- Amazon.co.jp ・本 (283ページ)
- / ISBN・EAN: 9784753102426
感想・レビュー・書評
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国家を、「物理的暴力行使の独占」として定義するウェーバーの議論を参照することからはじめて、国家の成立と維持がどのようなしかたでなされているのかを明らかにする試みです。
単なる言説のレヴェルで国家を把握しようとする現代思想の一部の立場を批判し、物理的な暴力が国家をかたちづくっていることに分析のメスを差し入れます。また同様の観点から、ホッブズの「獲得によるコモンウェルス」やスピノザの国家論を見なおし、さらにアルチュセールのイデオロギー批判やフーコーの権力分析の意義を論じています。最後に、国家が資本主義における富と労働の流れをコントロールしていることについて考察をおこなったドゥルーズ=ガタリの議論の意義を、明快に解き明かしています。
先に読んだ『カネと暴力の系譜学』(河出文庫)と基本的な主張はおなじですが、本書のほうがさまざまな思想家たちへの言及がなされていて、著者の立場から現代思想の国家論の意義が明らかにされており、興味深く読みました。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
国家論の本。ウェーバー、バリバール、ドゥルーズ、ベンヤミンなどを解きながら、国家にとって暴力装置の独占は不可欠であり、その国民国家としてのナショリズムもまた不可欠であるとする。主眼は、「グローバリゼーションによって国家はなくなる」「国民国家システムは消滅する」などという人々に対するアンチテーゼ。
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図書館の社会学の棚にあったのだが哲学書だった。しかも予想外に面白かった。
著者はマックス・ウェーバーから出発し、国家とは暴力行使という手段によって定義される、と提示する。すなわち国家とは「暴力の組織化」である。
このテーゼは「死刑」や「戦争」が「国家」によってはじめて可能になることを思えば、半ば賛成できるものである。
しかしウェーバーはじめ、フーコー、ドゥルーズなどやたらに引用が多く、この引用の多さは日本人による現代思想書の悪しき特徴だ。それでも、オリジナルな思考がないわけではないので、興味深く読み通すことができた。
「国民国家」という近代の産物と、昔の西欧に見られた王権国家との断絶はどのようにして生じたのか、とか、「富の我有化」は国家誕生に際してそれほど重要なエレメントであったろうか、とか、読んでいて疑問を持ちつつも、それだけ自分の思考が刺激を受けたとも言える。
時間がたったらまた読み返してみたいと感じるくらい、意外に優れた本だったと思う。 -
ここ数年来密度の濃い議論を展開している萱野稔人の著作。この著作で提示される、国家は暴力にかかわる運動であるという定義は、国家に従うことを自明視している人々の心性を鋭く抉るだろう。
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国家を「暴力行為という手段によって定義する」、非常に刺激的な一冊。社会契約論的な国家観を明確に否定し、国家を形成する原動力である暴力の独占をいかに国家が正当化してきたかということを、資本主義との関係に留意しつつ、理論的に解明していく。そしてその理論は、国家の先にあるものを見据えようとしている。
この本のすごいところは、論理が明快なのはもちろんだが、文章が平易なところがすごい。理論書でありながら、卑近な例を駆使しつつ僕のような頭のよくない人間にもわりとわかった気にさせてくれる。これはすごい。
理論的な側面では太刀打ちできないのだけど、やはり気になるのは、歴史学の成果、あるいは歴史の問題が軽視されているのではないか?という点だ。歴史をやっている人間の贔屓目に過ぎないのかもしれないけれど。
具体的に言うと、この理論で日本における近世国家から近代国家への移行が説明できるのか?ということだ。4章以降は「国家が現在のようなあり方になってきた歴史的なメカニズムが考察される」(p7)。しかしそこで語られる「歴史的」とは、なんというか実態のないイメージの歴史で語られている印象を持ってしまう。
どういうことかというと、まず「脱団体化」(p174)に触れたくだりで考えてみる。
「こうした「脱団体化」は、近代日本において主権が確立されるプロセスのなかにも観察されるだろう。つまり、士農工商の身分制を廃止して、主権者としての天皇の身体に住民を直接的にむすびつけたプロセスである。そのむすびつきを制度的に体現したのが戸籍制度にほかならない」(p175)
戸籍制度が「天皇の身体に住民を直接的にむすびつけたプロセス」という理解は不勉強にして初めて聞いたのだけど、果してそうだろうか?明治4年の戸籍法制定以後も、「中間団体」として近世村の存在は無視できない(実質的な徴税単位としてもしばらく機能したし、地租改正の単位でもあった)。天皇との結びつきはともかく、「個」として制度的に住民があまねく平等になっていくのは、政治的平等を見るだけでも普選以降ということにならないだろうか。
あるいは政治的平等で語るのは不適切かもしれないので、本書の論に即して「富の徴収」という観点から考えて話を元に戻してみる。徴税単位として明治政府が個人を把握するのは、やはり地租改正以降ではないか。それまでは国家が唯一国民を徴税単位として把握できる国税である地租が存在しないのだから。まあそれは細かいところだ。
もうひとつ疑問なのは、日本における近世国家から近代国家への移行の問題だ。近世においては、各藩がもっている土地は藩あるいは藩主の私有ではないと考えられていたはずだ。その近世的国制は、本書が想定する「王や皇帝はすべての領土を一元的に支配しているわけではなく、ただ間接的にのみ、つまりある地域を支配している武力集団のリーダーをみずからのもとに従わせているという仕方によってのみ、支配しているにすぎない」(p167)とする前近代国家観とは異なるものだ。
先述したような日本の近世的国制が、暴力の独占が完全ではない明治4年までの段階(すくなくとも西南戦争までは、明治政府は暴力の独占がかなりの程度達成されていたとは思えない)で、廃藩置県と身分制の撤廃を一挙に遂行できた大きな要因になるというのが歴史学のひとつの成果(鈴木正幸『国民国家と天皇制)だ。少なくとも、暴力の独占のみが主権確立の唯一条件であるとする本書の想定では、日本における主権確立過程を説明できない気がするのだ。
しかしこの点は著者の日本近世史・近代史に対する理解の不足(というよりは、ヨーロッパ国制の一般化かもしれない)によって、等閑に付されている。おそらく、現在の一律な国家形態から、逆に国家の歴史を敷衍していくこの書の手法に原因があるのだろう。本書では「国民共同体が歴史をつらぬいて存続してきた実態として観念されること」(p138)を強く否定しているが、実は著者も、道筋は違うけれど、全ての国家が「暴力の独占」という同様の道筋を歩いて現在の国家になっていると考えている点で、批判している図式と同じ図式にあてはまっているような気がしてならないのだ。それは、歴史に対する軽視から生まれているのではないだろうか。著者が引用しているさまざまな人の多くは、歴史に対する造詣も深かった。アーレントにしろ、フーコーにしろ、ウェーバーにしろ。歴史の裏づけなしに、先達の引用を中心に国家論を構築されると、どうにも空中戦をやられているような感覚というか、雲をつかむような話をされているような気分になってしまうのだ。
と、歴史やっている人間の贔屓目からの批判を不十分に言ってみたのだけれど、そうは言ってもこの書が理論的に「国家とはなにか」ということを改めて考察しようとした点は非常に興味深いから色々考えることができるし、基本的には面白く読むことができた。最後に、少し疑問なのは、多くの引用によっている点で、国家論としてどこまでオリジナリティがあるかというところだ。残念ながら僕の力量外のことでよくわからないのだけど・・・。