乱読のセレンディピティ (扶桑社文庫)

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  • 扶桑社
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  • Amazon.co.jp ・本 (227ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784594075583

感想・レビュー・書評

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  • 乱読、言葉の印象が変わる
    日本語はアイランド・ファーム
     言葉の論理が点的 文脈を読み解ける言外の背景までは読み手の素養の中にある。俳句が日本語の論理をもっともあらわれた様式。論理的では無い日本人というレッテルが霧消した。
    乱読して、良く寝て忘れて、散歩して、ひらめきを得る。 励まされる本。

  • 私は興味のある本を手当たり次第読んでいるので、まさに乱読と言える。
    その中の偶然的な発見という題名にとても心が惹かれた。
    空腹の読書、満腹の読書というのも面白かった。
    本が沢山ある家の子供は本を読む確率が増えそうだ、という昔から持っているイメージを覆された考えだった。
    ただ今の時代、子供にとっても面白いものは沢山あるので、空腹になることがない。なかなか難しいことだなと思った。
    本を図書館などで借りずに身銭をきって、自己責任のもと本を読む人は責任が伴うからこそ深く残る。
    そして、失敗したとしてもその経験値が残る。
    これはどちらもとても価値のあることだ。
    身銭をきって自分で本を選ぶ、価値判断のできる人になりたいと思った。(もちろん図書館にもお世話にはなり続けるけど(笑))
    世の中や、人が勧める本もいいけれど、自分の価値判断のもと、純粋な気持ちで本を選びたい。
    色んな価値観に縛られることなく「知的自由人」でありたい。
    読めても意味がわかっていない本についても面白かった。
    難解な本を何度も読む、
    でもわからない。
    繰り返し読むうちにわかった気になる、
    そして自分の中での意味を見出し、
    自分の理解でわからないところを補充する。
    自分で思考するからこそ深い学びになる。
    この過程はとても価値あるものだと思う。
    わかりやすい本にはそれがないというのはわかる気がする。
    私も難しい本を読んだ時の方が記憶と心に残っていることが多い。
    それは多分その都度自分の中で噛み砕いて考えるからなんだと思っていたけど、
    ここでも似たようなことが書かれていたのでとても嬉しい気持ちになった。
    知識と行動はセットでないといけない、
    知識だけ増えても何も変わらない。
    行動(実生活)で活かしてこそ人生が豊かになる。
    ただ知識が増えれば増えるほど、ところ構わず使いたくなる時がある。
    使い所を間違ってはいけないなと思った。
    相手がいる場合は尚更、余計なお節介にならないように気をつけないといけない。
    本も元を辿れば1人の人間の思考が元になっている。
    つまりあくまで一つの考え方。一つの引き出しに過ぎない。
    そのまま素直に文章を受け止めるだけではなく、そこから自分で考えること繰り返す。

    丁寧にゆっくり読みすぎて、
    言葉の流れ、つながりを自ら絶ってしまい、底流にある言葉の意味をつかみ損ねるという考えはなるほどと思った。
    風のごとくさわやかに読む。これも意識したい。
    広く知の世界を、好奇心に導かれて放浪する。
    遠くのものに心を寄せる努力。
    セレンディピティと乱読、
    本を正しく理解するのも大切だけど、
    わからないこと、瞬発的に興味が湧いて試し読みしたもの、
    軽い気持ちで読んだのに心に残っているもの、
    それらのものは決して正しく読めていなくてもその点と点がいつか化学反応を起こすことがあるんだなとおもった。
    本には色んな読み方があっていい。
    どんな読み方がいいのか?
    それはその都度、自分の心が決めればいいんだ。
    正解を探すのではなく、
    自分で考えることを楽しみながら、
    読書を楽しみたいな。

  • 乱読、忘却、朝時間、散歩の効用に頷き。

  • 「三人会」いいなあ。「おしゃべりは乱読以上に有益」雑談の効用。人との会話、大切にしようと思った。

  • 読書の意義として一つ参考になる話やった。
    その上で、なんか好きなように読もうと思えた。

  • 乱読というのが、様々な本を読み漁るという意味合いで考えてこの本を手に取ったが、思ったよか違う内容であった。

    本の読むスピードから始まり、読み方、古典、日本語など、一つのトピックスから様々な視点を含め、自分の経験を基に読書というものについて書かれている。
    思った内容とは違ったが面白い内容であった。

  • 外山滋比古著の「乱読のススメ」という感じの本です

    そもそもなぜ今乱読かといえば、昔と違って本の出版が多くなりすぎたから、著者は説く

    だから、自腹を切って選んでどんどん乱読して、イマイチだったら途中でも投げ捨てる
    心に響くところは消えないし、そうでないことを記録してもしかたがないから、ノートは不要
    とにかく乱読乱読で、化学反応して、セレンデピティ(思いがけない発見)につなげよう

    と言った内容で、他にも、頭に詰め込み過ぎると知的メタボになるから忘却も必要とか、いろいろなことが書いてあります

    随筆的な感じであまり系統だった書き方はしていないのがビジネス書っぽくなくていい感じでした
    とはいえ、内容的には外山滋比古流なので万人向けではないとは思う

    【参考図書等】
    ・「科学者とあたま」(吉村冬彦(寺田寅彦))
    ・「小説と読者層」(Q・D・リーブス)
    ・「思想集(Speculations)」(T・E・ヒューム)

  • 574

    外山滋比古
    1923年、愛知県生まれ。お茶の水女子大学名誉教授。東京文理科大学英文科卒業。雑誌『英語青年』編集、東京教育大学助教授、お茶の水女子大学教授、昭和女子大学教授を経て、現在に至る。文学博士。英文学のみならず、思考、日本語論などさまざまな分野で創造的な仕事を続け、その存在は、「知の巨人」と称される


     自分のことをふり返ってみても、人から本をもらうのは、ありがたさ五分、めいわく五分ということが多い。礼状を書くのがおっくうだし、礼状を書くと読む気がうせることが少なくない。むやみにひとさまに本を贈るのは社交としても、あまり感心したことではない。そう感じるようになった。

     好評、賞賛を受けていた本が、再刊で見るとさほどでもない、どころか、世間から忘れられてしまっているものが少なくない。〝今年最大の収穫〟などと評せられた本が、いまほとんど名も知られなくなっているのである。そうかと思うと、出たとき欠点の多いとされた本が、いまや古典的になりかけているという例もあって、同時代批評というものの難しさを如実に示した。

    結局、やみくもに手当たり次第、これはと思わないようなものを買ってくる。そうして、軽い好奇心につられて読む。乱読である。本の少ない昔は考えにくいことだが、本があふれるいまの時代、もっともおもしろい読書法は乱読である。  人に寄贈した本ではこういう乱読がむずかしい。それで、私は、人に本を差し上げない。それに、書評もしない。これも自分を大切にしたいのである。  乱読がよろしい。読み捨てても決して本をバカにしてのことではない。かりそめの読者がしばしば大きなものを得る。

    気の小さい人は、三、四冊読みさしの本をこしらえると、自分の才能を疑う。知的なことには向いていないのだと勝手にきめつけて、本との別れをする。少しにぶいような人が、たび重なる失敗にもめげず、読むことを続けていくと、やがて開眼。本とはこんなにおもしろいものかという発見をするのである。ウサギはカメに負ける。  読書好きになったカメがリードする。

    読者はきわめつきの良書、古典のみを読むべきだというのは 窮屈 である。そういう価値ある本をもとめて苦労するのは愚かだ。

    いろいろな点で、読者は著作者より劣っていることが多いけれども、著者はつねに一方的に号令をかけ、命令するような権威者と考えるのは宗教的読書で読者にとって得るところは少ないと考えてよい。  多くの本を読んでいれば、繰り返し読みたくなる本にめぐり会うかもしれない。しかし、それは例外的だと考えた方がよい。実際に何度も繰り返して読む本が五冊か七冊もあればりっぱである。  本は読み捨てでかまわない。

     ひとつは、テレビで見た野球の試合の記事のように書かれていることがら、内容について、読む側があらかじめ知識をもっているときの読み方である。これをアルファー読みと呼ぶことにする。書かれていることがわかっている場合、アルファー読みになる。  もうひとつは、内容、意味がわからない文章の読み方で、これをベーター読みと呼ぶことにする。すべての読みはこの二つのどちらかに属する。

     乱読ができるのはベーター読みのできる人である。アルファー読みだけでは乱読はできても解読はできない。  小説ばかり読んでいては乱読できない。ベーター読みもうまくいかない。文学読書をありがたがりすぎるのは、いくらかおくれた読者である。ノンフィクションがおもしろくなるには、ベーター読みの知能が必要である。哲学的な本がおもしろくなるには、かなり進んだベーター読みの力が求められる。  ベーター読みの能力を身につければ、科学的な本も、哲学も、宗教的書物も、小説とは異なるけれども、好奇心を刺激する点ではおもしろい読みができるはずである。  ベーター読みの力のない人は、自分の親しむ一つのジャンルにしがみつく。小説好きはあけてもくれても小説を読む。新しい小説でもアルファー読みをするから、読者の成長は限られる。文学青年も、中年くらいになると、アルファー読みにあきがきて、本離れするようになる。  乱読はジャンルにとらわれない。なんでもおもしろそうなものに飛びつく。先週はモンテニューを読んでいたがちょっと途中で脱線、今週は 寺田寅彦 を読んでいる。来週は『枕草子』を開いてみようと考えて心おどらせる、といったのが乱読である。ちょっとやそっとのことでは乱読家にはなれないのです。

     乱読すればいい。  いろいろなジャンルの本を、興味にまかせて読んでいく。ひとつの専門にたてこもっていると、専門バカになるおそれがあるけれども、乱読なら、そうはならない。それどころか、専門主義、 瑣末 主義が見落としてきた大きな宝をとらえることが可能です。

    乱読の手はじめは、新聞、雑誌である。雑誌も専門誌ではなく、総合雑誌がいい。もっとも総合をうたっていても、その実は文科的色彩がつよく、教養をつけるために発行しているのではないかと思われるほどである。新聞は雑誌より雑然としているだけ乱読入門には適しています。

     近年、新聞がニュースの速報性について首座を電波にあけわたしてから、その分新聞の文化性は高まった。読者として、この変化を見落としてはいけない。スポーツ欄しか見ない、経済関係しか興味がない、政治的ゴシップばかり追っているというのは、半読者です。

     人間は失敗によって多くのものを学ぶ。ときとして成功より大きなものが得られることもある。そう考えると、乱読が、指定参考書などより実り多きものであることが多い。

     日本では一般になじみがうすく、少し知られるようになったのは、日本人のノーベル賞受賞者がテレビなどでした談話の中に出てきたのがきっかけである。もちろん科学の分野では以前からよく知られていたのだが、科学的教養の 乏しい普通の人はきいたこともなかった。きいても、わけがわからず、きき流しにしていたのであろう。科学用語ではないが、そう思っている人が少なくない。

     セレンディップというのは、のちのセイロンのことであり、いまはスリランカと呼ばれる国のこと。イギリスにとっては遠い東洋の国、不思議なことのおこる舞台としてはうってつけだった。

     戦前の日本人を苦しめた結核はながく不治の病とされていたが、完治するようになったのはペニシリンのおかげでもある。そのペニシリンがセレンディピティの産物であることはよく知られている。  一九二八年、イギリスの生物学者A・フレミングがブドウ球菌を培養中、あやまって偶然アオカビが培地に混入してしまった。ところがその周辺でブドウ球菌が消えていたことを見つけ、このアオカビPenicillium notatumに抗菌作用を示す物質のあることを発見、ペニシリンと命名した(ただし、すぐれた化学者の協力がなかったため、この発見はその後、二十年も放置され、一九四〇年になって薬品になり、抗生物質時代の幕明けとなった)。  実験中の失敗が偶然、大発見のひき金になった例は、その後、いくつもあり、科学者の間では耳新しいことではなくなってる。

     文科系の学問・研究は歴史学的方法によっている。過去のすぐれたものを次の世代に伝えるのが主たる役目である。当然、発見ということは少ない。発見しようと思って、文学作品を読むのは異常である。正しく理解して、次の世代へ伝える。受け身である。自分の考えをあらわす機会はごく限られている。セレンディピティのおこる場がない。これは学芸文化の大きなハンディキャップと言わなくてはならない。文科系の分野でも、進化、進歩はあってしかるべきである。

     百パーセントわかったつもりの本も、実は本当にわかっているのは、七、八十パーセント。のこりの不明な部分は、〝解釈〟によって自分の考えで 補填 しているのである。したがって、本を正しく読んだという場合でもかならず、自分のはたらきで補充した部分があるはずで、まったく解釈の余地のないものは、一ページも読むことはできる。

    学校で勉強する教科書に感心したということは少ないが、かくれ読みした本から忘れられない感銘を受けることはあります。

      湯川秀樹 博士は中間子理論でノーベル賞を受けた初の日本人になった。アメリカで実証されるまで、いわば仮説であった中間子理論をどうして博士が考えついたか。もちろん、本当のところはだれにもわからないが、中国古典の影響を考える人が多かった。  博士は中国文学の 硯 学 の家に生まれ、幼いときから、漢文学の古典に親しんだ。漢学者になるためではないから、乱読といってもよい読み方だっただろう。専門の物理学にとっては、なんの関係もないはずの中国古典である。  それだからこそ、セレンディピティで中間子理論の根のようなものをとらえることができたのであろう。そうだとすれば、すばらしいセレンディピティであったということが言える。

     田舎の中学校を出て東京の学校へ入ったが授業がさっぱりおもしろくない。学問をするつもりであったのが、当てが外れたような気がして、とにかく本を読もうと思った。もちろんしっかりした考えなどあったわけではない。  大学図書館にはりっぱな閲覧室がある。授業が終わると、図書館へ行って、本を借り出した。おそくまで本を読んだ。  何を読んでよいのかわからないから、図書目録をひっくりかえしたり、図書カードをあてどなくくったりした。読みたい本は司書にとり出してもらう。どんな本が出てくるか、待っているのが楽しみであった。  語源に関するものがおもしろくなって、『 東雅』という 新井白石 の語源論をしゃぶった。細かいことはわからぬまま、おもしろいということがあるのを知った。乱読である。

     中学四年のとき、国語の教科書で、吉村冬彦(寺田寅彦)「科学者とあたま」という文章を読んだ。先生の説明はおもしろくもなかったが、私はなぜか、ひどくおもしろかった。それまで、なんとなく、おもしろい文章は、小説、物語であるように感じていたのが、この「科学者とあたま」というエッセイで、文学的表現とは別の、まったく違うおもしろさのあることを知った。文学のおもしろさはウェットだが、このエッセイのおもしろさは、どこかドライなおもしろさであると感じた。ひそかに寅彦を崇拝したのかもしれないが、受験勉強のドサクサにまぎれて、忘れるともなく忘れていたのである。寄宿舎の図書室にならんでいた寺田寅彦全集がそれを思いおこさせる。

     この寅彦読みはその後、戦争をはさんで十年あまりつづき、戦後出た復刊本『寺田寅彦全集』を追ってせっせと読んだ。前後、三回くらい読んでいる。そうは言っても、頭に残っているのは恥ずかしいほど少ない。  ほかにも乱読した本がある。心理の本。学校の授業ですぐれた心理学概論をきいたのがきっかけで、それまでまるで知らなかった心理学に心ひかれ、はじめのうちは、世間の評判につられてフロイドのものを読んでいたが、そのうちに、学校で教わったゲシュタルト心理学の方がおもしろくなった。自分では寅彦の影響だと勝手にきめていたが、当たっていないかもしれい。

    足の速い人はひたすら先へ進むことのみを考えて脇目もふらない。足ののろい人はあとからゆっくりやってきて、俊足の見逃した花を見つける。そんな意味のことを寅彦はうまく書いている、アナロジーの方法である。

    一般に、乱読は速読である。それを粗雑な読みのように考えるのは偏見である。ゆっくり読んだのではとりえないものを、風のように速く読むものが、案外、得るところが大きいということもあろう。乱読の効用である。

     中国人は大昔、耳の方が目よりも高度の知性を育むことを知っていたようである。聡明。聡は耳の賢さであり、明は目の賢さであるが、順位は、聡、つまり耳の方が上である。そういうことばを移入させておきながら、日本人は耳を軽んじて、耳でする勉強を耳学問などと言っておとしめたのである。

     スポーツをすると勉強ができない、そう思っている人が多いが、スポーツをする、勉強もつよい文武両道の子どももある。スポーツの練習で勉強の時間が少ないのに、勉強ばかりしている生徒より学業の成績がよいということがある。スポーツで、頭をきれいにしているからであろう。  ある大学生は陸上競技の選手ながら、なかなかの学業成績をあげていた。もっと学科の成績を上げようと、スポーツをやめてしまった。ところが、結果は、予想を裏切った。スポーツの練習で忙しかったときより成績が下がってしまった。その人はあわてて、また陸上競技を再開、成績も復活したという。スポーツが忘却によって学習効果を高めていたのであろう。  不眠不休は大働きのように見えるが、疲れて、あまりよい成果が得られないことがあるのも、忘れる時間がないからである。

     雑談をしていて、私が散歩を日課にしているというと、何を思ったか、アマチュア画家が散歩をけなした。目的もないことをするのはいやだ、何のために散歩するのかわからない、そんな散歩はいやだ、だから散歩しないんだ、と彼は言う。  きいていてハラが立った。かりにもこうして食事をさせている。ホストに対して何たる言い方だ。彼の絵だって、なんのために画いているのか、わからないではないか。

     ヨーロッパの人は、ゆるやかな下り坂を歩いているときによい着想が得られると考える人があるようだ。汗をかいたあとがいい、という人もある。眠ったあとがよい、という説もある。

  • 読書は、貪るように手当たり次第に風のように行うことで、セレンディピティが発揮される場合がある。(自己的まとめ)

    ジャンルや趣向に囚われることなく、失敗を恐れず好奇心に導かれて放浪することで、出会えるなにか。これが二次的創造。それが読書の(人生の)醍醐味。
    でも読んで知ったつもりになってふんぞり返るだけでは無能(読書メタボ型近視)で、それを生きる力に結びつけることが重要。さらにはインプットにとどまらず、作品の生命に影響を与えるアクティブな読者になることを目指すべし。これが本当のアウトプットか。

    忘却の肯定にも勇気をもらったし、散歩と朝の効用も著者の実感から。

    乱読はまさに僕がやってることだけど、それが僕の場合セレンディピティにつながってるかは自信がないけれど、乱読の背中を押してくれたことがすでに励み。
    あとは僕がどう作品に影響を与えられるか、だ。

  • ただ、読み進める。本当に大切なことは自然と記憶している。ってことなのかなぁ。

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著者プロフィール

外山 滋比古(とやま・しげひこ):1923年、愛知県生まれ。英文学者、文学博士、評論家、エッセイスト。東京文理科大学卒業。「英語青年」編集長を経て、東京教育大学助教授、お茶の水女子大学教授、昭和女子大学教授などを歴任。専門の英文学をはじめ、日本語、教育、意味論などに関する評論を多数執筆している。2020年7月逝去。30年以上にわたり学生、ビジネスマンなど多くの読者の支持を得る『思考の整理学』をはじめ、『忘却の整理学』『知的創造のヒント』(以上、筑摩書房)、『乱読のセレンディピティ』(扶桑社)など著作は多数。

「2024年 『新版 読みの整理学』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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