- Amazon.co.jp ・本 (408ページ)
- / ISBN・EAN: 9784766416244
作品紹介・あらすじ
[コンパクト版で読む福澤諭吉の本] 新字・新かなを使用した読みやすい表記、わかりやすい「語注」「解説」による編集。畢生の大作達意の文章、豊富な事例、緻密な分析で、文明の本質を説き明かし、あらためて日本の近代化の歩みを問い直す。『学問のすゝめ』、『福翁自伝』と並ぶ、福澤諭吉の代表作。
感想・レビュー・書評
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福沢諭吉 「 文明論之概略 」
現代語訳がないので 読みにくいが、原文の持つ小気味良さや 福沢諭吉の危機意識の高さはストレートに伝わってくる。終章「自国の独立を論ず」と緒言は 啓蒙のレベルでなく、もはや警告
福沢諭吉の命題は「一身独立して一国独立す」〜そのための民心改革の基本思想を「文明論之概略」で 論じた感じ。民心改革の柱は 多事争論と交際(=対等で横断的なコミュニケーション)
名言
*利を争うは即ち理を争うことなり
*天下の急務は先ず衆論の非を正だすに在り〜衆論の向かう所は天下に敵なし
福沢諭吉にとって 文明は 物質的というより、精神的なもの。具体的には多事争論により洗練された人の智徳や衆論、変革した旧習(惑溺)、改良した人間交際、独立した国家 を 文明と位置づけしているように読める
伊藤正雄 氏の現代語訳は読んでみたい
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本書の内容は、福沢が学問の尊さを、幅広い見識とユーモア、そして彼独特の皮肉で「文明」について語った、痛快な一冊です。
福沢は、すべての物事を論ずるに於いて、まずその事物の名と性質とを詳らかにし、結論を導き出すという合理的な態度で文明論を語っています。
冒頭、福沢は幕藩体制の意識から脱却できない「古風家」と、盲目的崇拝に近い形で洋風にかぶれた「改革派」の極端な例を挙げて、当時の日本人の考え方と精神を分解し、その矛盾点を鋭く指摘しています。
真の文明化を目指す福沢は、「古風家」と「改革派」のどちらにも属さず、孤高の思想家となって時代に立ち向かっていた観すらあります。
この福沢の姿勢は、人民について次のように述べたことからも察することができます。
何れの国も、何れの時代においても、多くの人間は人畜無害にして、自分の考えを持たずに一生を終えるものだ。もし、賢い人間が出て来て己の考えを述べようものなら、異端妄説として袋だたきに合うであろう。
ここで福沢は、異端妄説とされるものが文明を進歩させてきたとの持論を展開しています。
ガリレオや廃藩置県を例にとり、過去に異端妄説であったものは、現在では常識なのであるから、現在の異端妄説は、未来の常識であるという論理的展開がなされています。
日本が文明化できないのは、多くの一般民衆にとって異端妄説とされる考え方に対して物事の理を談ずることなく、退ける態度にあると指摘しています。
福沢は国際社会を観た結果、文明化した西洋と、半開の亜細亜という差ができた原因は、物事の理をもって新たに物をつくる工夫ができる実学を実践出来るか否かにあると結論づけました。
学問と工業、そして人智によって成り立っているのが当時の国際社会における文明であるから、日本はこれらのことに邁進して西洋と並ぶ文明国になるべきであるとしています。
ただ、福沢の話はここで終わりません。
西洋諸国は、国内に於いて争乱が絶えず、外交上のルールというのも権謀術数のひとつであるようなものだから、最善の目標とは言いがたいとしています。
文明というのは限りないので、西洋諸国を超えるような最善の道があるという、巨視的な立場で論じています。
では、そもそも文明とは何か?
福沢は文明を目に見えるものと、内側にあって目に見えないものとに分けて解説しています。
目に見える文明とは、衣食住から政令法律などで、例え風俗や法制度・軍制などを西洋化したとしても、本当の意味で文明化したとはいえないとしています。
目に見えないものとは、文明の精神と言い換えることができ、その精神とは「人民の気風」であると定義しています。
この気風というのは、国論などによって確認できますが、政府の命に人民が服しているだけでは、気風は育たないため、人民自らが智徳が発生するようにならなければならないとしています。
人民の智徳が自ら発生させるためには、独裁の政府又は神権政治では達成できないとしています。
福沢の目には、亜細亜の諸国民が次のように映っていました。
神権政治のために活発な気運を失い、卑屈になってしまって文明の進歩の跡を見ることができない。支那のように神権政治による独裁体制においては、人民はそれぞれの交わりよりも、独裁者のためだけに力が注がれるため、自立した気風は育たないと。
人民の智徳進歩においては、為政者が人民を牛馬のように酷使して搾取するようでは期待できないとしているのです。
ここで福沢は日本に目を向けて国体について論じます。
日本においては、皇室と武家政権という二つの元素によって国体が成立していたため、自由の気風があり、支那よりは西洋の文明を取捨しやすいとしています。
では、国体とは何か?
「国体とは、人民共に世の中の移り変わりを経て懐古の情を同じくする者」としています。歴史・伝統・文化などに対する共通の帰属意識こそが国民を結びつける紐帯であるため、共通意識の崩壊は国体の崩壊につながるということになります。
懐古の情の代表的なものとして、福沢は天皇をあげています。
日本が開闢以来、国体が変わったことがないという論拠は、天皇にあるとしていることからも伺えます。
ただし、天皇家=国体を維持するために、古風束縛の考えにとらわれている人びとを批判しています。
日本全体の人民が愚かであれば、国権を維持することはできない。古風な考えに固執せず西洋の文明を取り入れ、国体をさらに輝かせることを考えるべきだと説いています。
この考え方は、民権の強化に関して延長され、皇室の虚威を減少して民権を強化することは、全国の政治に実力がつくため国力の増大とともに皇室も強固になり、皇室を保護する上での最善策としています。
福沢は皇室を国家におけるシステムとして評価していたようで、皇室の貴さは日本古来の貴さではなく、その働きに貴さがあるとしています。皇室を維持して、この力を活用することに大きな効能があるため、君国並立の国家が日本の文明に適しているとしています。
福沢は政治体制における確固としたイデオロギーはなく、「すべての政治は唯便利のために設けたるものなり」といった考え方を提示しています。
国の文明に便利であれば、政府の体制は、立憲君主制であっても共和制でもどちらでもよく、その文明化という目的を達成できるような政治体制であれば、名を問わずに実を取るべきであるとその理由を述べています。
福沢は単なる思想家ではなく、「実学」を専らとしました。
人びとの交際における熟議が社会を活性化させるため、多事争論の間に自由の気風が存在し、人々の見識は開かれると説いています。
人民の会議、演説、出版などは、交際を助ける者であって、目的になるのはあくまでも交際を通じて見識がひらかれる人間の成長にあるとしています。
福沢が教育界や言論界で活躍した、その原動力は、人間の成長による、真の文明化を目指す強い意志にあったのではないかと、つぶさに感じた次第です。 -
『学問のすすめ』と同様、バランスの取れた考え方や無思考への批判などを、色んな局面で繰り返す内容のイメージ。
それに加えて、西洋文明の紹介や日本文明の起源を解説するなど。
巻之四 第八章「西洋文明の起源」
巻之五 第九章「日本文明の起源」
が最も興味深かった。ちょうど2012年の選挙が盛り上がっている頃に読んだので、日本の政治環境と民主主義について考えた。