家康、封印された過去: なぜ、長男と正妻を抹殺したのか (PHPビジネスライブラリー H- 18)
- PHP研究所 (1998年12月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (228ページ)
- / ISBN・EAN: 9784569604060
感想・レビュー・書評
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先日、中村錦之助主演の映画『反逆者』を見たので、この「信康・築山殿殺し事件」が気になり、関連本を読んでみました。
歴史的には、信長の命令に逆らえずに、家康が苦渋の決断で妻とわが子を殺させた、ということになっていますが、この作者は、信長はとんだ濡れ衣で、実際には家康が妻憎し、わが子疎しで殺させたのだろうという仮定を立てています。
本当のところはわかりませんが、天下をとった徳川家康に都合のよいように、徳川幕府のお抱え御用学者たちが歴史を塗り替えられた可能性が高いと思うと、この事件も、家康を悲劇の人物にする後世のでっちあげかも
しれないと思えてきます。
ほかの武将たちは、記録が少ないために調査がたち遅れていることもあるとは思いますが、こと東照大権現一族の徳川家に関しては、かなりの隠蔽事実があるのではないかとは思い、通説となっている史実もマユツバものが多いのではないかと疑っています。
信長の長女、徳姫(本名は五徳)と6歳で婚約したことで、信長と家康から一字ずつをもらって信康と名付けられたほど、将来を期待されていた子供だったのに、その二人の軋轢のあおりを受けて、不憫な最後を遂げることになるとは、信康はまさに悲劇のヒーロー。
ことの発端は、徳姫が信康と築山殿それぞれの不実を訴える十二カ条を信長に渡したことからということになっていますが、政略結婚があたりまえの戦国時代、夫婦間でも寝首を掻かれかねないほど緊張に満ちた間柄であるような状態で、これほど徳川方に不利になる話を、徳姫はつかめるものでしょうか。
また、そうであるならば、徳姫はまさに徳川家にとって、前途有望な嫡男を死に追いやった憎むべき対象になるところが、信康や信長の死後も京都で徳川の庇護を受け続け、80歳まで生きたということで、生涯に渡って破格の扱いを受けています。
そこを考えても、とうてい徳川家を裏切った人物とは思えないのです。
やはり、著者の言う通り、「信康・築山殿殺し」は、徳川家の御家騒動の一環なのかもしれません。
しかし著者はシナリオライターであるため、最終章では、仮定を小説化していたのが、逆に著者の仮定の虚構性を高めているように思われました。
また、今川家出身の築山殿は、教養もあり美しい女性だったのに、家康は町民や農民など、下級の女性を好んだという変な嗜好だったことも築山殿殺害の理由の一つだと挙げていましたが、さすがに好みではないというだけでは、殺す原因にまではならないだろうと思いました。
余談ながら、天方道綱が信康の介錯をした後、逐電したというくだりから、「逐電」の意味を初めて知りました。
行方をくらまして逃げること。逃亡・出奔・疾走という意味なんですね。
「蓄電」とは全然意味が違いました。
苦労人の家康は鷹揚に見えて、実は粘り強く腹黒そうだと思っていますが、正反対の性格である破天荒な信長と付き合っていくには、目に見えない丁々発止をうまく超えて行かなくてはならず、大変だっただろうと思います。
この事件は、信長が下す、さまざまな無理難題の一つだったのか、それにかこつけた家康による息子の粛正だったのか。
いずれにせよ、この信康が生きて家康の後を継いだのであれば、また日本の歴史は変わっていただろうと思わずにはいられません。詳細をみるコメント0件をすべて表示