編集 -悪い本ほどすぐできる 良い本ほどむずかしい-

著者 :
制作 : PIE BOOKS  久野 寧子 
  • パイインターナショナル
4.07
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本棚登録 : 99
感想 : 5
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  • Amazon.co.jp ・本 (408ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784756248220

作品紹介・あらすじ

すべての編集者、必読!『少年サンデー』『女性セブン』など幾多の創刊・編集にかかわってきた男が、今、次世代の編集者に伝えたい!渾身のラストメッセージがここに!

感想・レビュー・書評

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  • 《編集者は、あまりにも多く、不吉に触れたがる。そうとは気づかず、朝から晩まで、不吉を口にしている。(‪⋯‬)こういう人たちは、不吉に触れると、話が弾む、と勘違いしているのである。(‪⋯‬)要するに、人の心が読めないのである。何でもないようなことであるが、何でもないようなことの累積が、人間の品性になっていくのである》(p.265)

    《企画を考え続けることは、自分自身が、どんどん肥えていくことである。熱くなることでもある。だから、編集者は、苦しみに負けたりしながらも、企画を立てることを、日々、気にして生きていくくらいが、ちょうどいいのである。考え続けられることが、編集者の素質なのである》(p.110)

  • 編集者のパイオニアである著者が、後に続く人たちに残したメッセージ。本づくりのノウハウはもちろん、仕事の進め方から、さまざまなシーンでのマナーにいたるまで、長く仕事をしてきた人ならではの充実した内容。

  • 誰もが気にいる正しい文章なんてものはない。既存のコトバを壊して行け。

    編集者とは、を語っているが、人とのかかわり方だったり、時間の使い方だったりと誰にでも当てはまることが書いてある。

    著者の理論に「おや?」と思うこともあるけど、それも味。相手を叩くときは自分も傷つく覚悟が必要だ、という覚悟は、まさに今必要とされている。

  • 300

    編集者も、自分自身の差別化をすべきである。「ちょっと変わっている」と思わ れてもかまわない。少しでも、ヒトと違うほうがいい。小説家や学者や画家などの 著作者に、「アイツは、ほかのヤツと、ちょっと違うな」と思われたほうが、密着 しやすくなるからである。 多くの場合、著作者は、編集者よりも、世の中のことを知っている人が多い。著 作者も編集者も、同じ時代を共有しているニンゲン同士だけれども、あるジャンル においては、専門家である著作者のほうが詳しい。ひとつの分野に詳しいというこ とは、ある深みを見ている、ということである。

    作品をそのまま盗めば罪になるが、アイディアを盗んでも罪にはならない。著作 権用語で、他者の作品を作り替えることを「改変」という。この改変を、うまくや ればいいのである。いま、中国は「パクリ天国」といわれている。これは、アイディ アだけではなく、出来上がりのカタチまで真似ているからである。


    集英社のモノマネがウマかったのは、アイディアを盗んで、改変することによっ て、自社のオリジナリティを出したことである。ここから得られる教訓は、「アイ ディアに著作権はない。ウマく盗んで、ウマく改変せよ」ということである。この ことさえ守れば、いくら盗んでもいい。


    アイディアであっても、他者の真似をするには、図々しさと図太さが必要である。 しかし、恥じずに、照れずに、堂々とやればいい。そこに「差別化」された個性が あれば、真似ではなくなる。

    編集者は、普段から、モノを見る時に、いつも、「色」と「線」と「形」を気に していたほうがいい。ただ眺めるのではなく、「色・線・形」それぞれの違いを気 にしないといけない。「色」の違いが分かる人は、人の気持ちの、ちょっとした違 いも読める。色は、そういう性質を持っている。「線」が分かる人は、きれいな線 と汚い線との違いを見極められる。きれいな線は、分かりやすいということ。汚 い線は、分かりにくいということである。「形」のいい悪いが分かる人は、「用」 と「質」の関係が分かる。すべてのモノの「色・線・形」は、そういうことに繋 がるのである。

    言葉は、音楽(旋律)である。だから、リズムがない言葉は、ギクシャクしてダ メである。文章も同じである。昔から、五・七・五・七・七の「韻文」が好まれたのは、 調子がいいからである。

    文章を書く以上、ボクは、自分の文章でなければ面白くない、と思っている。 言葉も文章も「音楽」である。百人百様の音楽である。十年も逢わなかった人なのに 、隣の部屋で話している声を聞くだけで、その人だと分かることもある。同じクラシック音楽でも、ベートーヴェンのような人もいれば、バッハのような人もいる。その人の個性をあらわす「リズム」がある。このリズムを壊すことで偉くなっ たストラヴィンスキーは、音楽理論から外れた音楽である(一九一三年に作曲され 『春の祭典』は、近代音楽の傑作として知られるが、複雑なリズムと不協和音に満ち、発表された当時、大騒動になった)。そういう音楽も、立派なクラシックとしてあり得るわけだから、どの章も、その人固有の「旋律」でなければならない。

    ボクは、左翼・右翼という考え方は野暮だと思っている。左でも右でも、どちらでもいい。ヒューマニズムに対しては、左から行っても、右から行っても同じであ る。いいモノは、いいからである。ボクは、舟橋さんは小説の達人だ、と思いながらよく読んでいた。

    「誰にも恨まれない評論というのは、本当の評論ではない。自分が傷つかない文章は、本当の文章ではない」と学生最後の夏に聞いた舟橋聖一の言葉を、文章を書くたびに、必ず、思い出している。

    舟橋聖一さんは続けた。 「人の批評をすること、また、人を批評する文章を書くということは、自分が傷つくことである。自分が傷つく批評は、正しい批評である。しかし、いま、舟橋聖一を叩いている批評家や新聞記者は、自分が傷つかない立場に立ち、防弾チョッキを着て、高い所から、低い所にいる裸の者に、鉄砲を撃っているようなものである。 そうではなく、モノを言うのなら、言ったコトに対して、必ず、自分が傷つくようなモノを言っている人のことを、私は、信じたい。いまの評論界で、私を正しく批評してくれるのは、二人だけである。ありがたいと思っている。しかしあとはみんな信じない。本当の批評というものは、言ったことによって、自分が傷つくものである。傷つきたくなかったら、『沈黙は金なり』という教えに従って黙っていればいい。それも、知恵である。何かを言う以上は、賛成者もいれば、必ず、 反対者もいる。その反対者によって、自分が傷つくかもしれない。たとえ、傷ついてもいいから、言いたいことを言う。それが、批評である」

    粋な人というのは、女性でいえば、「お俠」のことである。 その昔、芸者衆がいた東京の下町・芳町や柳橋、向島などでは、粋な女性のことを「小粋」といっていた。昔から、日本人は、「こ」や「お」という接頭語をつけるのが好きである。生意気なヤツでも、ちょっとした愛情を込めて、コナマイキ(小生意気)とか、コニクラシイ(小憎らしい)などという。少々お腹が空いたことを、 コバラ(小腹)が空いた、ともいう。女性の名前も、平安時代は、藤原定子、靴子と発音していたが、次第に、「さだこ」「あきこ」というように、「し」が「こ」になっていった。 「おきゃん」は、小生意気な娘のことである。親にしてみれば、素直に にしていて欲しいのに、逆らったり、跳んだり、跳ねたり、ハラハラさせられたる。しかし、世間から見ると、どんなにお転婆でも、おきゃんは、さり気なく気配りできる、行動派の可愛い女の子のことである。

    ボクは、共産主義を悪いと思っていない。理想的で、いい主義だと思う。ただ、 それを、いたずらに信望し、実行している者たちが悪い。「主義」と「人間」は違う。共産主義を実行する過程で、人間が悪くなっていくのである。ロシアと北朝鮮を見れば分かる。カストロを見ても分かる。主義に参じることで、人間の性質が変わっていく。共産主義というモノは、統制主義・国家主義である。国が決め 、それに倣う。国があって、人がいるのである。民主主義の日本は、そうではない。 人があって、国がある。このように、中国と日本は、国の概念から違うのである。

    ヨーロッパの国旗に対する思いは、押しつけられた不自然な愛国心ではなく、自然で、民族的な愛国心である。愛国心というのは、そのものがキザだから、下手な言葉で語ると余計にキザになる。この愛国心のために、間違って悪いことをするヤツもいる。戦争が始まったりもする。しかし、フランスの国旗は、エスノロジー(民族学)的な愛国心に基づく、民族の血としての旗である。心に、国家ラ・マルセイ エーズが、自然に流れているのである。

  • 2016年の購入から足掛け4年かかり読み終わりました。
    書いてある文章が難解な訳ではありません。
    ただ込められた熱量が凄まじく処理しきれずこんなに時間がかかってしまったと思えます。

    昔、新卒での就職活動の時に編集者を目指したことがあった私。
    ただぼんやりと編集者になりたい〜なんて夢物語のような浅はかな姿勢でしたので夢破れました。
    ところがなんの縁なのか編集者ではないにしても文字に関わる業務に携わるようになりました。
    何か活かせたら、と、ド直球のタイトルのこの本を手に取ったわけです。

    これを読んで改めて自分は編集者の器ではないと思わされます。かといって完璧に諦める気持ちにはなれず、今の仕事のようにどうにか文字に関わっていきたいと思います。

    驚いたのが、豊田きいちさんの熱意と企画力。
    企画力、というか、情報をつなげ、持っている知識と結びつけ仮説を立てアイディアとするところに何度も驚かされました。
    自分が例えば企画を考えようとする時、私は0から1へと生み出すことが苦手で世にあるものを参考に考えがちで目新しさがないです。
    でも豊田さんは地味に見えるようなことをうまく膨らます連想力があると見受けました。
    豊田さんが考えた企画を実際に見たい!と思うことも。

    そんな想像力豊かでありながら、責任感も強く、編集者たるものの覚悟や姿勢などに対しても考えがあるところが素晴らしく、優れた仕事人というのはひとつが突出するのではなく多面的に物事を見れるバランス力が優れた人なのかもと思いました。

    私は本で読んだ程度の知識しかお二方ともないですが、豊田きいちさんの話を読みながら、スタジオジブリの色彩設計として有名な保田道世さんのことが思い出されました。
    彼女も、クリエイティブな視点だけでなく進行管理や、経営、後輩育成など幅広い視野を持って仕事に取り組んだ人だったのでした。

    未熟な社会人である私からしたら驚くことばかりで、もう、人間の作りが違うんだろうと思うこともあるけれど少しでもこの偉人たちから学んで目の前の仕事に活かしていきたいと思いました。

    印象に残るのは
    ・P237 「速やかに・爽やかに・率直に」
    ・P264 「不吉は言うべからず」
    ・P360 「二水会」の話

    仕事人間かと思いきや、人情があり親しまれるところも保田さんに共通する気がします。

    著者の豊田きいちさんへの尊敬の念が伝わる編集ノートも読み応えがありました。
    著者がいたからこそ、豊田きいちさんの考えがこうして残り、同じ文字を扱う仕事の人々へと継承され生きていくと思うので著者の功績も素晴らしいなと思いました。

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