孫子とクラウゼヴィッツ: 米陸軍戦略大学校テキスト

  • 日経BPマーケティング(日本経済新聞出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (279ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784532198350

作品紹介・あらすじ

●『孫子』『戦争論』初の比較分析
古今東西、戦略と戦争を論じた最も重要な文献として広く認知されてきた『孫子』とクラウゼヴィッツの『戦争論』。『孫子』は簡潔な表現スタイルだが、『戦争論』は浩瀚にして難解な書物。スタイルも分量も真逆である両者をいったいどのように比較するのか? 本書は、『戦争論』研究家として『戦争論』を徹底的に読み込み、真に評価すべき言葉を選りすぐってきたかつてない書。不可能と思われてきた両者の比較を大胆に行い、矛盾点、類似点、補完関係を明らかにします。
戦略論の本質としてどのような知恵を残しているのかに焦点を絞り、統率、インテリジェンスなどトピックスごとに両書の極めつけの言葉を取り上げて解説。あたかもクラウゼヴィッツと『孫子』の著者である孫武が戦略をめぐって対話を行っているかのような体裁となっている。両者の名言集とも言える内容。軍事戦略の2大名著のエッセンスがコンパクトな1冊で理解できてしまう優れものである。

感想・レビュー・書評

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  • 「ワインバーガー・ドクトリン」は、次の六本柱に結晶される。
    第一柱(国家の合理的行動)アメリカ、もしくは同盟国の死活的な利益が危殆に瀕しない限り、アメリカは海外の作戦・戦闘に、戦力を投入するべきではない。
    第二柱(戦力の最大限集中)もしアメリカが、与えられた条件のもとで作戦部隊の投入を決断したならば、我々は明確なる勝利の意思表示として、十分なる戦力を投入するべきである。
    第三柱(政治・軍事目標の明確なる定義づけ)もしアメリカが、海外の戦闘に戦力投入する決断をしたならば、政治的、軍事的な達成目標は具体的に定義されなければならない。
    第四柱(政治・軍事目標の持続的再評価)政治、軍事的目標と投入戰力(規模・編成・配置)の相関関係は、必要に応じ持続的に再評価され吻合されなければならない。
    第五柱(国民世論の支持)作戦部隊の投入に先行して、アメリカ国民と彼らが選出したアメリカ議会の支持獲得に関し合理的な確信が得られなければならない。
    第六柱(国家の合理的行動)武力戦にアメリカ合衆国軍隊を投入するのは、最終的な手段でなければならない。


    第1章 イントロダクション――『孫子」と『戦争論』はコインの裏表

    第2章 叙述と研究のスタイルに惑わされるなかれ
     孫武とクラウゼヴィッツは、戦争における成功はクラウゼヴィッツが定義するところの「軍事的天才」「クードゥイユ」(精神的瞥見)という能力に依存し、こうした能力は経験を通じて涵養されるものでありながら、同時に先天的なセンスの有無によって多分に左右され得るものであることについて意見を同じくするであろう。
     またこの二人の戦略家はともに、心血を注いだ作品が、軍事的指導者や指揮官に対してどうしても限られた価値しか提供できていないことも認めることであろう。それは、多くの知恵と賢慮を含む傑作でありながらも、結局のところそれらをいつどのように具現実行するべきであるかを提言しきれていないからである。戦争の法則や理論に通院することだけで勝利をつかめるわけではなく、結局、これを実行する軍事的指導者と指揮官の直観力に大きく依存するものだという構図が浮かびあがることになる。

    第3章 戦争の定義に関する誤解――分析レベルの問題
     クラウゼヴィッツが「戦略」として定義しているものは、今日でいうところの戦争の下位作戦レベルに応ずるものであることを考慮にいれるべきである。
     その一方で、孫武は、戦争のための政治的、外交的、ロジスティクス的な準備を戦闘と一体に捉え、同じ活動のなかに元々包含されているパーツのようにみなしている。その結果、戦闘自体と武力戦が起き得る環境の二つに対して同じように関心を払い考察を深める構造になっている。
     一方クラウゼヴィッツは、より制限した形式で戦争の定義を行っている。これがある意味においては、彼を信奉する読者に対して、「戦争(武力戦)があくまでも他の含んでいる。議論を少し整理して明確にすると、クラウゼヴィッツは政治的かつ政策的準備などについて論ずることをなおざりにして、過度に作戦・戦闘に集中して論議を展開する傾向がある。これを敷衍すれば、戦争におけるロジスティクスや経済面はそれ自体が自律的に対応することを想定しており、クラウゼヴィッツが考える戦略の手段をもってなされる政治の延長にすぎない」ということを忘却させてしまう作用を対象とは考えていない。これが示唆するところは(クラウゼヴィッツを研究する人たちの一部の解釈に従えば)、経済面から要求される必要な物事は、戦場における勝利と成功によって担保保全されることが可能だということである。
     しかしながら、この考え方は第一次、第二次の両世界大戦を経験したドイツにとって、実際としては危険度の高いものであることを理解することになった。このような狭隘な定義は、今日のような科学技術が進歩し、燃料、食料、武器、弾薬の供給が、兵士それぞれの戦技と同じくらい重要になっている時代においては、より危険度が増しているのである。このような観点から言えば、孫武の論じ方、見立てのほうが、より戦略と戦争を包括的に分析し論じている。この意味では、クラウゼヴィッツよりも適切と思われる。

    第4章 政治のリーダーシップと軍事的指導者・指揮官の微妙な関係
     指揮官が政治からの直接命令への抗命を決断するのは、きわめて重大な局面といえる。しかしながら、これについての基準や尺度については孫武もクラウゼヴイッツもたいして論を展開していない。指揮官が考慮しなくてはいけない要素は、現場の状況や特質、予期され得る危険、指揮命令系統の保持確保の程度、コミュニケーション(通信連絡手段)の質、指揮官の直観力と経験の程度などである。一方、政治指導者(政治)が明確に区別しなければいけないのは、政治的範疇に帰する要素と軍事的範疇に帰する要素についてである。政治指導者(政治)が戒めるべきことは、純軍事的判断に帰することに容喙しようという衝動である。これは、サミュエル・ハンチントン教授の言を借りれば、objective control(客観的統制・政治による不干渉)とsubjective control(主観的統制・政治による干渉)の違いということになる。
     指揮官の指揮活動において、政治的考慮(政治的要請)をいつでも受け入れることが可能であることは、孫武もクラウゼヴィッツも認識していなかった。現実には戦闘の渦中において、下位の技術、作戦、戦術レベルで考慮するべき要素といったもの自体の優先順位が高くなることが起こり得るのであり、さらにこれが、より上位の戦略目的や政治政策に影響を与えてしまうことがある。無論このような事態は望ましいものでないが、このような武力戦の実態が、戦争の政治的目的の修正を迫るような結果になることも多々あるのである。
     戦争における戦略、作戦、戦術の三つのレベル間の関係性を、複雑性、相互影響、ノンヒエラルヒーという性質を考慮して示したものが前ページの図である。

    第5章 戦争の合理的見積もりは可能かーー目的と手段の相互関係
     孫武、クラウゼヴィッツは、戦争とは目的と手段が周到かつ間断なく相互に関係することが求められる本質的には一種の合理的行動であるとみている。しかしまた同時に、非合理的要素、たとえば、士気や動機、直観力なども大きく作用するものであることもまた認識している。しかしながら、クラウゼヴィッツのほうが、よる見積もりに依存することの難しさをより強く意識しているようである。予期せぬ衝突や摩擦、偶然の左右する機会、不確かな情報、複雑性といったものから受ける摩擦が武力戦の様相に及ぼす割合を強調し、合理的計算による見積もりに基づく勝算の効用については、より限定的に評価している。この点についていえば、クラウゼヴィッツは、孫武以上に現実的であり洗練されているといってよいであろう。

    第6章 戦争の逆説的な三位一体を理解する
     孫武は、武力戦は短期間で終結させるに越したことはなく、さしたる戦果がないままにいたずらに長引けば、その分だけ国民の支持を取り付け維持することは難しくなると言っている。
    「孫子』と『戦争論』は共に、先の三つの要素、国民、指揮官と軍隊、政府の間で適切なバランスを維持することの必要性を説いているが、孫武自身はこれについて詳細で深淵な論及をする代わりに著作全体にわたって主張をちりばめている。一方クラウゼヴィッツは、この問題をより集中的かつシステマティックかつ明示的に論究している。

    第7章 「戦わずして勝つ」の理想と現実ーー流血なき勝利と決戦の追求
     クラウゼヴィッツと孫武との「戦わずして勝つ」という点についての見解の相違は、大いに検討に値する。孫武がこの考え方をもっとも理想的なものとして位置づけたのに対して、クラウゼヴィッツはそれをほとんど例外的なものとして位置づけ、実際問題として代数学を解くかのような鮮やかな勝利というものはなく、戦闘に代わり得るようなものは普通存在しないと考えている。
     この戦わずして勝利をおさめること、最少兵力をもっての大勝利、さらには非物質的な「戦力乗数」を、万能薬として見立てることへのクラウゼヴィッツの懐疑的見方は、皮肉めいた次のコメントからも読み取ることができる。

    第8章 兵力数がすべてか?
     クラウゼヴィッツと孫武は、優れた将軍の指揮統率により、兵力的に劣勢な軍であっても決定的会戦において相対的により多数の軍を集中させることで勝利をおさめることができ得ることを強調している(ただし、この交戦時で想定しているのは、兵力数の優位以外の条件で、敵味方で等しいとしている)。
     優れた将軍のリーダーシップと指揮統率、欺瞞、高い士気、これに現代戦についていえば、優れた兵器の技術、火力優勢が加われば、兵力の数的な劣勢を補ってもなお十分な余力が生じる。『戦争論』において観念論的な戦争(現実には存在しない理論上の戦争である絶対的戦争)のタイプの概念を論ずるに際して、クラウゼヴィッツは、冒頭から非物質的要素は物資的要素に劣らず重要であるとしている。

    第9章 欺瞞、奇襲、情報、指揮統率の位置づけの違い
     これまでみてきたように、戦争に勝利する必須の条件とは、決定的会戦における兵力の最大限の集中であることをわれわれは知った。クラウゼヴィッツは、敵が確実に自軍のしかけた欺瞞に陥るという強い確信がない状態での欺瞞・陽動作戦の実施は、ただ単純に自軍の兵力を分散させるだけに終わってしまうとしている。
     敵を奇襲し撃破するということは実際大変に困難であるということを踏まえ、故に、るということを聞まえ。クラウゼヴィッツは、自軍を集中させることで勝利を獲得することが適切と結論づけたのである。
     クラウゼヴィッツの生きていた時代では、戦争の上位レベルの様相において欺瞞や奇襲を成功させることは難しかったという事実もあり、故に、クラウゼヴィッツの欺瞞や奇襲への関心が薄くなることは、ある程度の妥当性があったということは議論されるべきであると思う。一方の孫武は、テクノロジーが発達する以前の時代においての欺瞞と奇襲の重要性を誇張した部分があったといえるかもしれない。
     戦略レベル、作戦レベルにおける奇襲は、産業革命によって可能となった。産業革命によりそれまでには想像することもできなかったような機動力の向上、火力の向上、リアルタイムでの通信能力の向上などが確保された(この発展により、遠く距離を隔てて展開している部隊同士の協同や統制が可能となった)。
     こうして一度奇襲が、戦争の一部として組み込まれるようになると、欺瞞の価値とその重要性が増してくることになった。結果として、孫武が主張する「戦争のあらゆるすべての側面は欺瞞を基礎とする」という一貫した考え方のほうが、クラウゼヴィツの欺瞞が有する価値を割り引いた見立てよりも、我々の時代にはなじみ深いものになり浮かびあがってくることになる。作戦の上位レベルにおける奇襲の成功は、決定的会戦での交戦地点における優勢兵力の集中が重要であるが、今日ではこれはしばしば欺瞞に大きく左右されている。産業化された現代においては、この交戦地点における優勢兵力の集中とは、兵力数に恃むということ以上に、火力、機動力、技術的、ドクトリン(戦闘教義)的な要素に依存している。第二次世界大戦において連合国による欺瞞が成功する一方、ドイツのクラウゼヴィッツ派の伝統的な考え方、一般論として情報の可能性を過小に見積もり、特に、欺瞞についてその価値をあまり認めない考え方は、今日となれば的外れといえる。孫武が必要不可欠とした欺瞞が、今日の戦争においては大いに評価されるものなのである。

    第10章 インテリジェンス・情報は『孫子』の真骨頂
     インテリジェンス・情報は、「孫子』の主張が今日の軍事専門家に対して適切な示唆を与え得るもう一つの分野である。情報は、政治的あるいは軍事的指導者にとってもっとも常用的な戦力乗数のひとつであることを前提とし、孫武は開戦以前に、あるいは作戦や戦闘に先立って、綿密に情報活動(諜報活動)の準備をすることの必要性を繰り返し主張している。
    『孫子』では一貫して、情報活動の継続的な実施と理解が重要であることを明示している。良質な情報を、「敵の考え方、企図、能力に加えて、敵の配置や行動計画の見積もりなどに対する知見を提供するもの」としている。結果として、情報見積もりは、敵の弱点を衝くために適した軍事作戦を策定するための前提条件となる。そのように策定された計画は、敵の妨害要因が判明していない真空状態(無菌状態)で作られたものに比べ、より特定の状況に適した作戦となる(反対に、報告された情報を無視、あるいはそれを反映しようという試みを放棄すると、その結果は悲劇的となる)。
     ここで再度主張しておくが、最高レベルの良質な情報を収集する必要性は、この「孫子」という作品の教育的価値を高めるのに貢献している大きな理念として視えられるに違いない。十分に信頼性の高い情報がほとんど収集できず、不確実性がほとんど除去されない場合であっても、『孫子』のこの情報に対する積極的な態度は非常に重要である。一方で、情報が果たす役割についてのクラウゼヴィッツのネガティブな見解は、後世、このドグマを継承したことで多くの人間が直面した手痛い失敗の責任を帰せられるべき部分ともいえるであろう。

    「故に、その戦勝を復びせず、而して、形を無窮に応ぜしむ」————「孫子』126ページ〔虚実篇第六〕
    (和訳=したがって、私は二度と同じ手を用いることはしない。なぜならば、勝利というものは、戦況の変化に応じて、戦法を縦横かつ無限に変化させていく所に求めていくべきものであり、過去の成功体験に依存してはならない)

    第11章 有能な指揮官は計画をそのまま遂行できるのかーー指揮と統御
     孫武とクラウゼヴィッツのもっとも顕著な相違は、指揮と統制、インテリジェンス・ 情報、奇襲、欺瞞に対する考え方に表れてくる。孫武は、タイムリーで信頼できるインテリジェンス・情報が、軍事作戦を合理的に策定し、開戦の是非の決断をするうえで必要であるとしている。しかしながら、文字どおりに解釈してしまうべきではない。
     孫武もまた信頼できるインテリジェンス・情報を獲得することの難しさを記し、戦争の複雑さや不確実性について論及しているのである 。ただし、クラウゼヴィッツが摩擦、不確実性、偶然性などの要素が占める中心的な役割を『戦争論」で明確に言及しにようには、孫武は明確に論じてはいない。
     逆説的に、孫武が主張する「可能な状況であれば常にそれを用いるべき」との欺瞞のススメは、同時に孫武が主張する「信頼できるインテリジェンス・情報を収集分析し、効果的に用いる」という考え方と実際のところ矛盾する。つまり、敵が同様に欺瞞を採用して実行すれば、インテリジェンス・情報の大部分は信用するに足るものではなくなるのである。したがって、孫武の主張するインテリジェンス・情報へ依拠する重要性については、単純に現実に即したものとして論じているのではない。むしろ、教訓的なプロセスの一部として、言葉を換えれば理想的なものとして解釈されるべきなのである。また、最高レベルのインテリジェンス・情報を獲得することを目指すということも、もっとも合理的な判断をするためのきわめて標準的な要求であると解釈されるべきである。これらは、政治的・軍事的指導者に対して、敵と交戦する以前において細心の注意と準備作業に基づいて戦略と作戦計画を策定するため、最大限の努力を注ぐべきであるということを想起させる性質のものなのである。
     全体として、孫武がクラウゼヴィッツよりも、戦争について広い視座で論じたという事実は、孫武がインテリジェンス・情報に対する効用について強い確信を有していたことを物語るものである。政治的・戦略的階層におけるインテリジェンス・情報が有する価値と効用は大きく、孫武は、積極的にこの価値と効用を、貢献度ではより限界があり問題も多くはらむ戦争の下位レベルにも適用を試みたといえる。しかしながら、孫武のこのインテリジェンス・情報に対する積極的な態度のもっとも重要なポイントは、合理的な計算に基づく孫武の戦争へのアプローチを実証したことにある。

    第12章 意外と多い共通点ーー軍事的指導者の役割
    ▪️孫武、クラウゼヴィッツの比較(指揮と統制、インテリ ジェンス・情報の役割、奇襲、欺瞞、ならびに予測)
    孫武/クラウゼヴィッツ
    分析レベル
    ・すべてのレベル(政治、戦略、作戦、戦術レベル)
    ・主として下位の作戦レベル戦術レベル(戦場における戦術レベル)
    インテリジェンス・情報とその運用に対する態度
    ・楽観的、積極的
    ・信頼に足る情報は収集可運能であり戦争に勝利する鍵
    /
    ・悲観的、消極的
    ・情報収集には障害が多く(摩擦が原因となり)、信頼に足る情報収集を行うことは不可能ではないにしても困難
    ・情報が勝利に貢献する度合いは限定的なものであり、時には逆効果

    合理的決断と予測可能性について
    ・信頼に足る情報に基づき合理的に見積もり計画を立てることは可能
    ・予測ということは可能であり、慎重かつ周到に立てられた作戦は勝利への重要な鍵
    /
    ・摩擦、不確実性、運などによる戦争の支配
    ・合理的決断を実行すること、綿密な準備などはあくまで努力目標であり、全面依存は不可
    ・予測についてはほとんど不可能

    指揮と統制について
    ・困難であるが可能
    ・非常に困難でありほとんど不可能

    欺瞞について
    ・戦争遂行上の基本
    ・選択可能な武器としての地位を付与
    ・勝利への鍵として位置づけ
    /
    ・非重要なもので逆効果
    ・賭けとしての最後の手段

    戦争に勝利するための鍵としての情報について
    ・信頼に足る情報を収集すのるために最大限努力
    ・周到な計画と広範な欺瞞の活用
    ・防諜のため処置の実施
    /
    ・最大限可能な兵力の配置と集中的運用
    ・軍事的天才を有する指揮官の直観力に依存
    ・主導権の確保と攻勢戦略の保持(敵にとっては不確実性を増し、情報収集に支障)

    問題点
    ・情報と欺瞞に過度に依存することであり、万能薬としての位置づけを付与
    ・計画の万全性と実施における過度の自信
    ・事態や状況をコントロールできることについて楽観的
    /
    ・情報と欺瞞の可能性を無視
    ・腕力(戰力)、即興性、軍事的天才の直観力への過度な依存
    ・事態や状況をコントロールできることについて悲観的


    第13章 何がもっとも重要かーー指揮官の資質
     孫武が定義するところの指揮官の資質とは、クラウゼヴィッツの定義するものと基本的な違いはない。しかしながら、孫武においては指揮官たるものに不適切とみなされる資質や行動、あるいは敵の指揮官の欠点や短所などを槍玉にあげてその消極的側面を論ずるという手法に特徴がある。

    第14章 戦場における環境と軍隊指揮官の直観力のジレンマ
     クラウゼヴィッツの軍事的天才というモデルは、ロンメルやグーデリアン、ナポレオンのような野戦軍指揮官を意味するのであろうが、孫武の言うところの戦争の達人とは、孫武が有した広い視野を反映しており、故に、モントゴメリー、アイゼンハワー、カルノー〔訳注一七五三一八二三、フランス革命戦争期のフランス軍の軍制改革を先導した将軍〕のようなタイプがあげられるであろう。無論、戦争に求められるあらゆるタイプの資質を、たった一人の指揮官がすべて兼ね備えているということは現実的なことではない。これら両方の指揮官モデルは、妥当な補完関係をもつモデルとして常に一定の意味を持ち続けるのである。

    第15章 勇敢さと計算(打算)どちらが重要か
     孫武とクラウゼヴィッツの基本的な類似点と相違点はともに、理想的な指揮官がスクをとり勝機をつかむ際のあり方において明確に表れてくる。孫武とクラウゼヴィッツは、軍隊指揮上で直面する大きな試練のなかで、理想的な指揮官たるものは冷静に熟慮することと勇気や豪胆さを上手く統合することが必要であることについては、同意するであろう。しかしながら、そのどちらに重心を置くかについては見解を異にする。クラウゼヴィッツは、冷静に熟慮し合理的な打算をすることよりも勇気と勇敢さを賞賛し好み、孫武はこの逆をより好んだということが真実であろう。

    終章 両者は補完関係
     孫武とクラウゼヴィッツ、両者の思想は時として正反対なものとして捉えられることがある。二つの古典を隔てる文化的・歴史的な違いや、よく引き合いに出される箴言の違いなどから、孫武とクラウゼヴィッツは本質的に対立する思想であり理論であるとの結論を助長する傾向が見受けられる。
     しかしながら、両書を読み進めていけば、多くの相違点が確かにある一方で、類似点・共通点、あるいは補完関係にあるポイントなども多く存在することも明からである。孫武とクラウゼヴィッツが議論をしたならば、互いに一致せずに不同意に至る主なポイントは、「情報の価値」「欺騙の効用効果」「奇襲攻撃の妥当性」「戦場での状況予測可能性とそのコントロール・統制」などに集約されることになるだろう。
     軍の指揮官(司令官)に要求される資質、重要局面における判断力などについては、孫武、クラウゼヴィッツは基本的な部分では一致をみるであろうが、どこにその重心を置くかについては見解を異にする。
     孫武は主として、慎重にかつ用心深く十分に計算して合理的な選択肢をベースに決断する戦争術の達人を好み、クラウゼヴィッツは、一種のアートともいえる直観力を有する軍事的天才に重きを置いたのである。

  • 孫子とクラウゼヴィッツの同じところと違いについて説明している。
    戦争は政治のための手段ということを認識させられた。

  • 西宮図書館で借りる

  • 序 文

    第1章 イントロダクションーー『孫子』と『戦争論』

    第2章 叙述と研究のスタイルに惑わされるなかれ

    第3章 戦争の定義に関する誤解

    第4章 政治のリーダーシップと軍事的指導者・指揮官の微妙な関係

    第5章 戦争の合理的見積もりは可能かーー目的と手段の相互関係

    第6章 戦争の逆説的な三位一体を理解する

    第7章 「戦わずして勝つ」の理想と現実ーー流血なき勝利と決戦の追求

    第8章 兵力数がすべてか?

    第9章 欺瞞、奇襲、情報、指揮統率の位置づけの違い

    第10章 インテリジェンス・情報は『孫子』の真骨頂

    第11章 有能な指揮官は計画をそのまま遂行できるのかーー指揮と統御

    第12章 意外と多い共通点ーー軍事的指導者の役割

    第13章 何がもっとも重要かーー指揮官の資質

    第14章 戦場における環境と軍隊指揮官の直観力のジレンマ

    第15章 勇敢さと計算(打算)どちらが重要か

    終 章 両者は補完関係

  • 最初から読むと辛い、個人で比較するには難航するであろう東西の軍事学の古典の比較テキスト。

    東西の軍事学の名作を、的確だと思うのだが、文章がコンパクトすぎるためか、具体例がないためか、どうしても頭に残らない。

    きっと、何度も読み返す必要があるビジネス書だろう。
    え?私が、バカなだけ?その通り!

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