ほとんど記憶のない女 (白水Uブックス)

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  • Amazon.co.jp ・本 (209ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784560071748

作品紹介・あらすじ

わずか数行の箴言・禅問答のような超短編から、寓話的なもの、詩やエッセイに近いもの、日記風の断章、さらに私小説、旅行記にいたるまで、多彩で驚きに満ちた"異形の物語"全51編。「アメリカ小説界の静かな巨人」によるひねくれた独特のユーモア。

感想・レビュー・書評

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  • 長編の「話の終わり」(https://booklog.jp/users/junsuido/archives/1/4861823056)がなんとも不思議な感触だったので、短編集も読んでみた。短いものは数行しかないし、全体的にストーリー性は薄く、観念的寓話的で、ほぼすべての短編の主体者が何者かをはっきりさせていないというような、なんとも不可思議な短編集でして。

    表題作の『ほとんど記憶のない女』は、「仕事はできるが、どうやったか覚えておらず、昔読んだ本にメモをするがそのメモを読み返すと不思議な感覚に陥り、もう一度本を読むと違った感触でメモを残す女」の事が書かれる。私としては自分自身も「ほとんど記憶のない女」と同じだよなあ(仕事ができるということではなくて、忘れて同じ行動をするということがことが)と考えてしまうわけで。

    「女」であるという心を表そうとしているのかという短編は他にもある。
     孤独でもそこに在り続けるような『十三番目の女』。
     なんだか自虐的な『おかしな行動』。
     何も起きていなくても毎朝恐怖に怯える女と、自分も本当はそうだからと彼女を抱きとめる人々『恐怖』。
     死んだ伯母の恋人だったノックリー氏が気になり追いかけ追いかける女性の『ノックリー氏』。
     自分の悪い感情を抑えられずに周りに与える悪影響を憂う『エレイン牧師の会報』。ここで書かれている<たとえ意思があってもそれを行えないのなら、はたして意思を持つことに意味はあるのだろうか。P128><いったいどれだけの怒りを私達は上の子の中に備えてしまっただろう。どれだけの冷酷さをかつて冷酷さのかけらもなかった下の子の心にこれから植え付けていくのだろう。P132>は、私には色々と辛い((+_+))

    そんな女性たちには夫や恋人もあるのだが、二人の感性がいつまでも平行線のままという『地方に住む妻1』『肉と夫』『認める』『認めない』など。認めるか認めないかどっちだ!笑
     『認める』は、先に女が出ていったのか、男が出ていったのか。いやそうかもしれないけどそもそも原因は女だよね。そうじゃなくてその問題はそれより前に始まっていたんだよね、だからあの日のことは自分のせいだと言うなら、その前のことは自分のせいだと認めなければいけない。でも認めない、今のところは。ということをつらつらと書き連ねられている。
     『認めない』のほうは、男は女が自分の意見を聞かないんだと言うし、女はそうじゃなくて男が自分の意見を聞かないと言うし、ってお話。
     …結局誰も認めてないじゃん。
    これらは人間のわかりあえなさを抽象的に書いたのだと思うが、作者リディア・デイヴィスがポール・オースターの元妻だと知って、「オースターと話が通じなかったのか?!」などと考えてしまった 笑 
    長編小説『話の終わり』でも恋人や夫婦で共に文筆業をしているが、どうやって書くか、何を書くか、一日にどのくらい書けるかで、女性語り手とその恋人や夫とは違うということが触れられていたので余計にオースターがちらついてしまって。

    人間の業を寓話で表現している話もある。
     「欠点の多い自分たちには、欠点の多い人間のほうが親しみやすくて安心できる」という『俳優』。
     意味のない仕事(生きることの象徴?)を「いつか辞めるけど今じゃない」と繰り返す『服屋街にて』。
     人間の軽薄さが垣間見えるような『刑務所のレクリエーション・ホールの猫』。
     見られている者は、見られていると分かっていない関係『水槽』。
     気分で犬を殴りつけたり撫でたりする『町の男』。

     危険が迫っても、現実が厳しくてもただそこにいるだけしかできない話としては『ヒマラヤ杉』『天災』などがある。
     『天災』は、「海に面した家は水かさをます水に飲み込まれながら暮らしている。作物が凍ったり道が絶たれたりしながら、でもそこの住む人達はただ死を待つばかりなのだ。」というだけの、生きることへの象徴なのかもしれないが、なんというか身も蓋もない。

    実験的な書き方の短編も多い。(全部の短編が実験的とも言えるが)
     人々の行動に順番を振ってある『家族』。
     物を羅列しまくって読者が「何の話だっけ(ーー?)」となる『この状態』。
     楽しい題名のはずなのに、冷たい言葉ばかりが羅列されている『ピクニック』。
     自分の行動を並べるんだが多分心の中は題名のとおりなのだろう『混乱の実例』。

    寓話のような短編が多いのだが、そのテーマを語るのに、とにかく言葉を繰り返す表現も多い。
     『繰り返す』は「旅することは書くことで翻訳することで読むことになる。それなら読むことは読むことであり、読む時は読むだけでなく旅もしていて、旅している時は読んでいるのだから、読むことはよんでよむことである、そして読んでいる時は書いてもいるし翻訳もしているので読むのだ。」と延々と述べて読者を(@@???)にさせる。
     『ある友人』『他一名』などもそんな感じ。
     『陵辱されたタヌークの女たち』は、そんな繰り返し繰り返しが非常に不毛だがただたただ続ける人たちの寓話。
     『下の階から』は、「自分が自分を冷静に聞いたら、自分がその人(自分)じゃなくて良かったって思うだろうけれど、自分は自分なんだから自分のことを聞けないことを悲しんでもいない」のだそうだ。

    この短編集で目線の主の名前がはっきりしている唯一の小説は、旅行記のような『ロイストン卿の旅』。だが本文ではできる限り主語は削除しているので、ロイストン卿の経験なのに、ロイストン卿の存在が感じられない。かといって読者がロイストン卿の代わりに旅行に出ている感覚でもないし…。

    『サン・マルタン』は、別荘の雇われ管理人として住んだ”私たち”の日々を書いた一応小説風ではある。しかし別荘には二人いるはずなのに”私”と”もう一人”として記載するなど、もう一人の存在をわざとぼやかせているためなんとも不安定な印象に。

    小説を書くということを書いている短編もある。
     『話の中心』は、作家が話の中心を書こうとしたら書きたいことと違っていて、それとも話の中心ってものがないのだろうかと考えたりする。小説家ではなくても「中心がなくて空っぽなのではないか」という感覚はあるのかもしれない。
     『面白いこと』は、作家が自分の小説を書きながら「愛とはややこしいから面白い」と考えそんな話を書きたいんだよなと思っている。しかしこの小説で面白いところはあまりうまく書けていないし、他のところはあまり面白くないし。<でも彼への怒りはたしかに彼女にとっては面白いことだった、なぜなら今となっては、彼への愛があんなに長く続いたことより、怒りがあんなに長く続いたことのほうが、はるかに説明しにくいことだったから。P82>という終わり方は、人間の心理の面白さでもある。

    その他の小説のメモ。
     語り手の連ねる取り留めのない空想に、現実との境が曖昧になる『大学教授』。
     一人の人間にあるたくさんの面を理解しようと努力するんだけど、やっぱり自分も相手たくさんの面を一つの人だと思うことは難しい『理解の努力』。
     言葉とはそのままの意味とは限らず、だが相手がその言葉を自分に向けたということに傷ついているという『出ていけ』。
     自分の気分なんて世界の中心じゃないんだから振り回されないようになりたい『自分の気分』。

  • 狐に摘まれたようなとはこの読後感にピッタリの感想だろう。物語があるわけではないが、作品ごとに読者である私が受け取り紡ぐ、あるいは想起される出来事が不思議と湧き起こる。ここまで読者に意図的に委ねられている小説は初めて出会ったと思う。

    特に今の自分に印象深いのは、「肉と夫」の夫への諦観と突き放し、「私たちの優しさ」の夫の矮小さ、甲斐性なさ、「グレン・グルード」の妻の焦燥感、輝かしい過去への憧憬といったところかな。自分の心情や状況にリンクしてしまう。

    読む年代や置かれている状況によって一番刺さる作品は違ってくるに違いない、それほどまでに懐の広い作品群になっている。たった数ページで人間、社会の本質をつくを一文に出会ったらかと思ったら、幻想のように脳裏を掠めていく。去年他の短編小説も白水Uブックスで刊行されているとな。手に取るしかないとな。

  • 暫く前から、マグリットの≪マック・セネットの想い出に≫が表紙になっているこの本が気になっていた。

    51篇の短編が詰め込まれているこの本の最初の物語の冒頭はこうだ。

    ---十二人の女が住む街に、十三人目の女がいた。---『十三人めの女』より

    この不可思議な矛盾はルネ・マグリットが何枚も描いた≪光の帝国≫にみられる 昼間の晴天の真下の夜と似ている。

    51篇の作品の中には、30ページ近くの長いものからたったニ行のものもある。
    寓話的なものやマグリットのような一見自然にみえるがよく読むと矛盾を孕んでいるというような文章や順番をふられたもの同じ名詞や動詞を多用するもの さまざまなパターンの散文が散りばめられている。

    作者のリディア・デイヴィスは1947年生まれのアメリカ人。
    大学卒業後はアイルランドやフランスで暮らし、現在はニューヨークで教鞭をとっている。

    プルーストの『失われた時を求めて』の第一巻の『スワン家の方へ』の英訳は高い評価を受けたらしい。

    本国では彼女の本は5冊出版されているが、日本でははじめての刊行となる。

  • 普段、心の奥底に潜んでいる悲しい事忘れてしまったはずの傷ついた出来事いつもはりついているような不安。大人になったら自信を持って生きていけると思ったのに、何処かに子供の頃と変わらない臆病な柔らかい部分をひらりと描いてくれた。その高い知性と明晰な言葉でひらりとすくいあげてくれた。大切な作家、大切な一冊になりました。

  • リズム、ユーモア、奇妙な感触、イタチゴッコの様な可笑しな文章…。
    ほぉと唸ってクスッと笑って、時折フワリと感覚に訴えかけてくる、
    そんな著書にすっかりヤラレてしまいました。

    『私が興味をもつのは、つねに出来事よりも、
    その裏で人間が何を考え、どう意識が動くか、そのプロセスなのです。
    出来事は、それを見せるための方便でしかない』
    こうキッパリと言い切る著者の他作品に興味津々。
    今後、未訳作品の翻訳予定もありとの事なので、今からワクワクムズムズとしています。

    • naminecoさん
      一瞬、Lでジャクソンな俳優さんかと思いました。サミュエル違いです。
      タイトルを聞いてテンションあがりました!
      早速調べてみた所、ジョンソン氏...
      一瞬、Lでジャクソンな俳優さんかと思いました。サミュエル違いです。
      タイトルを聞いてテンションあがりました!
      早速調べてみた所、ジョンソン氏の語録がこれまたツボで、こちらにも俄然興味が。
      もしかして出版も、もうそろそろなのでしょうか。待ち遠しいです!
      2013/03/12
    • 猫丸(nyancomaru)さん
      「もうそろそろなのでしょうか。」
      と言う噂なのですが、作品社のサイとには何も載ってません。
      でも「サミュエル・ジョンソンが怒っている」の他に...
      「もうそろそろなのでしょうか。」
      と言う噂なのですが、作品社のサイとには何も載ってません。
      でも「サミュエル・ジョンソンが怒っている」の他に「ブレーク・イット・ダウン」と言うのも準備中のようです。
      2013/03/27
    • naminecoさん
      むむむ…震えて待ちます…!
      むむむ…震えて待ちます…!
      2013/03/28
  • 原題は“Almost No Memory”。たしか『翻訳文学ブックカフェ』で、訳者の岸本佐知子さんがこの本を訳したきっかけを話してらして、「そんなことあるんだ」と気になっていながら、そのままになっていた本。Uブックスになったのをきっかけに、遅まきながら読みました。

    すごく静かに、いろんな長さで、いろんな話が並べられている短篇集。物語のきっかけは「エンピツを手に読む(ミシェル・)フーコー」だったり、「肉好きな夫」というふうに、ドタバタ感や壮大感はなく、むしろ小さくてリアルだと思う。それが、次の文としりとりのようにつながりながら、少しずつずれていき、最後には、最初考えていたこととはずいぶん外れたところに飛んで行ってしまう。ちょうど、2人で話していて、「AってBだよね」「BはどっちかというとCかも」「でも、CってDで進むかも」「Eもありだよね」「Fだったらどうよ?」と少しずれた連想をつなぎ、はっと我に返って、「…ちょっと本題と外れたよね」と思い直す、微妙というか、残念というか、ぽつんと残されてしまったような感じで苦笑い…といった雰囲気に近いかもしれません。

    でも、それぞれがイタいバカ話というのでは決してなく、硬質で知的な筆致で、理論のゲームを楽しんでる感じもします。心理や行動の描写がリアルだからか、混乱はしないけど、最後には言いくるめられて「いまひとつ納得がいかないけど、まあそういうことなんだろう」という感触で終わる。小説なのかな?評論?箴言?感覚がとらえきれなくて、ぱらぱらあちこち読み進めるうちに、「あっ、終わっちゃった…」と、すとんと読了しました。

    岸本さんの端正な訳で全51篇を読みましたが、いつもの岸本翻訳作品のとおりの明晰な「訳者あとがき」によれば、原文にも趣向が凝らされたものが多いらしく、気になるものは原著をめくってみてもいいかもしれません。爆発的な面白さじゃないんだけど、じんわり面白くて、ぱらぱらめくり返したりする本です。で、この☆の数。

  • 書くことの複雑さと、生きることにつきまとう奇怪さや困難が結びついた作品が多かったような気がする。その意味で、不条理を体現しているとも思った。
    最初の「十三人めの女」に掴まれたし、「サン・マルタン」の袋小路な感じが印象的だった。

  • 3.78/499
    内容(「BOOK」データベースより)
    『わずか数行の箴言・禅問答のような超短編から、寓話的なもの、詩やエッセイに近いもの、日記風の断章、さらに私小説、旅行記にいたるまで、多彩で驚きに満ちた“異形の物語”全51編。「アメリカ小説界の静かな巨人」によるひねくれた独特のユーモア。』

    原書名:『Almost No Memory』
    著者:リディア・デイヴィス(Lydia Davis)  
    訳者: 岸本 佐知子
    出版社‏ : ‎白水社
    新書 ‏: ‎209ページ

  • 超面白い!
    フランス文学の感覚だろうと思う
    短編集で、好みは分かれるかと?
    歳を重ねるごとに、心に留まるストーリーが変わるような
    そんな面白さ

  • 内容紹介「とても鋭い知性の持ち主だが、ほとんど記憶のない女がいた」わずか数行の超短篇から私小説・旅行記まで、「アメリカ小説界の静かな巨人」による知的で奇妙な51の傑作短篇集。出版社からのコメント「とても鋭い知性の持ち主だが、ほとんど記憶のない女がいた」わずか数行の箴言・禅問答のような超短編から、寓話的なもの、詩やエッセイに近いもの、日記風の断章、さらに私小説、旅行記にいたるまで、多彩で驚きに満ちた〈異形の物語〉を収めた傑作短編集。カウボーイとの結婚を夢みている自分を妄想する「大学教師」、自分の料理を気に入らない夫の好みを記憶を辿りながら細かく分析していく「肉と夫」、思考する〈私〉の意識とメモをとる〈私〉の行為を、まったく主語のない無機質な文体で描く「フーコーとエンピツ」他、全51編を収録。「アメリカ小説界の静かな巨人」デイヴィスの、目眩を引き起こすような思考の迷路や言葉のリズム、また独特のひねくれたユーモアは、一度知ったらクセになる。

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著者プロフィール

1947年マサチューセッツ州生まれ。著書に『話の終わり』(1995)、『ほとんど記憶のない女』(1997)、『サミュエル・ジョンソンが怒っている』(2001)、【Can't and Won't:イタ】(2014)他。マッカーサー賞、ラナン文学賞などを受賞したほか、短編集【Varieties of Disturbance:イタ】(2007)で全米図書賞にノミネートされる。2014年には国際ブッカー賞を受賞した。フランス文学の翻訳家としても知られ、ミシェル・ビュトール、モーリス・ブランショ、ミシェル・レリスなどの翻訳に加え、マルセル・プルースト『スワン家の方へ』の新訳を手がけた功績により、2003年にフランス政府から芸術文化勲章シュヴァリエを授与された。ニューヨーク州在住。

「2016年 『分解する』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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