宗教社会学論選

  • みすず書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784622005568

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  • 20世紀ドイツの社会科学者マックス・ヴェーバー(1864-1920)の主著のひとつである『宗教社会学論集』からの抜粋。論文集である『宗教社会学論集』の構成は以下の通り。※が本書収録。

     序言※
    プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神
     プロテスタンティズムの信団と資本主義の精神
    世界宗教の経済倫理――比較宗教社会学試論
    序論※
    一 儒教と道教(※第八章 儒教とピュウリタニズムのみ収録)
    中間考察――宗教的現世拒否の段階と方向に関する理論※
    二 ヒンドゥー教と仏教
    三 古代ユダヤ教
    付論 パリサイ人

    □ 宗教社会学論集 序言

    『宗教社会学論集』は、なぜ西欧のみが「脱魔術化」を果たして近代合理主義を生みだし得たのか、その歴史的過程において宗教的エートス(宗教の教義によって形作られ、日常生活において半ば無意識的に実践される、漠然とした倫理的態度、行動規範)はいかなる役割を果たしたのか、を解明しようとする。ヴェーバーによると、合理主義に類する態度は西欧以外の地域にも現れたが、西欧の近代合理主義はそれらとは明確に区別される。その固有の特徴としては、①学問の普遍妥当性とそれを保証する抽象的体系的な方法論(数学における合理的な証明、自然科学における合理的な実験や数学的基礎付け、など)、②社会機構における合法的経営と官僚制、などが挙げられるだろう。

    では、なぜ近代合理主義の成立に宗教的エートスが寄与し得るのか。ヴェーバーによると、近代資本主義における経済的合理性の成立には「合理的な技術や合理的な法ばかりでなく、[略]、特定の実践的・合理的な生活態度をとりうるような人間の能力や素質」が必要であって、そうした「生活態度の形成にとってもっとも重要な要因は、過去においては、つねに呪術的および宗教的な諸力であり、それへの信仰にもとづく倫理的義務の観念であった」(p23)から。ここにヴェーバーの卓見がある。近代資本主義を可能にした経済的合理性と禁欲的プロテスタンティズムのエートスとの関連を考察した『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、こうした洞察のもとに書かれている。

    「序言」の末尾において当時の反知性的風潮を批判しているのが印象的だ。

    「今日の流行や作家熱は、専門家を無視するか、あるいは、「直観的に捉える人びと」の下働きに格下げしたりすることができるように考えがちである。[略]。けれども、ディレッタンティズムが学問の原理となっては、もはやおしまいであろう」(p26)。

    □ 世界宗教の経済倫理 序論

    宗教が資本主義を準備する、とはどういうことか。ヴェーバーは、マルクス主義的な唯物史観を批判して次のように書いている。

    「人間の行為を直接に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって、理念ではない。しかし、「理念」によってつくりだされた「世界像」は、きわめてしばしば転轍手として軌道を決定し、そしてその軌道の上を利害のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきたのである」(p58)。

    なにであれ人間の文化事象を解明しようとするならば、人間がそれを作り出してきた歴史的過程、決して単線的でない、予め目的論的にその方向が定められていたのではない、行きつ戻りつしてきた過程への、繊細な視線を向けることが求められるということか。

    ① なぜ、ともすると非合理的なものとみなされがちな宗教が、合理主義の形成に寄与できるのか。苦難のうちにある人間にとって、本当に耐えがたいのは、苦難そのもの以上に、「当の苦難に理由がない」という、その不条理である。よって人間は、自分が被っている苦難に対して、それを正当化する合理的な根拠を求めようとする。ここには、不条理を拒絶して、事象の背後になんらかの意味秩序を要求する、「合理性」の萌芽が見出される。そこから、「救世主信仰」(「救われるべき者が、救われるべき根拠を以て、救われるべきだ」)と「苦難の神義論」(「神が私に苦難を課す根拠はなにか」「なぜ悪を為す者が幸福に恵まれ、善を為す私が苦難を被るのか」に対する合理的な説明)とが生れることになる。こうした「合理性」(宗教的合理主義)の要求に応える仕方に応じて、個々の宗教が形作られていく。この意味では、宗教というのは、人間の文化史における「合理性」の最も原初的な現れであるともいえる。勿論これは飽くまで一般論であって、特殊時代的で特殊西欧的な事象である近代合理主義や近代資本主義の誕生に関しては、具体的な歴史の文脈に根差した議論が必要となる。では、そもそもなぜ宗教が非合理的なものとみなされるようになったのかといえば、後述するように、目的合理性の全面化による世界と生の意味喪失という状況に対して、非合理的な仕方でその意味回復をはかろうとする際に、超-人知的な観念と親和的な宗教にその役割が期待されたことが、ひとつの原因としてあるだろう。

    ② なぜ、ともすると観想的なものとみなされがちな宗教に、人間を実践へと駆り立てる力があるのか。幸福のうちにある者は存在そのまま(富、権力、名誉など)の現実性において自己を肯定することができるが、苦難のうちにある者はそうした現実に対する当為(神から課せられた使命など)の可能性において自己を肯定しようとする。したがって、被抑圧層に対して宗教は、決して観想的なものとしてのみあるのではなくて、「行為への実践的起動力」(p34)として作用する可能性がある。

    ③ なぜ、ともすると現世逃避的なものとみなされがちな宗教が、世界を合理的に変革していく(「脱魔術化」していく)実践的行為を惹起することになるのか。ヴェーバーは、西欧の市民層が担った禁欲的プロテスタンティズムに着目する。禁欲的プロテスタンティズムは、「神の救済に与る者とそうでない者との区別は予め決定されており、現世の行いによってその決定を変更することは不可能であって、しかも誰が神によって救済されるかを人間は決して知ることができない」という予定説を唱える。市民は、にもかかわらず/それでもなお/それゆえにこそ、自分が救済される側であるという確証を得ようとして、現世内において神の道具として神の意図に適った行動に徹しようとする。彼らは、被造物の合理的秩序のうちに神の意図が隠されていると考えて、自らもそうした合理的秩序に則ることで神の意図を実行しようとする。その結果、世界は資本主義が成立可能となるほどに合理化されていく。

    □ 世界宗教の経済倫理 中間考察

    あらゆる文化領域がそれぞれ個々の領域に固有の論理に則って合理化・事象化(物象化、即物化、Versachlichung)・非人格化されていくと、それらは他の領域に対して自律化していく。こうしてあらゆる文化領域が目的合理的に編制されていくことになるが、こうした合理化が文化の各領域においてなにをもたらしたか。以下に見るように、文化の各領域が目的合理的に編制されていくと、同時にそれへの反動として、事象的で非人格的な目的合理的連関の外部を志向するいわば実存的な現実否定の傾向も生じてくる。合理化=脱魔術化は、世界と生の無意味化を帰結すると同時に、喪失した意味を非合理的なしかたで一挙的に回復しようとする実存的な衝動をも惹き起こす。こうして、合理化による意味喪失と非合理的な意味の回復という相反する方向の緊張関係が問題となる。

    「このように見てくると、「文化」なるものはすべて、自然的生活の有機体的循環から人間が抜け出ていくことであって、そして、まさしくそうであるがゆえに、一歩一歩とますます破滅的な意味喪失へと導かれていく。[略]。そして、こうした現世の価値喪失に対応して〔いよいよ〕「救い」の欲求が現われてくることになるのである[略]」(p158-159)。

    こうした合理化によって生じた意味の空虚を、美、性愛、宗教といった非合理的な契機で充填しようとするのは、それなりに自然な道理ではある。しかし、本質において即物的で暴力的な政治(戦争)までもが生に意味付与する役割を担うようになったという点が、世界や生の意味というものが暴力と結合してしまったという点が、美が政治(暴力)化すると同時に政治(暴力)が美学化してしまったという点が、20世紀の異様さではないかと思う。

    ① 経済的領域について。合理化された経済とは、官僚制的に編制された組織によって事象的かつ合法的に運営される経営であり、貨幣という非人格的な価値を目的合理的に追求する。こうして、非人格的な経済と友愛的な宗教とのあいだに緊張関係が生じる。この緊張を宗教の側から解消しようとしたのが、禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理のテーゼ(「現世内での実践の目的は職業を通して神の意志を実現することであり、その神の意志は被造物の合理的秩序のうちに潜在しているのだから、現世を経済的に合理化していくことも神意に適うものとして正当化される」)であった。しかし、このアクロバティックな論理においては、宗教は友愛意識を失い、ほとんど資本主義を駆動させる装置の一部品として取り込まれてしまっているように思われる。

    ② 政治的領域について。近代国家において、行政を運営するのは非人格的な官僚機構である。また近代国家は、自己保存という事象的な実践原理のみに従属し、自己にとって有利な権力関係を維持しようとする。こうして、自己中心的で打算的な政治と普遍的な友愛を志向する宗教とのあいだに緊張関係が生じる。ところがそれと同時に、政治は、従来は宗教が担ってきた役割を代行し得るという意味で、宗教と競合関係をもつことにもなる。その役割とは、戦争を契機とする「死への意味付与」であり、さらにそこから遡及的になされる転倒した「生への意味付与」である。「戦争は戦士自身に、[略]、死の意味とその聖化に関する戦士のみに固有な感情を賦与する」(p120)。「戦場における死にさいして[略]のみ、個々人にも、自分たちはなにごとの「ために」死ぬのだということが分かっている、とそう信じることができる」(p121)。そもそも、合理化による脱魔術化とは、中世的な目的論的世界観から近代的な機械論的世界観への転換と同義であり、機械論的世界観において人間は世界との有意味な結びつきを断たれ、世界や自己の生の「意味」を問うことが不可能となる。こうしたニヒリズムの状況に置かれた近代人は、かつての人びとが宗教に「生の根拠」を求めたように、政治(戦争)に「死の根拠」(から遡及的に見出される「生の根拠」)を求めるようになる。そして国家のほうは、国民を統合し戦争へ動員するべく「死の意味付与」という役割を政治利用する。この洞察の正しさは、その後、ナショナリズムの高揚、政治的カリスマ(独裁者など)への狂信、戦死者追悼の政治利用といった現象によって、歴史的に証明されることになる。

    ③ 審美的、性愛的領域について。事象的で非人格的な目的合理的秩序が支配的な文化状況にあって、美的陶酔や性愛的恍惚といった非合理的な契機は、宗教による神秘的合一と同様に、目的合理的秩序の外部を(瞬間的にではあれ)現出させる役割を果たす。「芸術はいまや、しだいに独立の固有な価値の世界を自覚的にうちたてるようになり、[略]現世内的な救いの機能をうけもつようになる。端的にいえば、それは日常性からの、またなかんずく、理論的・実践的合理主義の増大する抑圧からの救い、そうした機能をうけもつのである」(p132)。「愛する者は、自分がいかなる合理的な努力によっても永遠に到達しえない真実の生命の核心に足を踏みおろしたと感じ、また日常性の鈍感さからも、合理的な秩序の骸骨のように冷たい手からも完全に逃れでたと感じる[略]」(p142)。このように、美、性愛、宗教はいずれも、目的合理的秩序において断片化されてしまった人間の全体性を回復しようとするロマン主義的な契機を含んでいるといえる。

    ④ 知的認識の領域について。前述したとおり、合理化による世界の脱魔術化とは、中世的な目的論的世界観から近代的な機械論的世界観への転換と同義である。では、事象の説明原理として、「目的論」と「機械論」とはいかなる点で対照的であるのか。「目的論」は「何故(why)この現象が起こるのか この現象の本質は何(what)なのか i.e.この現象にはいかなる意味があるのか=いかなる目的に向かっているのか」と問いを立てる。そして、何らかの形而上学的観念――例えば”神の絶対性”など――によって支えられる或る価値体系のネットワークの中に、当該現象を配置する。それによって、現象は超自然的な本質=意味=価値を付与され、以て「世界は斯く現象せ”ねばならない”のだ」という仕方で事象を説明することになる。他方で「機械論」は「いかにして(how)この現象は起こるのか i.e.この現象は如何なる機械論的・力学的作用によって引き起こされるのか」と問いを立てる。このとき、現象の説明の為に形而上学的観念を持ち出すことを禁欲し、現象に超自然的な本質=意味=価値を付与することを断念する。よって、「機械論」では、「why」や「what」の問いが期待するような仕方で事象を説明することはしない。こうして、機械論的世界観において人間は、世界との有意味な結びつきを断たれ、世界や自己の生の「意味」を問うことが不可能となる。

    「しかし、合理的・経験的認識が世界を呪術から解放して、因果的メカニズムへの世界の変容を徹底してなしとげてしまうと、世界は神が秩序をあたえた、したがって、何らかの倫理的な意味を帯びる方向づけをもつ世界だ、といった倫理的要請から発する諸要求との緊張関係はいよいよ決定的となる。なぜなら、経験的でかつ数学による方向づけを与えられているような世界の見方は、原理的に、およそ現世内における事象の「意味」を問うというような物の見方をすべて拒否する、といった態度を生みだしてくるからである」(p147-148)。



    ところで、その始源において世界の不条理に対する拒絶の態度から出発した合理性が、却って世界の無意味化を帰結するというのは、奇妙な逆説のようにも思える。

    ①世界には不条理な苦難が存在する。②その不条理を拒絶して、応報的=比例的=配分的なしかたで苦難の存在を合理化しようとする。③しかし現世のみでその矛盾を解消することが困難となり、現世の「外部」という形而上学的概念を創出する(プラトンのイデア界、キリスト教の彼岸)。④現世「外」に対して、現世そのものの価値が低下していく(プラトンの仮象界、キリスト教の此岸)。⑤応報的因果律が適用できるのは現世「外」のみであり、現世は機械論的因果律によって説明するしかない。⑥世界の世俗化=脱魔術化にともない、機械論的因果律によって現世=自然界の秩序を解明する科学が特権化していく。⑦こうして目的論的世界観から機械論的世界観への転換が起こり、現世が目的合理的に無意味化されていく一方で、人間的「意味」は現世「外」に疎外されていく。⑧現世において失われた「意味」を回復させようと、美、性愛、宗教、政治(戦争)などの非合理的な契機に訴える。

    こうしてみてみると、世界とはそもそもが不条理で無意味なものであったところを、「合理性」だとか「意味」だとかいうような、人間的な余りに人間的な虚構を持ち出して、強引に整序しようとしたことに無理があったようにも思われてくるが、逆に言えば、「不条理」に堪えられず「意味」を求めずにはおれないのが人間というものなのかもしれない。さらに言えば、喪失した「意味」の回復を求める衝動というのも、そもそもはじめから存在しなかったものを喪失したと思い込んでさらにそれを取り戻そうとしているわけで、二重に病的であるといえる。

    このような「意味」への拘泥からの解放を目指したのが、ニーチェの「超人」思想ということになる。合理主義を批判する立場には二通りあり得る。則ち、合理主義(世界と生から意味を剝奪し人間を抑圧する合理主義)と対立して非合理主義(世界と生に意味を回復し人間を解放する非合理主義)を志向する「生の哲学」の立場と、そもそも合理主義対非合理主義という二項対立それ自体(意味を求めることそれ自体)を無効化しようとする立場と。ニーチェは後者の立場であるといえる。ところで、「キリスト教がニヒリズムをもたらす」というニーチェの主張は、上で整理したような「合理主義が世界と生の意味喪失をもたらす」というヴェーバーの議論と重なっているように思われるが、それはどこまで妥当なのだろうか。

  • マックス・ヴェーバーは、経済や政治、社会の諸問題についてだけでなく、インドや日本の宗教までも非常に正確に把握していて驚く。

  • 「宗教はそれぞれ違ったやり方で合理主義のかたまりである」という本書の文言には目を見開かされる感じがした。

    個人的には日本人が潜在的にかなりの影響を受けていると思われる儒教とキリスト教両者の対比がかなり興味深いトピック。

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著者プロフィール

1864-1920。ドイツ、エルフルトに生れる。ハイデルベルク、ベルリン、ゲッティンゲンの各大学で法律学を専攻し、歴史、経済学、哲学に対する造詣をも深める。1892年ベルリン大学でローマ法、ドイツ法、商法の教授資格を得、同年同大学講師、93年同助教授、94年フライブルク大学経済学教授、97年ハイデルベルク大学経済学教授、1903年病気のため教職を去り、ハイデルベルク大学名誉教授となる。1904年Archiv für Sozialwissenschaft und Sozialpolitikの編集をヤッフェおよぴゾンバルトとともに引受ける。同年セント・ルイスの国際的学術会議に出席のため渡米。帰国後研究と著述に専念し上記Archivに論文を続々と発表。1918年ヴィーン大学教授、19年ミュンヘン大学教授、経済史を講義。20年ミュンヘンで歿。

「2019年 『宗教社会学論選 【新装版】』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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