- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784758432634
作品紹介・あらすじ
いたずら好きの小ぎつね"ごん"と兵十の心の交流を描いた「ごん狐」、ある日、背中の殻のなかに悲しみがいっぱいに詰まっていることに気づいてしまった「でんでんむしのかなしみ」など、子どもから大人まで愉しめる全20話を収録した、胸がいっぱいになる名作アンソロジー。
感想・レビュー・書評
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「手袋を買いに」は、可愛い子ぎつねの、初めてのおつかいの話。
母ぎつねは、友達がこうむった災難から、人間を恐れている。
「ごん狐」は、悲しい感違いとすれ違い。
私は小学生のとき、感想画を書いた。
「おじいさんのランプ」は、新しいものにケチを付けたがる年寄りへの反発から共感し、やがて取り残されていく者の哀しみを知るが、刻々と変わっていく時代をしなやかに生き抜くたくましさで明るく読み終える、大好きな話だった。
他は、初めて読む作品だったが、大人が主人公のものも含め、説教くささは無いにもかかわらず、何か人生の深いところを語っている気がした。
「こぞうさんのおきょう」は、かわいくて微笑ましい。
この話に出てくる大人は『人間はいいもの』と思えるのである。
だから、こぞうさんも、うさぎにおまんじゅうをわけてあげるのをわすれないのだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
昔は「狐」みたいな作品は嫌いだったんだけど(「だから何なんだ!」とか思って。)、今年取って読むと、ぐっとくる。
「小さい太郎の悲しみ」「疣」「久助くんの話」なども、そういえば子どもの頃、こういうことってあったな、と切なさがよみがえる。
一番感慨深かったのは「和太郎さんと牛」。和太郎さんが離婚に至る経緯を、若いころは「心の冷たい嫁だな」としか思わなかった。しかし、今読むと、お嫁さんが和太郎さんのお母さんの傷ついた目を見て気持ち悪く思うのはどうしようもなく、和太郎さんにもその「どうしようもなさ」が分かる。
お嫁さんも悪い人じゃない。和太郎さんもお母さんもいい人だ。それでも一緒にいられないということは、ある。
和太郎さんは子どもが欲しかったが、たとえ優しい人でも、やはり母の眼を気味悪く思うかもと考えると、再婚することができない。
そんな和太郎さんの心を慰めるのが牛であり、酒であることが、大人になると痛いほどよくわかって、ただただ涙。
「おじいさんのランプ」にしても、今まで自分が信じて、糧ともしていたものが否定され、失われる寂しさ、悔しさは大人こそよくわかる。
南吉は今どきの子どもには難しいかも。
ぜひ、大人が読むべき。 -
覚悟していたより、読みやすかった。文体が古いと言うこともなく、残酷な描写が多いと言うこともなく。
出て来たのは、互助精神を忘れない素朴な大人たち、もうすぐ"特別"ではなくなる子供たち。
全体的に、最後は前を向いているお話ばかり。そこが良かった。貧しさとか寂しさとか、そう言うものを受け入れて、それでも自分から前に進まなくちゃいけない。そう言うお話がたくさんでした。 -
蔵書点検で1週間閉まる前の図書館へ行き、同居人のカードの空きで、文庫本を4冊ほど借りてもらう。文庫の棚からぐさぐさ抜いた1冊が、『新美南吉童話集』。
新美南吉といえば「ごん狐」(これはたしか小4の教科書で読んだ)、そしていつどこで読んだか忘れてしまったが狐の子が母狐に片方の手を人間の手にしてもらって町へ行く「手袋を買いに」。でも、それ以外に、新美南吉の書いたお話を読んだことはまったくなかった。
南吉の童話は、どれもあたたかく、おもしろかった。
南吉が、1913年うまれで(だから、今年は生誕100年だ)、昭和18年に30の誕生日を目前にして結核で亡くなっていることは、初めて知った。そんなに若死にだったのか。去年が生誕100年だった松本竣介も早くに亡くなったけれど、それでも36だ。父の父、私からすると祖父にあたる人も、戦争が終わった頃に結核で死んでいる。「時代がよければ、死ななくてすんだ」と父から何度も聞いているだけに、南吉を亡くした家族も、そういう思いだったかもしれないと思う。
「ごん狐」は、私が読んだのと同じように、小学校の教科書に相当載っているのだろう。そして、ほぼこの一話で「新美南吉」の名は記憶されているのだろう。「新見とくれば南吉だって」と、新見姓の主人公が「南吉くん」と名指されるシーンが、『プリティが多すぎる』にあったよな…と思い出しながら読んでいたが、ごん狐の南吉のほうは「新美」である(新見じゃない)。
火縄銃でごんを仕留めた兵十が「ごん、おまえだったのか」と言うセリフがあったと記憶していたが、おそらくそれは教科書向けの表記なのだろう。この童話集では「ごん、おまいだったのか」になっていた(タイトルも、教科書では「ごんぎつね」だった気がする)。
この童話集では、「ごん狐」、「手袋を買いに」、「狐」と、巻頭に並んだ3編は狐が出てくる話。さらに、「和太郎さんと牛」「牛をつないだ椿の木」「幼年童話10篇」「小さい太郎の悲しみ」「久助君の話」「疣」「花をうめる」「おじいさんのランプ」が収録されている。
幼年童話の一篇、「こぞうさんの おきょう」は、暮れに読んだお経の詩とはまた違うのだが、和尚さんが病気になって、かわりに小僧さんがお経をよみにいくのに、忘れないよう道々よむのが
キミョ
ムリョ
ジュノ
ライ
(p.109)
このシンプルなお経!そして、途中うさぎと遊んですっかり忘れてしまったお経のかわりに、うさぎがおしえてくれたのが
むこうの ほそみち
ぼたんが さいた
さいた さいた
ぼたんが さいた
(p.111)
小僧さんはこのうたを、忘れたお経のかわりに法事でうたう。
そして、「疣」の話に出てくる、「よいとまァけ。」のかけ声。松吉と杉作のきょうだいと町から遊びにきた克巳は、池へたらいを持ち出して、たらいにつかまり、足をけって遊んでいるうち、へとへとになる。しかしそこは池のまん中で、どうにかして土堤へ戻らなければどうしようもない。兄の松吉の口をついて、「よいとまアけ。」とかけ声が飛び出す。
▼よいとまけ─それは、田舎の人たちが、家を建てる前、地かためをするとき、重い大きいつちを上げ下ろしするのに力をあわせるため、声をあわせてとなえる音頭です。それは田舎のことばです。町の子どもである克巳にきかれるのは、はずかしいことばです。しかし、いまは、松吉ははずかしくもなんともありません。必死でした。
「よいとまァけ。」
と、水をけって、また松吉はいいました。
すると弟の杉作がなき声で、
「よいとまアけ。」
と応じました。杉作も必死でした。
「よいとまアけ。」
松吉は声をはりあげました。
するとこんどは、杉作ばかりでなく、克巳までがいっしょに、
「よいとまアけ。」
と応じました。
克巳もまた必死だったのです。
三人とも必死でした。必死である人間の気持ちほど、しっくり結びあうものはありません。
松吉は自分たち三人の気持ちが、一つのこぶしの形にしっかり、にぎりかためられたように感じました。そうすると、いままでの百倍もの力がぐんぐんとわいてきました。
「よいとまアけ。」
と松吉。
「よいとまアけ。」
と杉作と克巳。
きゅうにたらいがはやくなったように思われました。もう土堤はすぐそこでした。そら、もう、葦の一本がたらいにさわりました。(pp.157-158)
「よいとまけ」は、こういうときの子どものかけ声にもなったんやなと知る。
「牛をつないだ椿の木」で、「お前は、自分の仕事のことばかり考えていて、わるい心になっただな」と海蔵さんをたしなめるお母さんの言葉には、私自身もたしなめられているようで、じーっと自分の心をふりかえってみたりした。
若く死んだこともあって新美南吉の作品の数は多くないというけれど、ほかのお話も読みたいなあと思った。
本を借りたときにも、本を読んでいる間も、すっかり忘れていたが、次の3月に海月文庫である椿崎さんの作品展は「言葉から形を─新美南吉さんの童話をもとに─」だった。同居人には、だから読んでるのかと思ったと言われたが、すっかり忘れていた。DMにつかわれてる作品写真は「花をうめる」。南吉の言葉の世界を、椿崎さんがどう作るのか、ものすごくたのしみ。
(1/27了) -
2020.4
温かくて悲しくて清いお話。新美南吉さんの心そのものが出ているんだろうな。読んだ後はなにか静かだけど強いものが広がるような。幼年童話はシンプルな短いお話ながらかわいらしくてほのぼのしてて。春みたい。 -
往来堂書店「D坂文庫2014冬」から。
惹句では「子どもから大人まで愉しめる全20話」となっているが、国語の教科書に採用された『ごん狐』など主に前半が子ども向け、後半が大人向けという印象だ。主人公に据えられているのは動物、少年、大人と様々だが、少年の成長を取り上げた『久助君の話』や『疣』がワタシにはもっとも響いた。成長の過程の中でちょっぴり苦い思いをしながらもじゅわっと胸にしみるようなお話は、ワタシ達大人の少年に対する眼差しをあたたかくやわらかいものにする。そして、この童話集を読み終えたとき、ワタシ達大人の気持ちもあたたかくやわらかくなっていることに気づく。 -
「ごん狐」のようにラストがもの悲しいお話、「手袋を買いに」のような心がほっこりするようなお話と、なんとなく2パターンに分けられる感じの1冊だったな・・・。
「幼年童話」の短編たちもそんな感じ・・・これは小さいときに読みたかったなあ。 -
目次:ごん狐、手袋を買いに、狐、和太郎さんと牛、牛をつないだ椿の木、幼年童話、小さい太郎の悲しみ、久助君の話、疣、花をうめる、おじいさんのランプ、解説 悲しみに耐える力……谷悦子、エッセイ 思い邪無し……谷川俊太郎
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いわゆる童話なんですが、大人がふつうに読めてしまうのは、まずその、著者の感性の清いところにあります。子ども時分の、まだ大人のように理性の厚い鎧で身が守られていない瑞々しい、感じやすいこころので感じられる、ここのうちの変容や生成されるウソじゃない感情は、簡単な言葉で表現されていますが、ほとんどそういったこころのあり様とブレがないように感じられました。
そして、次に、作品の根底にある新美南吉の思想が深かったことにあります。悲しみといったものをとくによく表現しています、それも、物悲しいというか、うら寂しいというか、そういったものまでを含む、幾種類もの悲しみをいろいろな作品で一つずつ(二つ以上ある作品もあったかも)扱っている。人は、孤独を通してそこから自己犠牲と報いを求めない愛の築設につとめなければならない、というような南吉の思想があって、そこには確信があったでしょう、だからこそ、しかりと子どものこころを導くような、そして大人の心にも修正を欲する気持ちをおこさせうような効果があるのだと思います。 -
甘く切ない余韻を残す文章の数々。
これは大人が読むべきものだ。人間の良い部分よりも、愚かで哀しい部分を強く心に刻み込まれる。 ともすれば独りよがりになる自分、良くない方に傾きかける心を修正するために、ときどき読もうと思った。「かなしみは だれでも もって いるのだ。 わたしばかりでは ないのだ。 わたしは わたしの かなしみを こらえて いかなきゃ ならない」
いくつか戦争(ロシア)に向かう戦争高揚する描写もある。作者の本意であったのだろうか。