジャー"が、読んでるこっちがとんでもなく恥ずかしくなり怒りが込み上げてくるレベルの酷い翻訳のツートップ、ぶっちぎりの東と西の大横綱だったのですが、今回読了したこの作品が魔王降臨でした。他化自在天第六天魔王 柳下毅一郎 推して参る参りましたお願いしますやめてやめてくださいしあ…
でもさすがは魔王、訳さなければならないところを訳さず、訳さなくてもいいところをカタカナに訳す、クソ翻訳者の特徴もガッツリ踏襲しています。
またこれもダサ翻訳者の特徴なのですが、マリファナ煙草って単語が必ず出てきます。
でもマリファナ煙草って何?
マリファナなのかい?煙草なのかい?
どっちなんだい!?
まさかジョイントのこと言ってるのかな??
…これもクソダサ翻訳者の必出の特徴なので覚えておいてください。
そしてあとがきによると、この小説は1992年にペヨトル工房から出版され、2008年に創元社で文庫化されるにあたって訳文には全面的に手を入れたと書いてありました…
これでも…
毅一郎、お前もう船降りろ…
以上、
翻訳家 柳下毅一郎の仕事をご紹介しました。
名前だけでもぜひ覚えて帰ってください。
しね
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ピカソの絵に出てくる人の顔は、前から見た顔と横から見た顔を同じキャンパスの上に描いている、と聞いたころがある。正直、私にはそのよさがイマイチわからないのだが、バランスをとることが難しいだろうことは、何となく分かる。
それと同じというわけではないのだが、この本も、二つの相異なるものを同一線上に並べているという点で、何か共通するものを感じた。
本の帯には、「テクノロジーと人間の悪夢的婚姻 衝突事故における性的可能性の追求」とある。車等の乗り物のテクノロジーと、人間のもつ性的なイメージを、登場人物の中にある偏執を利用して、あたかも同一であるかのように印象付ける。
ここまで極端ではないにしても、いわゆるフェチと呼ばれるものの延長にある一つの物の見方なのかもしれない。そう言えば、車やオートバイの雑誌やモーターショーには、ある種の美女がセットになっているが、何か、男性の深層心理には、そういうつながりがあるのだろうか。
とにかく、読み始めると、その世界観に慣れるまで読み進めるのがつらい。果たして単なる場面設定なのか、何らかの形でストーリーが進んでいるのか、それさえ判然としないまま、漠然とページを進める自分に嫌気がさしてくる。この作者は何が言いたいのだろうか。この文字の羅列に何か意味があるのだろうか。そんな疑心暗鬼を感じながら、50ページだか、60ページくらいまで読み進めると、急に、この小説が提示している世界の中に、自分が足を踏み入れたような感覚に落ちる。
それからは、理解できるかどうかは別として、最後まで一気に読み上げた。
この本がそのまま楽しめる人は、多分、作者と同じ趣向の持ち主であろう。しかし、多くの読者は、作者と同じ趣向を持っているとは限らないので、そのままでは楽しめないかもしれない。それでもなおこの本を楽しむには、私が最初に書いたような視点の転換をして、自分が理解できる趣向と置き換えて読むといいのかもしれない。
それにしても、この訳がすばらしいなあ。原作がどういう表現で書かれているのか分からないけれども、借り物の言葉ではなく、まるでオリジナルのメッセージのように、力強い言葉がびしびし伝わってくる。所詮、翻訳ものは、手袋をした上から手で触るように、本物には触れられないもどかしさがあるけれども、少なくとも、この本に関して言えば、本物と同じ感触が味わえているような気がする。それほど、訳が完成されているというか、この本に合っているように思う。
きっと、本屋に並んでいるだけでは決して手に取ることはなかったであろう作品を、こうして読む機会を得て、今回は貴重な体験をさせていただいたことを、感謝したい。 -
空想を尽くして架空の科学体系を作り上げるSFとは一線を画し、目の前にある科学技術から世界を抽出して硬質な創造の翼を羽ばたかせる。バラードはそういうひとだと思う。
すべては序文にある通り。SFの可能性の追求と、「もの」の概念化によって生まれる異質な新たな論理を精神分析で拡げる。
この作品では、「自動車」から性的な力を見出してしまった、ある意味でクラッシュしてしまったひとと、自動車という技術・ものとの関係がグロテスクに語られる。では、この「自動車」からそんな論理を見出すのは一体誰なのか。ものとひとの関係を描きながら、実は、関係を見出す本人の内的なやり取りの結果がこの物語だったのだ。これが外宇宙から内宇宙の探究へ、ということだろう。
語られる物語は、自動車事故が与える新たな論理にのみ込まれることが前提となって始まる訳だが、はたして技術はひとを呑み込めるものなのだろうか。
技術は目に見える「もの」を扱うものだ。そうなると、技術が呑み込めるのは、ひとの死すべき部分である肉体ただそれだけだ。目に見えぬ「精神」を呑み込めるのはやはり目に見えぬ「精神」でしかない。
だから、自動車という技術がひとを呑み込むのではない。自動車を見出し形作るひとの精神が、ひとの精神を呑み込むのだ。
ものがないと言っているのではない。ものに性的な力を見出すのはひとえにひとの精神の力に他ならない。技術というものがひとに刃を向けるのではない。技術を生み出すひとの精神がひとに刃を向けるということだ。
このように考えると、バラードの想定する内的世界を外的世界の融合というのはおかしな話になる。外的世界を見出すのは一体誰なのだ。それはバラードの考える内的な外的世界なのだ。
内的宇宙の探究、そこまでは納得できる。だが、彼は技術というものが、外的なものとしてあたかも自分とは外れた外的なものとして置き換えてしまったのだ。そのあたりが当時epoch making だった精神分析を取り込んだミスとも言える。内部世界と外部世界が融合するという時、いったいそれを見ているものはどこに存在するというのか。どうもそれがよく分らない。
クラッシュによって生まれる自動車=性的なもの という新しい論理の異質さを煽るような、描写の結晶質のような硬質さがとことんグロテスクで、その印象だけが強く残ってしまう。序文にある通り、作家は仮説を提示し読者の反応や事実でそれを証明し、恐怖でもって警告発するものだという。だが、ことばによってこの論理自体は考えられていない。自動車という目に見えるものが、どうして性的な力という目に見えないものにすり替わるのか。それがなぜ自動車事故である必要があったのか。
この途方もない深淵を、どうしてバラードはさも当たり前の前提のように受け容れられるというのか。 -
交通事故に性的快楽を覚え、ひたすらに事故を起こす「バラード」と、おなじく交通事故に性的快楽を感じる事故現場の撮影をする「ヴォーン」が出会い、とある有名女優の交通事故を作り出すという流れ。
正直、わずらわしいくらい比喩表現が満載で、しかもその比喩から、その指し示すものがイメージできなかったりする。
文章のなかに難解な比喩をところどころに差し込むことで、むしろ意味そのものをはぐらかしているような気もする -
すごかった…サドとイタリア未来派とバタイユが合体したようなスーパー性倒錯。文学の暴力。初JGバラードはなかなか印象的な一冊となりました。どうしたらこんな話思いつくんだ。
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序文のテクノロジー批判・資本主義批判は示唆に富んでいた。序文からこの小説がテクノロジー批判であることは分かるのだが、異常性癖開示みたいになっていてその印象しかない……。「疾走する車はサモトラケのニケより美しい」みたいなあれなんだろう。
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SF作家として著名なJ・G・バラードの名作、そして問題作。近々、クローネンバーグ監督による映画化作品(こちらも問題作)の4Kレストア無修正版Blu-rayが発売されるので、予習として手に取ってみた。
「テクノロジーが人間社会に浸食し、人々はテクノロジーに"歪まされていく"」―――本書のテーマが何かと問われれば、(あくまで個人評として、)模範回答的にはこう答えるだろうが・・・まぁ率直に言ってしまうと「自動車事故に性的興奮を覚えてしまった男が、同じ特殊性癖を持つマニアと巡り会ってしまい、最高の"自動車(事故)オーガズム"を求めて、男女関係なしにヤリまくったり、事故ったりするお話」。
サスペンス小説の雰囲気はあるものの、テキストの大半は特殊性癖男の性衝動に関する描写なので、ゲンナリする人が大多数となること請け合い。選ばれしものだけが楽しめる名作。きっとそう。