- Amazon.co.jp ・本 (253ページ)
- / ISBN・EAN: 9784620314907
感想・レビュー・書評
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『サンデー毎日』1999年12月26日号から2000年12月17日号に連載されたエッセイ。池田晶子の著作を初めて読んだけれど、言葉が強い。ずばっと鋭く懐を切り込まれる感じがする。考え抜かれた思考、言葉だからだろう。共感や納得できる部分もあるが、極端な考えだなと思うところも。何となく、自分以外は皆下劣で馬鹿だといったニュアンスを言葉の端々から感じるところもあって、少し考えてしまう。恐らく、著者は考えたことをそのまま率直に書いてるにすぎないのだろうけれど。私が引っかかるものを感じるのは自分が下劣で馬鹿だからに違いない。
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36895
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頷けるところもあり、理解が至らないところもあり。目を逸らしていたかったことを、ぐさりと串刺しマーキングされ、苦い気持ちにも。
ただ、考えることをあまりに特別なものとしているようにも感じられ、しっくりこないところも多々あった。 -
一応3部作完結編というかんじかな。それぞれが独立しているのでどこから読むこともできますが、「親になること」については考えさせられましたね
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2011.11
考える日々Ⅲ
無内容な言葉はそれ自体がしめすものがないので必然的にその人自身の無内容を示してしまう
正直者の行動規範は損得勘定にはない、自分の正直に有る
正直の頭(こうべ)に神宿る
ソクラテスにとって法律にしたがって死刑になることはちっとも損なことではなかった
不当に殺されるからこそぼくの正当は証される
相田みつを人間だもの、各人勝手に好きな意味を込めてこの語を使用する
この種の自己正当化にたまらなく不潔をおぼえる
自分というものは探すのではなく考えるものだ
そういう人が探しているものはじつは自分ではなく誰それの側なのだ
夢とは魂が見る自分自身である
存在するものしか体験していない 存在しないものを体験することは絶対できないのだ
本当の神秘とは存在することとはどういうことなのか
批判とは、考える機能としての理性が自身の妥当性を吟味し判断するということ
純粋理性批判
つまり考えるということを考えること
なぜ考えるのかというと知りたいからである
純粋理性には自分と他人という区別はない他人による批判を自分への非難だろ思って感情的になる
理性とは本性が否定性なのである
理性によって否定することと感情によって非難することとは違う
心意伝承 死んだ人のことを悪くいうとその人の霊が祟る、祟ってこちらに厄災としてかえってくる
何故人を殺すのはいけないのか、外的規則による禁止の可能性が問われているのではない
何故いけないのかではなく、何故悪いのかと問うべきなのだ
そうすることによって外的規則ではない内的規範を問うことが可能になる
何故人を殺すのは悪いのかの問いに論理的に答えることは不可能である
善悪の語をはそれ自体が言語でありいかなる内実も示してはいないからである
にもかかわらず人は善悪の語によって自分が何を言っているのかを明らかに知っている これはどういうことか?
天才を理解できるのは天才だけだ
自分を超えた存在すなわち天とその人が固有の仕方つまり才能で関わることだ
天才 は意思と努力を越えている ただそれを生きるより他がないので、それをより生かそうと努力する
天才とは一割の才能、九割の努力
存在の内容と存在の形式が矛盾するのはそれが存在の真実であるから
存在とは否定したり肯定したりするものではなく単に認めるもの
単なる自己主張と存在の自己表現とは決定的に違う
始末に置けない自己顕示欲 半端な悩み方で他人を殺すより自分が死ぬとはどういうことかを考えろ
臓器アニミズムの世界においては唯一脳こそが不用のものだということ
受動的な情報は能動的に考えられてこそ知識として価値となる
自分の犬をきちんとしつけられない人は自分をきちんとしつけられない人 -
池田晶子氏の時事ネタをベースにした哲学的考察はさすがである。
着眼点、思考方向、結論に至るまでブレがなく、非常に痛快である。
一つのジャンルを確立した感すらある。
この本で池田晶子氏が「親の資格」について書いている章があるが、以前の獄中対話で指摘した「子が生まれて初めて親になる」という事実に気付き考えを修正している。
さすがである。 -
考える日々シリーズ読了。
池田さんの覚悟と自分の新たな考える癖を
得ることができた。
実生活にまったく役に立ちそうにない思われが
ちだが、このシリーズ本で得られた感性は
この先必ず自分の糧になると思う。