- Amazon.co.jp ・本 (286ページ)
- / ISBN・EAN: 9784560090596
作品紹介・あらすじ
大切な人の死、自らを襲う病魔など、絶望の深淵で立ちすくむ人びと……心を苛むような生きづらさに、光明を見出せるのか?
感想・レビュー・書評
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痛みがあってこそ回復がある
「傷と回復」七つの物語
ハン・ガンさんは初読。傷と回復がテーマの短編集。
抑圧。罪悪感。後悔。静かななかにある激しいもの。
「回復する人間」一度読んだだけでは、わからなかった。二度目に読んだ時に印象がガラリと変わり、”回復”というものを、力を感じられた。
「青い石」この語りがすごく好き。静謐な文章。この作品はさらに展開され長編になったそう。日本語訳がでたら読んでみたい。
「火とかげ」
徹底的に、一人、なのだ。永遠に死んでしまった部分。もう一度、生まれさせる。人間の力強さ。影から目を上げたら太陽の光に照らされるような。
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自分の語彙力の無さを露呈するようだが、まじでサイコー。
出逢えてよかった作家、作品。
ハン・ガンは3冊目。彼女の作品を読むことができる時代に生まれてよかった。
今作は、「痛みがあってこそ回復がある」がテーマの短編集。全7編とも、全部いい。
死のにおいを感じながらの生を感じる。集中して、静かな部屋で読むのがおすすめです。わたしは冬の夜、テントの中でランプの灯りで楽しみました。
明るくなる前に…かつての職場の同僚であったウニ姉さんは、弟の死をきっかけにバックパッカーになる。ウニ姉さんとの関係、自分の闘病、作家としての社会復帰をする矢先の出来事。
回復する人間…姉の葬儀で足をくじき、お灸でのやけどから感染症をおこしてしまった足。関係をうまく築くことができなかった姉との関係。回復を望んでいない私、痛みとともに回復する(であろう)足。独特な語り口で、未来から今を語っている。日本語版での表題作。
エウロパ…自分のジェンダーと、好きだった彼女の歌声。彼女と過ごした、二度とは戻れない夜を思いす。
フンザ…うまく人間関係を築けない夫、子育て、仕事を抱える私は、フンザというとある地に憧れを感じている。紛争地帯で、容易にはいくことができない土地に思いをはせながら、生活は続く…。
青い石…友人のおじさんは、一日中家で作品を作っているアーティスト。彼は、幼少期から病気を患っていて(たぶん血友病)、常に生活に制限がある。アトリエに通うようになった私は、彼に惹かれていく。
この作品超よかった…。発展した長編『風が吹く、行け』もあるようなので、翻訳お願いします。(でもこの短編だけで完結してもいい…悩む。)
左手…ある日、左手が思うように動かなくなった男性。気に食わない上司に手を挙げ、憧れの先輩の腰に手を回す
火とかげ…黄色い模様の永遠という現代で、韓国版の表題作。事故で左手が使えなくなった画家である主人公。早期回復を望むあまり、右手も使えなくなってしまった。夫のサポートなしでは生きられなくなり、夫もいらだちを隠そうともしない。画家としての再起を考えたとき、友人と再会し、思い出す10年前の登山の思い出。太陽の黄色を感じながら読みました。 -
周囲四キロに満たない小さな島で暮らしていたことがある。そこの子どもたちは年上の子の名前の下に兄(にい)や姉(ねえ)をつけて呼んでいた。初めは島中が親戚なのかと思っていたが、血縁とは関係なく、年長者への敬意を表すためのもので、大人の間でも親しい間柄ではそう呼び合うのだ。お隣の韓国にもそういうことがあるらしい。
表題作を含む七篇からなる短篇集である。その冒頭に置かれた「明るくなる前に」の「私」は、同じ雑誌社の先輩をウニ姉さんと呼んでいる。過失ともいえない不幸な巡り合わせで弟を亡くしたその人は、雑誌社を辞めてから、一年の大半をネパールやチベットの山地やタクラマカン砂漠やゴビ砂漠で過ごすようになった。
そのウニ姉さんの唐突な死を受けて、作家である「私」が彼女とのそれまでの会話を思い出す。二人が抱えていたそれぞれの悪夢について。ウニ姉さんが弟の死について自分を責め続けているように「私」には娘を連れて家を出るに至った経緯がある。怪我や病気、別離の経験を通して、大きな何かを失った者の、もがくような苦悩を潜り抜けての回復が全篇を貫く主題になっている。
表題作は未来から過去と現在を語る二人称回想視点で語られる。「あなたは」と語る話者は未来の「私」。ある喪失を起因として疎遠になった姉妹の妹が主人公。その姉の死が「あなた」を追い詰める。両親にも言えない秘密を共有した結果、姉は妹に心を開かなくなる。過去は変えることができない。ましてや相手が死者である場合には。過去と現在と未来、三つの時系列を往還して、二人にとって桎梏となった取り返しのつかない確執が語られる。生きる喜びに溢れた過去の「あなた」に語りかける未来の「私」の言葉が辛い。
「エウロパ」は、恋人関係にない男女の捻れた関係を描く。会社勤めの「僕」には、イナという女友だちがいる。なぜ、恋人になれないか。それは「僕」が女の子になりたい男の娘(こ)だからだ。「僕」にとってイナは自分がなりたい女の子だった。男として女に欲情はするものの、女のなりをしたい男。たぶん「僕」を愛しているが、過去の何かがそれに蓋をして、一歩を踏み出せない女。イナの歌う「エウロパ」の歌詞が二人の緊張感を孕んだ関係を象徴する。
「フンザ」は、非常勤の大学教師の夫と一人息子との暮らしを支えるため、睡眠を削って働く女の物語。「私」は通勤に使っている高速道路上でパキスタンにある桃源郷のような村、フンザについて考えている。逃げられない現実からの束の間の現実逃避。しかし、時が経つにつれ当のフンザが変貌してゆく。最早「私」が夢見るフンザは存在しない。二進も三進もいかない暮らしの中で夢見ることすら許されない「私」を圧し拉ぐ絶望的な状況。
年の離れた画家への思慕を、同い年になった「私」が、先に逝ってしまった「あなた」に優しく語りかける「青い石」。しみじみとした語りであるのに、ここにも日常の中に待ち受けている暴力の陰が潜んでいる。血が止まらない病気を持つ「あなた」が怪我をしないように気をつける所作をそっと見つめる「私」の中にもある残忍な心。死とは何か、生とは何かを静かに問う一篇。
「左手」は、この短篇集の中では異色作。平凡な会社員である「彼」は、ある日執拗に自分を罵る上司の口を押えていた。左手が勝手に動いたのだ。左手の暴走はそれだけにとどまらなかった。かつて憧れていた女性との出会いも、左手がお膳立てした。どうやら「彼」の左手は心の裡に押し隠されていた内的欲求の発露らしい。人は衝動に従って生きれば身の破滅を招く。だから誰もが内心を秘し隠し、社会通念に従って生きている。しかし、果たしてそれが本当に生きるということなのか、と逆説的に問いかけている。
掉尾を飾るのは回復の主題に正面から迫る「火とかげ」。「私」は、交通事故で左手が動かなくなる。それをかばって無理をした右手も傷めてしまう。家事のできなくなった妻に夫は冷たい。そればかりではない。腕の動かない画家など幽霊と同じ。そんな時、昔の友人から、写真館で「私」の写真を見た、との電話。身に覚えのない写真が気になって、写真館を訪れた「私」は、その写真を撮ってくれた男のことを思い出す。過去との思いがけない遭遇が「私」を蘇らせる。蜥蜴の尻尾が切られても元通りに生えてくるのを思い出した。
主人公は女性。誰もが現実の生活の中で傷つき、苦しんでいる。個人的な原因の背後に子どもを生み、家事をするのは女性だという考えがある。家庭内暴力の影も見え隠れする。年上の相手を呼ぶときに「姉さん」をつけるという習慣は年長者を敬う「美風」なのかもしれない。しかし、社会的な慣習は当事者が望む望まないにかかわらず一方的に服従を強いるものにもなる。それは韓国に限らない。教育勅語をありがたがる日本にも根強く残っている。
恢復期というのは、病や傷が癒えてくるころのことで、さすがに痛みも薄れ、熱も退いてくる。しかし、まだ本復には遠い、けだるいような日々の、あの原状復帰を待つ日の楽しさを期待すると裏切られる。『回復する人間』という表題には、むしろ、人間は回復するはずであり、回復されなければならない、という祈りにも似た強い思いが込められている。絶望的な状況の中、必死に生きる者たちの語られない闇にどこまで近づけたのか、と厳しく問われている気がする。 -
人の死、桃源郷を夢見ていた場所の崩壊、二度と戻らない才能、行ってしまった人。
絶えず喪失に直面している。絶えず過去を思い、記憶を辿り、けれどその行為が埋められない喪失の傷を塞いでいく。
絶えず回復している。体に備わった回復という機能。生きる限り時を刻む私たちの回復。
ハン・ガンの文章にはすべてが「これだ」という思いがする。
慎重に慎重に削がれ磨かれ、浸透圧の差がそうさせるような染み込んでくる文章。悲しみにも虚しさにも、透明でしんとした文章。小説でありながら詩であり、手紙。
中でも「火とかげ」を忘れないと思う。「黄色い模様の永遠」なんて美しい言葉。 -
「菜食主義者」で打ちのめされた(打ちのめされるのももちろん必要で良い読書)後なので、「回復! して! いる!」 と驚いた。
とても良い短編集。
回復している、と書いたけれど、回復なんてとてもできないこともあるし、したとしても全て消えるわけではない。
回復を望まない、というのもまた一つの在り方だし。
しかし、もし回復を望むのであれば、回復を願うことさえ他者の許しを得なければいけないように感じてしまうほど傷つけられている人々の背に、望んでいいんだよ、と手を当てるような作品集だった。 -
ハン・ガン5冊め。ほぼ一年前に『すべての、白いものたちの』を読んだのが最初なので、よいペースだと思う。
彼女の作品に共通して感じるのが「何かを失った人の孤独」。『回復する人間』はまさに「喪失と回復」がテーマの短編集。しかし、再生の物語にありがちな生やさしさはなく、永遠に失ってしまったものへの諦念、必死になって立ち上がろうとする壮絶さ、ギリギリのところで生きていくことを選択する人の強さを感じます。
木に対するシンパシー、夜明けに綱をもって家を出る話は『菜食主義者』にもでてきます。
『青い石』のガラスのように壊れそうな2人の物語がよかったので、これをもとにした長編『風が吹く、行け』も読んでみたい。
コロナを言い訳にいろいろ停滞してしまっている私ですが、そろそろゆっくりでも前に進まなくてはという気分になりました。
以下、引用。
空は青く、冷たい陽射しが梢の輪郭を包んでいる。しばらく頭をそらして見上げているうちに、自分がそれらを美しいと感じていることに気づく。冷酷なほど完全に、ウニ姉さんのことを忘れていたと気づく。
地下道の出口で彼女が出社する後ろ姿を見たことがあったが、忙しく行き交う人々のあいだで、彼女はまるで散歩に出てきた人みたいにゆっくりと、壊れやすい沈黙を保護しているかのような慎重な足取りで階段を上っていた。
人を燃やすときいちばん最後まで燃えるのが何かわかる? 心臓だよ。夜に火をつけた体は一晩じゅう燃えてるんだ。明け方に行ってみたら、心臓だけが残ってて、じりじり、煮えてたの。
その瞬間気づいた。何気なく打ち明けたその夢が、どんなに赤裸々な告白だったかということに。今私がいる地点が、午後三時だということに。もう時間が残されていないということに。一度しかない一日をぎゅっと握りしめたまま、どうしたらいいのかわからず、握りつぶしてきてしまったのだということに。
イナは二十三歳の冬から約六年間結婚生活をしていたが、二千日を越えるその期間中ほとんど毎日料理をしたので、残りの人生は最小限の料理だけで生きていくと決めていた。
あたしさ、最近、フラクタルに関する本、読んでるんだけどね。もうびっくりしちゃった。あたしたちの体の中で血管が広がっていくときの線も、川に支流ができて広がっていくときの線も、木が空に向かって枝を伸ばしていくときの線もみんな似てるっていうんだもん。地下鉄の出口から人波が広がっていくときも、同じような線を描くんだってよ。だったら、もしかして人の人生もそうなのかな? 空間じゃなくてさ、時間の中でよ、あたしたちの人生が、何らかの数学的な線……幾何学的に推測可能な線に沿って、進んでるのかな? って、地下鉄の出口から出るたびにそんなことを考えるようになったんだ。
十六歳の冬、私が初めて墨で描いた木のことを覚えていますか。その木は君に似ているね、とあなたが言ったのを私は覚えています。そしてあなたは、君が描く何もかもが実は君の自画像なんだとつけ加えましたね。あの日の午後ずっと、あなたの本棚を探して木の絵を見ていました。エゴン・シーレが描いたひ弱そうな若木の絵を見つけたとき、あなたの言葉をおぼろげに理解しました。すべての絵が自画像なら、木の絵は人間が描きうるいちばん静かな自画像だという思いも、そのときちらりとよぎりました。
戦って、勝たなくちゃ。それでこそ絵が描ける。
女の人に月経があるということ、血を流して子どもを産むということって、考えてみると驚異的だ。つまり、生命はいつも血の中から始まるってことなんだろうね。
私、たぶん、逆方向に年を取ってるんだと思う。二十代のころは、職場とか貯金とか、家とか家族とか、年齢に応じて何を持ってなきゃいけないかって、そんなことで頭の中がいっぱいだったの。だけど今はむしろ、自分のものなんてないんだと思うわ。時間もお金も人生も……みんな誰かからしばらく借りて使っているんじゃないのかな。
あの人はこんな人ではなかった。基本的に繊細で優しい人だった。だが、すり減った。タイヤがすり減るように、あれやこれやを体で受け止めつづけるうちに。彼と私だけがそうなのではないだろう。誰もがそのようにして少しずつ、すり減っているとは意識しないままに少しずつすり減り、車輪が滑りやすくなっていく。滑って、滑って、ある朝突然ブレーキがきかなくなる。
「私という人間がときにはよちよち歩きで、ときにはひるまず強く、ときには闇の中をようやく手探りで歩いて生きてきた記録」
痛みがあってこそ回復がある。これこそが、本書を貫く大きなテーマである。
文芸評論家シン・ヒョンチョルの言葉を借りれば「この本の関心事は、ほかの読み方をすることが困難なほどはっきりしている。それは〈傷と回復〉だ」ということになる。
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作家の西加奈子さんのポッドキャストをきっかけに読んだ(「西加奈子が選ぶ12冊の処方箋」 )。亡くなってしまった初めての彼氏が忘れられないという相談者さんに、西さんが勧めた本のうちの一冊。
清洌なイメージが時おり脳裏に閃く短編集。
『火とかげ』
回復は簡単ではない。無理やり乗り越えることはできない。それでも、木の葉を通した光がひとひらひとひら積もるように、兆していくことがある。
『左手』
社会に適応的でない感情や欲求を、無視し、封じ込め、圧殺することでしか対処できない男の物語。男性ジェンダーの負う哀しさ、痛々しさ、責任の取れなさが、「自分の意思を無視して動く左手」というトリッキーな小道具によって見事に描かれている。
他の物語の主人公である女達が、自らの感情(望ましいもの・そうでないもの全てひっくるめて)をひたすら淡々と感じきり、伴走しているのと対照的だ。面白かった。 -
ハン・ガンの短編集。
彼女の小説は凄く痛い。
痛いけれど美しい。
もしくは、痛いから美しい。 -
痛みがあってこそ回復がある。大切な人の死や自らの病、家族との不和など、痛みを抱え絶望の淵でうずくまる人間が一筋の光を見出し、ふたたび静かに歩みだす姿を描く。
生きる上での痛みや傷は、抱えたまま共に生きることでしか前に進めないのかもしれない。絶望の中でもいつか小さな光に辿り着ける人間は悲しく強いなと思う。