- Amazon.co.jp ・本 (200ページ)
- / ISBN・EAN: 9784582834758
作品紹介・あらすじ
『ルリユールおじさん』『にいさん』『あの路』など絵本世界を切り拓きつづける画家いせひでこのこの二十年間に綴ったエッセイに書き下ろしを加えて一冊にまとめました。
感想・レビュー・書評
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◆きっかけ
チェロの木をはじめ、いせひでこさんの絵本が大好きなので、彼女がエッセイを出していることを知り読みたいと思った。図書館で他館リクエスト。石川県立図書館より届いた。
◆感想
・自分では感じ得ない感覚を垣間見えて、読書の醍醐味を感じた。世の中にはいろんな価値観の人がいるのだなとしみじみ。自分の考え方が凝り固まってきたなと思ったときに読むと、少し柔軟になれるかもしれない。凝り固まったら、また読もう。
・音楽の話が多く出ており、どれも聴きたくなった。
・筆者が好きな作家、影響された作家がところどころにエピソードとして取り上げられており、どんな作家、作品なのか知りたくなった。
◆引用
・特に初山滋の絵が好きだった。暖かくて、透明で、石けんの匂いのするような色面構成だったり、線や点がまるで音楽だったり、の世界が居心地よかった。…p23
・佐藤先生は声を荒げたりいらいらしたりという態度をしたことがない。「ほう、これはいい」とか、「ふーむ、何回もやれば直(ジキ)できるようになる」とか、いいところだけをほめ、まだまだの分を励ますというやり方だった。…p105
・若き日のグレン・グールドの写真をみせられて心ときめいた。こぼれるような白い歯、額にゆれるゆるやかな巻毛、神経の原型が透けてみえるような細くて長い美しい指とそれが鍵盤をなぞる時の形の美しさ妖しさ。背中をまるめた低い姿勢の定位置からピアノの向こう側をみているような目差し。ゴールドベルクを聴く前から彼のバッハを好きになってなぜ悪い?ミーハー故に私はグールドの音楽に出会った。彼以外のピアノは聴かない。聴けない。裏切らないのもミーハーの美学。...p113
・立原道造。(中略) 夢のように甘く透明な色彩と音と光のようなことばをまき散らし、七色の色えんぴつで詩を描いたこの人は、...p114
・百閒(ヒャッケン)病の私の目には内田とか百とかの字ばかりが目にとびこんでくる。人が書いた『内田百閒と私』を買って本屋を出た。(中略) 本屋を出てもまた別の本屋に行きたくなるから不思議。人の流れに逆行して歩いていくうちに時々のぞく画廊つき本屋にきてしまった。そこは、私の好きな片山健、スズキコージ、木葉井(キバイ)悦子らの絵本に会える所。...p136
・悲しい時は助言も忠告も批評もいらない。いいわけしない自分をみつけるまでそっとよりそうことをおしえてくれたのは七歳のMだ。(中略) 人の心を知ることは……人の心とは……...p144
・深く傷ついた人にとって、なぐさめは説教に、激励は脅迫に、応援は攻撃になることさえあるのだ。関係性を無視したところでは、よかれと思ったことが中傷や評論に変質してしまうのだ。 関係性の距離を知ることはむずかしいが、もしかしたらそこに、大きな問いと答えがあるような気がする。グレイが教えてくれたのは、まさにその距離だった。(中略)写真家星野道夫(中略) 星野の写真に表現された自然や歴史や人類に対しての距離感が好きだった。そして写真と同じくらい、対象の周囲をゆっくりたどるように描く彼の文章も好きだった。その彼の誠実な生に対しての不条理さと、(中略)星野は「共生」「共存」ということばの代わりに「距離」「同じ時間」と言う。ひたすら誠実な気持ちだけが、クマの目から移写されている。(中略) グレイのことは、もう「不在」というフィルターを通してでしかその存在を実感できない。だが、東京の空の下でグレイの闘病と死に直面していたからこそ、アラスカの空の下の写真家がファインダーの向こうに見ていた、歩く母子グマや森や雪山の深く厳しい意味を、感じることができたのだ。その厳しさに気づいたことが、私にとっての「癒し」だったのだと思う。...p148
・『ルリユールおじさん』の原画展(中略)中年のフランス人の女性が入ってきて「この絵が特別に好き」と言って涙ぐんだ。絵本の三ページめ、まだ少女に出会う前のおじいさんがいつものように工房へむかうためにアパートの螺旋階段を下りているシーンだ。老職人の背中が孤独を背負っている。女性からは昼間だというのに酒のにおいがしていた。(中略)ダニエル・ミッテランさんがオープニングにご挨拶をくださった。元大統領夫人だ。「私も三十年ルリユールをやってきました。書籍というのは、感動を伝えるメッセージであり、存在や風景の描写です。息吹の芽生えの証人であり、できごとの記憶でもあります。そして、作者のかけがえのない感情を物語っているのです」。原画展を多く開催してきたが、このように美しく的確な表現に出会ったのは初めてだった。 二〇〇七年秋パリ、私の初めての海外での絵本原画展。モデルの八十歳のルリユールも毎日そっと会場に姿を現した。みんな自分の人生の物語を原画に重ねていた。...p152
・パリ展には、仏在住の日本人学校の小中学生、幼稚園児たちが、校長先生や園長先生、保護者に引率され電車をいくつも乗りついでやって来た。パリ市内の絵画教室の先生も子どもたちを連れて来た。そこには、ゲームやテレビに子育てを依存しない、子どもと共有する時間を積極的に作ろうとする姿があった。(中略)大人の声かけがないと、子どもだけでは展覧会には来れない。...p155
・アトリエにひきこもると、ふたつの曲だけに魂を傾けた。キース・ジャレットの『ケルン・コンサート』。私にも、透明に閉じたまま聴けないでいた音楽があった。二十数年のときを経て聴いたキースのピアノは、張りつめた天から数片の氷の華を舞わせたあと、しずかに雪を降らせつづけ、白いぬくもりへと私を導いていった。 もうひとつの曲は、レオン・フライシャーの『羊たちは安らかに草を食(ハ)み』だった。(バッハのコラール)。難病で左手だけの演奏と闘病を余儀なくされたフライシャーが「手の数も指の数も関係なく、この四十年間心にあったのは、音楽が音楽たらしめる根本に立ち返ること」だった(『Two Hands』ライナーノート)。楽器は「音楽の中身の延長であり、つづきであった」というフライシャーの、四十年を経ての両手のピアニストとしての演奏は、いったん途切れた水脈が地下深くで清流になり、こ滔滔(トウトウ)と溢れ出した泉のようだった。 しずかで、野太く、あたたかかった。 ふたりのピアニストの音は、『あの路』のすべての原画に、色と温度になって溶けこんでいく。 音と人はモチーフでつながっている。そして絵もまた。音が雪に吸い込まれていくように、色彩のすべてが境界線を失って溶け合う世界。キースのピアノの質感にも似た真っ白い特殊な水彩用キャンバスに行き着いたとき、天から降るようにペイネズグレー(payne's grey 藍より深い紺色)が、パレットに突然現れ、少年のコートの色となって画面を引き締めていった。 そして、森、石畳、建物、木々、水たまり、たくさんの紺青のバリエーションのあと、三本足の犬は明るい青空になって翔けていった。...p189詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
いせひでこさんのエッセイをまとめた本。
描かれるイラストのように繊細で、個性的な人だなぁと思います。
生まれながらに絵描きなんだなって感じます。 -
懐かしい
こういう渇きの源泉みたいなの
恍惚は飢餓 -
絵本作家(として私は認識している)いせひでこさんのエッセイ。
個展を見たことはありますが、額装はまったく何も見ていなかったなと思い出します。
通して思ったのは、この人は「見る」人なのだなということ。
そして思ったのは、対する自分の目のこと。
見ていない。
興味がないという言い訳で、見るのを放棄している。
何かになれる人は、なるべくして為っているのだと思います。
「なりたい」と「なる」との間には大きな隔たりがあるのだということ。
まあだから自分がどう変わるかなんて考えもしませんけれども。 -
『ルリユールおじさん』『にいさん』などの作がある絵本作家・いせひでこのエッセイ。
20年間にわたり書き連ねた文章を一冊にまとめたもの。
著者の少女時代から二人の子どもとともに歩んだ画家・絵本作家としての生活までが、紺一色で作られた装丁がぴったりの筆致で綴られている。
静かだが、どこか苛立ちと痛々しさを孕んだ思春期のようなイメージ。 -
最近ずっと小説家のエッセイばかりを読んでいたから、毛色を変えて、絵描きのエッセイを読んでみようと、装丁にひかれて手に取った一冊。ページをめくって思わず、「しまった!」と思った。
そこには、微妙な色の濃淡と鮮やかな色彩とが渾然と宿った文章があり、「絵を描くひとだから」きっと「文章はそれほどでもないだろう」というわたしの驕りを粉々に砕いて、雪のように蒔いた。
そんな、エッセイとはもういえない、短編小説があった。
オランダに、北海道に、青森に、吉祥寺に・・・・旅をさせられ、景色をみせられ、ああでも文章では足りない、絵を見たい、と切実に願った。
きっと図書館でこのひとの絵本を探すだろう。 -
絵描き、いせひでこさんのエッセイ。
とても優しいタッチの絵を描くいせさんのエッセイもやっぱり優しい雰囲気が流れている。 -
絵を書くことが本当に好きなんだな。
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絵描きさんならではなのか、この人だからなのか…文章を読むと色のついた情景が浮かんでくる。静かに心に入ってくる感じでとても私は好きです。
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絵本作家って、ふだんからこんな事を考えているんだ。著者・いせ ひでこさんは画家、絵本作家だそうだ。本書は絵本ではなく、いせさんのエッセイであり、日記のようでもある。余分な説明を削りに削られた絵本は、読む者見る者の想像を膨らませる。では、削る前はどんな状態なのだろう。創作を前に絵本作家はどんなことを考えるのだろう。本書は、「いせ ひでこ」というひとりの絵本作家の頭の中を覗かせてくれる。私の第一印象は、「文章表現がちょっと煩わしい」。繊細すぎ、精神の不安定も感じた。ただ、煩わしいとは言っても、絵本作家には必要な感性なのだと思う。その感性を文章化してくれたのだから、絵本作家の頭の中を知りたかった読者にとっては嬉しいことだろう。煩わしいと思えるほどの考えを巡らせる人だからこそ、奥行きのある絵本を生み出せるに違いないのだし。印象に残った一節がそこここにあった。>銀白色に鈍く光りながら、魚の腸のようにうなりつづける平原>エメラルド色の小さな宝石のような芽>ゾウをのみこんだウワバミ画家・絵本作家なだけに色に特別ななにかを感じてしまった。>足の甲のところにバレエシューズのように細いストラップのある華奢でスマートな赤い靴>銀色の巻き毛、白?の老画家に深紅のセーター>靴の赤、空の青、つめ草の緑、たんぽぽの黄。それに白と黒。子供がほしかった七つめのいろは………残念なことに、いせ ひでこさんの絵本を読んだことはない。だが、きっと大人が読んでも十分に楽しめ、しかも考えさせられる、深みのある作品に違いない。