- Amazon.co.jp ・本 (197ページ)
- / ISBN・EAN: 9784753102518
作品紹介・あらすじ
― 変革はゆっくりと、だが着実に進んでいる ―
ネグリ=ハート(『〈帝国〉』『マルチチュード』)以降の最重要人物がついにここにベールを脱ぐ。現在、10ヶ国語への翻訳が進行中の当書は、今後、思想の〈語り口〉を一変させるほどの力を持っている。グレーバーの盟友・高祖岩三郎による初邦訳。アナーキズム&人類学の結合から生み出される、どこまでもポジティヴな世界観。
感想・レビュー・書評
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同著者の『ブルシット・ジョブ』を読んでいたこと、最近読んだ『くらしのアナキズム』で紹介されていたことが本書を手に取るきっかけになった。著者によって「思考の断片、可能な理論のための覚え書き、小マニフェスト集」と定義される本書は巻末で訳者も触れるとおり風変りな構成で、タイトルのとおり短い断片の連なりによってなり、具体的な裏付けよりはアイデアを提示することに重点が置かれている。
著者は自身がマダガスカルに暮らした際に政府機能が完全に停止していながらも半年もの間、そのことにすら気付かなかった経験やその他いくつかの例を示したうえで、国家によって安定した社会が築かれているという現代における一般的な認識に疑問を投げかける。一方で、西欧が"未開"としてきた社会では国家の存在なしで持続的な平等で安定した、ある種の"民主主義"をすでに実現していたとする。そして著者はむしろ西欧由来の「多数決制民主主義」はその起源において本質的に軍事制度であり、むしろ共同体の内的崩壊を確実にするものだと批判する。
全体を通して西欧主導で世界に展開された国家観や"民主主義"を自明とする考えを否定し、現在の世界のありようを特権主義的だと批判する。そして、「きわめて現実的な意味で、アナーキスト社会だった」"未開"とされる社会から知見を得ることができる人類学は、現代社会の「多くの通念が真実でないことを、否応なく証明する」からこそ、「アナーキズムを伝播する」ものとして、人類学とアナーキズムの親近性と可能性を示唆する。それはやはり資本主義への懐疑にもつながる。
「もしあなたが人びとを、子供として処するなら、彼らは子どものように振る舞うだろう」
「この著作に託した望みは、人に指令せず、人を罵らない知的実践の形式の可能性である」
「アナーキズムに影響されたグループは、誰も他人を自分の考え方に改宗させられないし、またそうすべきでないことを前提に運動する」
上記のように語る、根本的に権威主義と相反する著者の姿勢、当然のものとして受け入れられている社会観を覆して提示される人間社会の可能性に魅力を感じる。いまとは違う、もっと人間の本性に近い社会のあり方、「実現性のあるオルタナティヴ」は可能なのではないかという希望を抱かされる。
「根本的に、もしユートピア主義者でないなら、あなたはまぬけでしかない」詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
原著2004年刊。
人類学者デヴィッド・グレーバーは2020年に邦訳の出版された『ブルジッド・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』(2018年)が日本でも有名なのかもしれない。そちらは私も未読である。
本書は、私がこれまであまりまともに接することのなかった「アナーキズム」について詳しく書かれていて興味深かった。
確かに、暴力を独占する形で屹立する「国家」権力から逃れるためには、「国家」という幻想の概念を解体し「法」もゆるやかなものに変革しなければどうしようもない。思うに、20世紀以降の我々は、「国家」という抑圧性に満ちた強迫観念に疎外されすぎているし、むしろそんな「領土閉鎖」を突破してしまったほうが、ほんとうに自由な生き方に踏め込めるだろうという気はする。
本書が示すように、確かに、人類学的思考は、巨大組織の上から下への暴力的支配からは逸脱するような文化を発見する喜びがある。が、しばしば平和的で「アナーキー」ば集団が未開社会に可能だとしたら、やはりそれは「少人数集団」だからであることは間違いない。
私の考えでは、だから、文明国の人口を100分の1か1000分の1か、あるいはもっと少なく激減させなければ、ゆるやかなアナーキー文化は到来するとは思えない。あまりにも無数に群れすぎて、規律やら仕掛けやらが増殖しすぎて、にっちもさっちも行かなくなっているのが現代の社会だろうが、ここから抜け道はあるのか?
本書はそんな根本的な問いをあらためて呼び起こしてくれるような、ヒントに溢れた書物だった。
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まだすごく読みやすくはないけど、根本の彼のアイディアに触れられる。民主主義の非西洋の方が好み。
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マルキシズムと比べて、アナーキズムはどちらかというと、理論よりも倫理に傾きがちだと思う。この本もその傾向をまぬかれているわけではない。
本書は、タイトルに断章(fragments)とあるように、体系立てた理論ではなく、断片的なアイデアが雑然と集積しているように思える。文体も、著者自身がいろいろなことを迷い、考えながら、書いている様子がうかがえる。アナーキズムには断定的な調子よりも、こうした懐疑的な調子が似つかわしいかもしれない。グレーバーは国家の権威を相対化する。彼の戦略は暴力によって国家を破壊するという乱暴なものではない。むしろ国家が実質的にどの程度の力を持っているかを見極めることだ。そして彼はその力は一見巨大に見えても本当はきわめて限定的なものだと言う。彼は単にそれを無視せよと言う。そして彼は、活動家として、国境を超えた人々の連帯を重視する。
断片的に提起されるアイデアの中にも光るものがある。われわれは多種多様な社会体制を指して一口に「国家」というが、それは適切なのだろうか。われわれが現代その中にいるような同質な国民によって構成される近代民主主義国家と、奴隷制に基づくギリシアの都市国家を、同じ「国家」という名称で呼んでよいのか。それらは実際にはまったく別ものではないか。「民主主義」についても同様だ。われわれの民主主義と古代ギリシアの民主主義が違うのなら、古代ギリシアを民主主義の源流とするのは本当に正当なのだろうか。
アテネの民主制は実際には、平民が戦争上の必要によって重装歩兵として武装することによって、始まった。「武装した人間の意見は無視できない」からである。そこでは多数決の意味も違う。武装した百人が、六十対四十で議論した場合、「六十で勝ちました、われわれは多数派です。ハイ議論は終わり」とはならない。武装した六十は武装した四十を無視できない。数の力は厳密で、大小がはっきりしているだが、物理的な力はそうではないからだ。日本では民主主義の意味が十分に理解されていないこともあるようだ。権利は具体的な闘争の中で勝ち取られてきたものなのである。
マルキシストにとっても、過去の社会主義の失敗を考えるならば、アナーキストの思想は無視できない。アナーキストの批判が悪夢として実現してしまった歴史があるからだ。アナーキズムは理性に偏重しがちなマルキシズムに倫理を提供してくれる貴重な対話相手となりうるだろう。 -
今ある認識の枠組みを超えられるような気持ちになる。
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アイラブ!
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アナーキスト人類学のための断章
(和書)2011年05月21日 20:53
以文社 デヴィッド グレーバー, David Graeber, 高祖 岩三郎
柄谷行人さんの書評から読んでみた。柄谷さんもアナーキズムの影響を受けているようにみえる。僕自身にもその根幹に関わる部分がアナーキストだったのだと気付かされる。
アナーキストって好き。
これから研究していきたい。 -
人類学が調査して来たフィールドの中にはアナーキーな状態でちゃんと社会が回っているところもある(例ではマダガスカル)、という視点はなかなか面白かった。
しかし、本文に挙げられているような”アナーキーな状態”というのは、南太平洋の島嶼国では多く見られるような社会形態であり、政治的な意図でそうなっているというよりも、”資本”や強力な外部勢力の到来がない周辺地域ではおおよそ当てはまる構図に思われる。それをそのまま、サミットホッピングを始めとする先進国内での市民行動に当てはめるのは少し強引な気もしなくはない。
しかし、それを差し引いてもなかなか挑発的で面白い内容の本文であるとは思う。