- Amazon.co.jp ・本 (336ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582702620
作品紹介・あらすじ
同胞の屍体処理を強いられ、自らも死を免れえなかった特殊部隊、彼らゾンダーコマンドのメンバーが絶望的な状況から送り届けた宛先すらも不確かな4枚のフィルムの切れ端。イメージの資料性を頑なに否定する者たちに抗し、そして何よりも、証言や写真がどこかへ届くはずだと信じた希望なき人びとへの応答=責任として、すべてに抗して、不完全な断片から1944年夏の絶滅の歴史を再構成せんとする強靭な意志。イメージ人類学の果敢な実践。
感想・レビュー・書評
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【はじめに】
死体処理のために移送されたユダヤ人の中からナチスによって選抜された特殊部隊(ゾンダーコマンド)。機密保持のために他の囚人からは隔離され、そしていずれ数か月の後に処刑される運命であった。本書は、アウシュビッツ強制収容所で外部にその状況を知らせるべくゾンダーコマンドによって撮影された四枚の写真を巡る論考である。
著者はフランスの哲学者で、母親はアウシュビッツからの生存者で、多くの親族がホロコーストで亡くなっている。
参加する読書会で取り上げられたので読んでみた。
【概要】
第一部は、2001年にパリで開催された展示会「収容所の記憶」のカタログ巻末に書かれた文章の再録である。同展では、ここで紹介された四枚の写真を始め、ナチス側の視点で撮影された写真や解放後に連合国軍によって撮られた写真が展示され話題と論争になったという。
この展示会は、特に著者が書いたカタログの文章に対してホロコーストを関係者の証言で描いた長編映画『ショアー』の監督であるクロード・ランズマンから「耐えがたい解釈上の思い上がり」とたたかれ、同氏が編集長を務める季刊誌にヴァジュマンとパニュによってそれぞれ批判する論文が掲載されることで論争となった。第二部は、著者からの反論をまとめたものである。
第一部も衒学的でいかにもフランス哲学っぽいが、第二部の論争はさらに輪を掛けて行き過ぎた言葉の揚げ足取りの様相を示し、いかにもローカルな非難の泥仕合のようにも見える。特にヴァジュマンとパニュの批判の論文がないために読者にとっては正否がつけづらいところでもある。
【所感】
第一部の四枚の写真の価値については、知られざるかつ信じ難き強制収容所の内実を世の中に知らしめるために危険を賭して撮られたものという意義は正しく知られるべきである。その観点でパリの展示会はホロコーストが可能であったことを今もって示すことで意味のあることであったと思う。
一方で、著者のユベルマンのカタログに寄せた文章は、「解釈上の思い上がり」が含まれてことは否定できないのではないのかとも思う。そのひとつで自分が気が付いたのが以下の記述である。数少ないゾンダーコマンドの生存者であるフィリップ・ミューラーが映画『ショアー』で語った言葉を次のように引用し、著者の非常に重要な「想像不可能なものを想像することの必要性」についての根拠として提示する。
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「ガス室による死は
およそ10分から15分かかります。
もっとも、恐ろしい瞬間は、
ガス室を開けるときの、
耐え難い、あの光景です。
人々の肉体は、玄武岩と言うのでしょうか、
まるで石の塊のように凝固しています。
そして、そのまま、ガス室の外に、崩れ落ちてくる!
何度も、私は見ましたが、
これほど、辛いものはない。
これだけは、決して慣れる事はない。
不可能でした。
そうです。想像しなければなりません。」
「耐え難く、不可能、然り。しかしそれでもなおフィリップ・ミュラーは求める、「想像しなければならない」と。すべてに抗して想像する、そのためにはイメージについての困難な倫理が我々に求められる。
---- 『イメージ、それでもなお』(pp.54-55)
しかし、実際に映画『ショアー』の中で語られたセリフは以下の通りである。
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「ガス室による死は、
およそ10分から15分かかります。
最も、恐ろしい瞬間は、
ガス室を開ける時で、
顔を背けたい、あの光景が、誰でも目に入ります。
人々の肉体は、玄武岩と言うのでしょうか、
まるで石の塊のように、一つに凝固しています。
そして、そのまま、ガス室の外に、崩れ落ちてくる!
何度も、私は見ましたが、
これほど、つらいものはない。
これだけは、決して慣れる事はない。
どうしても無理でした。
無理だった。(※インタビュワーであるランズマンの合いの手)
そうです。実際、目にしないかぎり、わからないでしょうが、
投げ込まれたチクロン・ガスは、作用しはじめると、下から上へと、拡散していくものです。
すると、その時、世にも恐ろしい闘いが始まるのです。....」
---- 『ショア―』(クロード・ランズマン) (p.279-280)
原文は「想像しなければならない」というワードが使われているのかもしれない。ただし、その意味は想像不可能性に言及するような抽象的なものではなく、『ショアー』の訳にある通り実際に目にしていないとわからないだろうという意味であり、この言葉に続けて実際に起きたことを相手に想像させるのではなく、チクロンが下から効いてくるがゆえにできるだけ上に行きたいがために人の上に人が折り重なり、結果として玄武岩の石の塊のように人が連なるのかが理解できるように丁寧に説明しているのである。
ここには明らかにユベルマンの恣意的な資料の切り取りがあり、証言に対する敬意を欠かした表現があると自分は思う。ランズマンが「耐えがたい解釈上の思い上がり」が具体的に何を指しているのかはわからないが、この部分を見て何も根拠のないものとは思えなかったのである。そして何より、原注には付記があるが、本文の流れにおいてはフィリップ・ミューラーが映画『ショアー』に登場したことも、先に引用した言葉が映画の中での言葉であることも示されていないのである。少し軽率ではなかったかと思うのである。
ランズマンも大人げないが、よほど腹に据えかねたのかも。そして、それでも屈せずに無視をすることも無難に落としどころを探すでもなく、全面的にテクストで反論するところはまさにフランス思想界的行動とも。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
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反論者の挑発的な物言いに刺激されてか著者はかなりムキになっており、反論者の論旨があまりにも杜撰なのも著者の牽強付会が少なからずあるのではと疑いたくなってしまうほどではあるけれども、それはさておき、第一部のイメージに対する歴史的資料としての扱い、第二部の「すべてのイメージ」なるものに抗したイメージの役割り、いずれも自身がとりわけ写真を、その指示するところの内容においてのみ、それも単一の静的なものとしてとらえてきたことを反省するきっかけをあたえてくれた。攻撃的な文体が疲れるのですこし気の引けるところがあるものの、また読みかえしたいとは思う。
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写真
戦争 -
アウシュビッツでは写真現像所が2つも機能していた。処刑や拷問、あるいは黒焦げの死体の写真はSS自らが現像し焼き付けした。より小型の第二現像所は「中央建設局」に属していた。1941年の末あるいは1942年の初頭に作られたこの現像所を指揮していたのはSSのディートリヒ・カーマンであり、彼の手により収容所の私設に関する写真アールシヴが出来上がった。メンゲレとその手下がアウシュビッツで行った実験の医学画像集などは戦争末期、ナチスが自分たちのアルシーヴを残らず大量に燃やした時、この苦役をになう奴隷として使われた囚人たちは混乱に乗じて、できるだけ多くのイメージを流用、隠蔽、散逸させて、救い出した。アウシュビッツの資料が組織的に破壊を受けたにも関わらず、およそ4万枚の写真が今日まで残っているということは、収容所が機能していた時代にファイルを埋め尽くしていた画像が、どれだけ膨大であったかが伺える 。
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とてもとても良い本だった。表象文化論の入門書的な位置にありながら、その射程は広い。
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我々が見るべき本。
すくなくとも無責任ではなく
学ぶべきなのです。