謙信・景勝と直江兼続 (ベスト新書 204)

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  • Amazon.co.jp ・本 (192ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784584122044

感想・レビュー・書評

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  • (2009.01.04読了)
    著者は、歴史家でもなく、郷土史家でもなく、時代小説の作家でもない。
    どうしてこの本の執筆を依頼されたのでしょうか?わかりません。
    直江兼続は、戦国時代の上杉家の家老とでもいうところなので、記録としてもあまり残されていないようです。そこで、上杉謙信、上杉景勝について記述して、直江兼続にも触れるというスタイルをとらざるを得なかったのでしょう。
    それでも、通常、「直江兼続」と題名をつけてしまうことが多い中で、この本の表題は、正直といえます。

    直江兼続は、1560年の生まれです。父親は、坂戸城の台所回りを預かる樋口兼豊(惣右衛門)です。幼名は、与六。
    坂戸城の城主は、長尾政景。長尾政景の妻は、上杉謙信の姉。二人の子供長尾顕景は、後に謙信の養子となり、上杉景勝となる。
    樋口与六は、長尾顕景の小姓となり、上杉景勝が春日山城に移った時に付いてゆき、そのままずっと、上杉景勝とともに、生きた。
    1578年3月、上杉謙信が急死。上杉景勝のほかに、上杉景虎という養子がいたため、家督争いがおこった。上杉景虎は、北条氏康の7男で、最初人質としてやってきたのだが、謙信は、人質としての意味を失った後に養子とした。
    上杉景虎には、北条の後ろ盾があるためかなり有利であったが、上杉景勝の方が勝った。
    このとき、与六は、18歳。上杉景勝は、23歳。
    与六が、家老として采配を振るうには、出身が名家ではないので、難しかった。丁度、直江信綱が亡くなり、子供がいなかったので、未亡人のお船と与六を娶せ、直江家を継がせる。直江兼続と名乗る。
    1582年、織田信長の軍が武田勝頼を攻め滅ぼし、上杉の領地に迫って来、もう10日もあれば滅ぼされるという時に、本能寺の変が起きて助かる。
    その後は、豊臣秀吉に従い、朝鮮にも行っている。
    1598年、上杉景勝は、会津120万石の領主となり、兼続は、米沢30万石を任される。
    1600年、家康からの謀反の嫌疑をかけられるが、「直江状」と呼ばれる返書で回答する。家康がこれに怒り、会津攻めの兵を起こす。
    家康が会津に到着する前に、石田三成が兵を上げたため、家康は引き返し、関ヶ原の合戦となる。西軍が敗れたため、景勝は、家康に謝罪。米沢30万石へ減封となる。
    1619年、兼続死去。

    エピソードを一つ。(43頁)
    勝蔵という兼続の家臣が、五助なる家人を無礼討ちした。
    後日、五助の遺族が、兼続に訴え出た。
    兼続は、勝蔵に、慰謝料を支払うように命じた。
    ところが、遺族たちは、五助を返せと言って、引き下がらない。
    兼続は、「五助を返してとらそう。だが、あの世へ迎えに行く者がおらぬ。すまぬが、身内のおおまえたちに行ってもらう」といって、遺族三人の首をはねた。
    その首を河原に晒して札を立て、そこに「この者たちを使いに出すから死人を返せ」と閻魔大王に嘆願書を書いたという。

    著者 新野 哲也
    1945年、北海道小樽生まれ
    明治大学政経学部卒業
    出版社、広告会社を経て、文筆業
    (2009年1月8日・記)

  • 謙信・景勝の2代における上杉家の歴史について書かれた本。本書で一番強く主張されているのが、「戦国時代を終結に向かわせたのが、結果的に上杉家だった」ということ。武田と北条が滅亡した伏線が、御館の乱(景勝と景虎による上杉後継者争い)にあるのは間違いないところであろう。今、別の本でも読んでいるんだけど、御館の乱が勃発した歴史的背景は相当深いね。

  • この三人が好きです。
    まだ読み途中レビューは後ほど

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