- Amazon.co.jp ・本 (238ページ)
- / ISBN・EAN: 9784569617183
感想・レビュー・書評
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1998年から2000年にかけて、博報堂が刊行している雑誌『広告』に掲載された記事をまとめた本です。当時の若者たちへのインタヴューと、「ひきこもり系」と「じぶん探し系」という枠組みにもとづく若者たちの心理についての考察が展開されています。
20年ほど前の若者論なのですが、本書で提出されている「ひきこもり系」と「じぶん探し系」の対立図式は、その後も著者の関心を引きつづけたようで、オタクとヤンキーについてのいくつかの著作へとつながっていきます。本書の議論はそれらの後年の成果にくらべるとまだ粗削りですが、著者が同時代の文化現象と取り組みながら理論的な整備をおこなっていった軌跡を見ることができるという点では、興味深く読みました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
2001年の本のため時代感は違いながら、自称自分探し系な僕にはなかなかに興味深い考察だった。まぁ、インタビューの人数も少なく、ちょっと無理やりではある。渋谷と原宿ってのも地方に住むモノにはわかりづらいものだし、人はその両面を持っているものだとも思うので。
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太宰治が自分探し不適応で、村上龍が自分探し適応で、村上春樹がひきこもり適応等々、「自分探し・ひきこもり」と「適応・不適応」の4象限マトリクスに表現者をプロットしたのは中々面白かったが、それ以外はちょっとどうかな?という印象
渋谷≒自分探し系、原宿≒ひきこもり系(池袋はヤンキー系か?)との事だが、各々2~3人にインタビューしただけで分類し、結論出すにはあまりにも大雑把で、こんな仕事で許されるのか?と大いに疑問が残る。
博報堂の広報誌の連載記事の単行本だが、自称引きこもりの著者が自分探し系に転身し、空気読んでコミュ力発揮して広告関係の読者ウケを狙い、軽い内容を小難しく論じただけという感じで、まとまりもないし、わかりにくくい。また携帯電話全盛ITバブル時代の話であり、その後のコミュニケーションの変化を考えると内容的にも古く参考にならない。 -
ラカン派の精神分析によれば、主体は「言葉」という他者を取り入れた結果として、ひとつの欠如を抱え込むことになる。欠如がなければ主体もない。穴がないものをドーナツと呼ばないように、「あな」がないものは主体ではない。それはただの動物である。このでの欠如とはそうしたあなのイメージであり、例えばトラウマに置き換えてもいい。こうしたイメージは苦痛ではあるが、自分の居場所を定め欲望を与えてくれるものでもある。
実際にひきこもっている若者たちはまさに、自分が空虚だという思いに苦しめられています。言い換えると、自分の空虚さこそが、もっともリアルなんですよ。ものすごく苦しいんですが、苦しみつつ満足してるとも言える。満足しているから、そこから動けない。
P60
自己イメージ(自分がほしいもの、でもよい)が定まらないものは過度にコミュニケーションを志向し、一方自己イメージが定まっているものは、他人よりはむしろ、みずからの内的過程に魅了される。
あなたがうれしいと、わたしはうれしい。【自分探し】
わたしがうれしいと、あなたはうれしい。【ひきこもり】 -
2011.7.22 インタビュー、ひきこもり系とじぶん探し系の分析は面白かったけど、所々解説が専門用語が多くて難しかった。
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ミラノ、イタリアなどを舞台とした作品です。
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原宿にいる若者と渋谷にいる若者の違いをひきこもり系・じぶん探し系という風に大胆に分けている筆者。まぁそこらへんの内容はあんまり覚えていなくて、最後に出てきた「携帯空間と主体の変容」という内容をまるまる引用してレビューとさせていただきます。
最古の携帯空間としては「本」の存在があります。視覚的なポータブル・メディアである本が普及していくにつれ黙読する習慣もついてきて、それが近代的な内省型の自意識の誕生に関わっているみたいなんです。で、まぁその次に大きな存在として「ウォークマン」が登場してきます。本が内省型ならウォークマンは分裂型の自意識に親和性があるらしいです。つまり、主体のポジションの単一性を維持したままで、世界を分裂させるためのツールがウォークマンとなる。風景を見ながら音楽を聴いていたりする。その時々でいずれか一方に没頭しつつも全体的な連続性は保たれている。
んで、第三の携帯空間を拓いたのが、そうです、携帯電話なのです。携帯電話は解離型の自意識に親和性が高い。「分裂」とは異なり、ひとつの世界に対して主体を複数に分裂させる身振りが「解離」らしい。これはウォークマンの時とことなり世界の全体性、連続性を破壊するんだって。
というのを読んで、うぉー、すげーと思ったのでほぼ引用して書いておきました。
そしてまた最後のほうに出てきたのですが「顔はコンテクストである」という話。顔が存在するのはそこに関係性がある場合のみ。逆に言えば顔のない場所には関係性は存在しない。
というお話で、これは大学で一番好きだった「余白論」のルーツになっているんじゃ?とか思いながら読んでいました。「顔は最大の余白である」というのがその教授の主張。
これが2001年の本なのでもっとこの人の作品を読みたいと思いました! -
2009.11.08. 10年弱前に出版された本だから、ちょっと古い感じはするんだけど、この分け方ってすごくおもしろいし、どこにでも誰にでも対応できるんだって、読んでてふむふむなりました。特に、著名人を配した「ひきこもり・自分探し/適応・不適応」のチャート図がおもしろい。私は明らかにひきこもり系で、それも納得してしまえる。2009年の今なら、どうなチャートが作られるんだろう。
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最初こんな二元論で分かれるものなのか?
と思ったがそれなりに論理が徹底していた。ひきこもり系と自分探し系っていうのはちょっと語弊があるように思う。紙一重だし。でもカテゴリーの内容としては納得。面白い観点で分けてみたなーと思った。 -
ヒッピーなんていわれた時代、ガングロなんていわれた時代、ゴシックロリータなんてのもあったね。ひきこもり系vsじぶん探し系は、渋谷系vs原宿系ともとっている。あゆvs宇多田なんてこともいっている。その頃の若者に密着したルポが面白い。