ひれふせ、女たち:ミソジニーの論理

  • 慶應義塾大学出版会
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  • Amazon.co.jp ・本 (448ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784766426359

作品紹介・あらすじ

「女性嫌悪」とされるミソジニーとは何か?

家父長制を維持するための「魔女狩り」のメカニズムを明らかにする
革新的なフェミニズム思想のベストセラー

「ミソジニー」についての初めての研究書であり、フェミニズム思想を刷新した注目作がついに翻訳。

なぜアメリカ大統領選でドナルド・トランプがヒラリー・クリントンをおさえ勝利したのか?
なぜ性犯罪をおかした男性は免責される傾向にあるのか?
なぜ「インセル」による女性の殺人事件が起こるのか?
なぜ女性の証言は信用されないのか?
なぜ堕胎を理由に女性は罰せられるのか。
なぜ戦時中の虐殺において、レイプがかならず含まれるのか?
なぜ女性たちはいつも「与える」ことを期待されるのか?

社会生活と政治の中にある「ミソジニー」を、分析哲学的アプローチで探究することで「ミソジニー」を定義し直し、それがどのように機能しているか明らかにする。

【各誌レビューのご紹介】

私は長いあいだ性差別とミソジニーについて考え、教えてきたが、この本は新鮮な視点を開いた。たとえば、信念としての性差別と、執行戦略としてのミソジニーを説得力のある方法で区別している。(中略)ミソジニーというものが主として、女性の与えるサポート、サービス、ケアへの要求についてなのだという本書の議論は、たしかに、この激動の時代の物語の少なくとも大きな一部分だろう。(マーサ・ヌスバウム、哲学者・倫理学者)

[著者が]ミソジニー理解を明らかにして、議論のために現実社会の実例をフル活用していることは、称賛に値するし、すぐれた哲学の典型となっている。(マリ・ミッコラ、哲学者)

絶好のタイミングで出版された本書は、私たちの前に現われる、いびつで根深い現象の理論的枠組みを提供してくれる……この本によって、個々のミソジニストを明らかにすることは難しいが、ミソジニーを根絶することはもっと難しいのだと気づくことができる。(カルロス・ロサダ『ワシントン・ポスト』)

ミソジニーとは何か。性差別とはどう違うか。なぜ男性優位の状況が続いているように見えるのか。[この本の中に]答えがある。著者の主張によると、ミソジニーは女性に対する男性の敵意や憎悪ではなく、男性の支配にあらがう女性をコントロールし、罰することだという。 ミソジニーは、家父長制を強化する女性に報酬を与え、そうでない女性を罰する……この本は、私たちが社会で果たす役割、出生時に割り当てられ、ほとんど疑問視しない性的役割に注目し、そしてその役割を拒否する人々、とりわけ女性をどのように罰するか示している。(ショーン・イリング『Vox』)

分析道徳哲学のツールを展開して、ミソジニーの論理を印象的に説明している。重要なのに残念なことに長いあいだ軽視されてきた[ミソジニー]というトピックについて今後議論するための参照点になることは間違いない。(ジョン・タシウラス、道徳・法哲学者)

ミソジニーを個人の偏見の問題だけでなく、文化全体のシステムととらえることに対し、説得力のある議論を示している。(マックス・フィッシャー、アマンダ・トーブ『ニューヨーク・タイムズ・ザ・インタープリター・ニューズレター』)

感想・レビュー・書評

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  • 「女性嫌悪(ミソジニー)と政治」本でひもとく 男性の地位・特権、脅かせば罰 三浦まり・上智大学教授|好書好日(2020.07.29)
    https://book.asahi.com/article/13581208

    『ひれふせ、女たち――ミソジニーの論理』 | KUP立ち読みのススメ
    http://tachiyomi.keio-up.co.jp/archives/69

    慶應義塾大学出版会 | ひれふせ、女たち | ケイト・マン 小川芳範
    https://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766426359/

  • 「ミソジニー」という言葉はこれまで一部では使われていて「知る人ぞ知る」といった感じであったが、学術的に論じられることはほとんどなかった。本書は、主に2016年のアメリカ大統領選挙と女性を狙った大量殺人事件を念頭に置きながら、ミソジニーの概念を精緻化しようと試みている。家父長制から逸脱している女性へのサンクションとしてミソジニーは機能しているという著者の指摘は面白い。「与える人間(human giver)」や「ヒムパシー」など、ミソジニーに関連する用語も提唱されており、この本からいろいろなことが考えていけるのではないかと思う。

  • ミソジニーは、家父長制秩序の内側で、女性の隷属を監視し、施行し、男性優位を支えるために働くシステムとして理解すべしであると著者は述べる。

    家父長制秩序とは何か。それは、男は女からかしずかれ、世話をされ、注目され、ちはほやされ、甘やかされ、セックスを許容させなければならず、これに反するいかなる契機も許さないという暗黙の了解のもとにある社会システムのことである。システムだから、その動機は個人的に女が嫌いだとか、女が苦手だといった、個々に還元され矮小化されるものとならない。一言でいえば、男性優位社会を陰で支えるバックボーンである。そこでひとたび女が社会的に優位な立場へ進出しようものなら、もう大変だ。男どもが総出で大バッシングの嵐となる。それが端的に表れたのが「ミソジニー」という現象だ、と著者は語る。

    ミソジニーは、単なる女性嫌悪、女性蔑視という個人の内面的、心理学的契機に押しとどめられない。むしろ、システムとして働く一連の作用だと捉えたほうがいい。それはどんなシステムか。女は常に男たちの奴隷であり、下位の存在としてその立場を常にわきまえていなければならず、常に男たちに与え続けなければならない存在だとして、徹底してこき下ろすシステムだ。女たちが俺たち男どもにひれ伏し、媚を売り、ちやほやし、下手に出ている分には、全く構わない。常にそうあるべきだ。しかしひとたび男どもを足蹴にするような態度、例えば無視するとか、自分に微笑みかけない、やらせてくれない、気にかけてくれないなどなど、他の男どもから馬鹿にされ、「非モテ」認定されかねない、と焦り、恐怖に駆られようものなら、たちまち怒り心頭、許せない、制裁を加えるべきだ!となる。そして実際に行動を起こす場合もある。ネットの書き込みから、DV、ストーカーしかり、果ては無差別殺傷事件にまで至る。
    また、女が社会的ステータスを得ようとすることに対しても異常なまでのルサンチマンを引き起こす。女が出世することを許さず、モノ申すことを許さず、引っ込んでおれ! と罵詈雑言の数々をヤフコメに書き込んだりする。
    そのメカニズムはこうだ。出世、社会的地位、名誉等々はいずれも男が受けてしかるべきもの、これは自明の理だ。それらは男の取り分であり、それを侵すような真似は断じて許されぬ。男だけが出世街道をひた走ることを許され、男だけが社会的ステータスを得ることを許され、男だけが物申したり、社会に有意義なことをなしうるのであって、女どもにそんな能力はない。女はただ黙って、可愛くニコニコとして、子供の世話をして、メシ作って掃除洗濯して、家のこと一切合切をしていればいい。間違っても社会にしゃしゃり出てくるな!それは男の領分、男の世界だ、とこういうわけだ。
    ひとたび男たちのこうした暗黙の領分が脅かされようものなら、総バッシングが働く。女性の著名人や女性政治家が必要以上に罵倒され、場合によっては社会的に抹殺されかねない状況がしばしば引き起こされるのは、こうしたシステムとしてのミソジニーの働きに負うところが大きい。

    その根底にあるのは、男は受け取ってしかるべきもの、女は与えてしかるべきもの、という想定だ。そんなものは男の都合の良い妄想でしかないのだが、男どもは根本的にこの妄想によって支えられていると信じている。逆に言えば、自分たちの取り分を奪われることを潜在的に恐れている。恐れているからこそ、自分たちの領分侵犯に対して過敏に反応するのだ。その過敏さは恐れの度合いによって比例する。

    ところでセクシズムー性差別主義との区別も著者は指摘している。セクシズムが家父長制の理論的バックボーンとするなら、ミソジニーはそのシステムの維持、管理、監督を司るということになる。女どもは家におれ、何故なら生物学的に女は子供を産んで育てるのに特化しているだろう、とさも科学的根拠ありなんとうそぶくのがセクシズム。それに対して、ひとたびしゃしゃり出てきた女どもをひっぱたき、元の家領分に引き戻すのがミソジニーというわけだ。

    ミソジニーは何も男性だけの専売特許ではない。同じ女性もまたモノ申す女性をミソジニー男と一緒になってバッシングする場合もありうる。それは、おとなしく従順でいる分には女性には女性なりの特権、すなわり男どもに守られ安逸にしていられるという特権がある。それが、出しゃばり女によって脅かされるのが許せない!という、ある種家父長制に寄りかかった発想から出たものであろう。
    日本でいえば、その筆頭格が杉田水脈であり、はすみとしこだ。すぐに彼女らの名前が浮かんだ。

    こうしたミソジニーの分析は、他の差別構造にも波及して考えることができる。アメリカでいえば、人種差別が最も顕著といえるだろうが、日本でいえば、例えば在日差別、障碍者差別、生活保護バッシングが挙げられる。総じて、税金を無駄にしやがって俺たちの取り分を侵した、けしからん!というメンタリティが働くわけだ。
    自分たちの生活が苦しいのはなぜか。それは、俺たちの正当な取り分があいつらによって奪われたからだ。返せ!というのがヘイターの偽らざる心理だ。そしてそれは、道徳的、社会常識的には眉を顰めざるを得ないにもかかわらず、なぜあれほどまで、例えば相模原事件を起こした犯人に対し共感を寄せるコメントが続出してきたのか、を考えるヒントとなるだろう。そう、自分たちの取り分を侵された、自分たちは傷つけられた、被害者だ、というメンタリティが一様に働いている証左になるといえなくはないだろうか。

    本コメントを書く数日前、例の名古屋入管で死亡したウィシュマさんの映像の一部が公開された。民事裁判で得られた証拠映像を基に、弁護団がそのごくごく一部を5分程度に編集して一般に公開したものだ。見ていて胸が塞がれる。死を前にして、喘ぐように「病院に連れて行ってくれ」と懇願する女性に対して、なぜああも入管職員は冷然と、人ごとのようにあしらうことができるのか。この非人間性はいったいどこから来るのか。
    これもまた、家父長制を支え、その強固な守り手となって働くミソジニー的作用がそこに厳然と存在するからではないかと思わずにはいられない。
    そう、入国管理制度そのものが、家父長制の体現に他ならないのだ。つまり、天皇を頂点とし、国民ならぬ「臣民」を「赤子」として囲い込む一大国家、それは天皇という軽い神輿を担ぐ官僚をして国民どもをひれ伏させ、ぬかずかせ、税金という名の貢物を絶えず納めさせる、その一大システムの維持、管理、監督、取締り。それが入管の存在意義なのだ。だとすれば、けしからん外国人は死んで当然。さっさと日本から出て行け!というメンタリティが通底する。入管の職員はそのメンタリティに多かれ少なかれ毒されてしまっているのだろう。でなければ、死にあえぐ人を目の前にして、医者に見せない、死ぬまで見殺しにしておけ、死んでからも知らんぷりを貫け、などという発想は起きない。死んでも大丈夫だ。国家はちゃんとお前らを守ってやる。無知な国民どもには知らんぷりを決め込んでおきゃ、そのうち忘れるさ、という発想が根底になければ、とてもじゃないが責任問題が怖くて見殺しになどできないだろう。普通、自分たちの領域内で死人が発生したなら、必ずその死の責任を追及されてしかるべきだからだ。そうした人として当たり前の恐れ、責任感すら生じさせないようなシステムの発動、それがミソジニーの考察からその派生としてうかがえるのではなかろうか。

    そんな中、ベトナム人の技能実習生リンさんの無罪判決が最高裁で下された。非常に喜ばしい思いである。孤立出産に追い込まれたばかりでなく、あろうことかその死産の双子たちを箱に入れて部屋に安置した、その行為をとらえて「死体遺棄罪」として警察に逮捕、起訴され、地裁、高裁と有罪判決が下された一連の事件。同じ日本社会に住む者としてなんとも情けなく、悲しく、忸怩たる思いであったからこそ、その無罪判決の一報には欣喜雀躍した。
    この事件もまた、極めてミソジニー的要素に満ち満ちている。ベトナム人、技能実習生、若い女性、妊婦といった要素がことごとく入り組んで、一連のミソジニーを発動させる。そもそも死んだ双子の赤ちゃんを「箱に入れる」行為を「隠匿」として警察にしょっ引く発想自体が、ミソジニーのなせる業だ。いわく、女のくせに、ガイジンのくせに、何勝手にはらんでんだ! あまつさえ勝手に産み落としやがって! それだけでなく、隠すつもりだったんだろう、けしからん! こんなはしたない女、お仕置きじゃ! 刑務所にぶち込んでやる!云々。 おおむねそんな発想が一斉に働いた結果の逮捕、起訴、二度の有罪判決だったのだろうと思われる。
    今回の最高裁判断は、そうした歪んだミソジニー的発動に待ったをかけた形となった。もちろんそこには支援者をはじめ熱心な弁護団の働きも見過ごすことはできない。が、何より、社会がミソジニー的なるものをそろそろ許すまじ、いい加減にしろよ、家父長制度の亡霊よ、いつまでも調子乗ってるんじゃないよ、という方向に徐々に傾斜していっている。その発露の一つに思えてならない。

  • ミソジニー。最近よく聞くようになったけれど、意味がよくわからない。そんな方におすすめ。ちょいと厚めだけどぜひ読んで欲しい。特に女性が働きづらい社会の中で「マジョリティ」と位置付けられる人々に。

    この本は、よく私の愚痴を聞いてくれるMくん(21)からの紹介。不満をマシンガンの如く吐いていたら、スッとこの本を渡してくれた。共感するはずだから、と。

    男性中心社会が憎い。私たち女性側はいつもお客さんな気がする。業界によって差はあれど、何かしら理不尽を被ることはあると思う。就活生に限っていうと、暗黙下に求められているのは仕事一本でいてくれる「男性らしい」キャリアビジョン。いわゆる「名誉男性」でいること。「ワークライフバランスなんていらない」「結婚は二の次、仕事で大成したい」。面接官にそう告げると、口角がちょっぴり上がったのがわかった。それを迎合する女性もまた、ミソジニーを助長するひとりなのかもしれない。考えさせられる。大いに、大いに、自戒を込めて。

  • 「ミソジニー」という比較的新しい概念があります。日本語では「女性嫌悪」と訳されていて、読んで字のごとく、「女性が嫌いな人の振る舞い」と理解されていると思います。本書でも、世間一般的にそういった理解がされているよね、ということが書かれています。
    しかし著者は、この「素朴な」ミソジニー概念は欠陥だらけであり、結果的にはミソジニストの実在を否定してしまうことを指摘します。

    そもそも、素朴理解においては、「彼の内心を知ること」がその定義に不可欠なので、「彼」が「そんなこと思っていない」と言った瞬間に、彼はミソジニストではなくなってしまいます。というわけで、ミソジニーの素朴理解にもとづけば「ミソジニーなんて存在しない」ことになってしまうのです。女性を重点的に狙った無差別殺人を起こした人でさえも例外ではありません。そしてこのような素朴理解によって、ミソジニーが「なかったこと」になることが、ミソジニストたちにとって大きなアドバンテージになっている、そうした問題に対して、ミソジニーの再定義・再検討が必要なのではないか、という本です。タイトルはとても好戦的な感じですが…悪しからず。

  • 女性に暴力をふるったり貶めたりする男性に対して、世間が、さらには女性すらも同情的になり免責しようとする現象、それを著者はヒムパシー(himpathy)と名付けた。社会構造的に世の中全般男性優位にまわっているから、このような力学が働いてしまう。そういえば日本でも、盗撮や集団暴行事件を起こした男子学生に対する処分は甘いことが多い。退学もなければ名前の公表もなし。被害者である女子学生より、加害者の男子学生を守っている印象すらある。

    欧米の事例が中心だが、日本の状況を考えながら読むのもおもしろい。

  • 『ひれふせ、女たち――ミソジニーの論理』
    著者:Kate MANNE
    訳者:小川 芳範
    ジャンル:人文書 >> 哲学・思想全般
    A5判/並製/448頁
    初版年月日:2019/11/19
    ISBN:978-4-7664-2635-9(4-7664-2635-5)
    Cコード:C0010
    定価 3,520円(本体 3,200円)

    ◆「女性嫌悪」とされるミソジニーとは何か?
     家父長制を維持するための「魔女狩り」のメカニズムを明らかにする革新的なフェミニズム思想のベストセラー。「ミソジニー」についての初めての研究書であり、フェミニズム思想を刷新した注目作がついに翻訳。

    なぜアメリカ大統領選でドナルド・トランプがヒラリー・クリントンをおさえ勝利したのか?
    なぜ性犯罪をおかした男性は免責される傾向にあるのか?
    なぜ「インセル」による女性の殺人事件が起こるのか?
    なぜ女性の証言は信用されないのか?
    なぜ堕胎を理由に女性は罰せられるのか。
    なぜ戦時中の虐殺において、レイプがかならず含まれるのか?
    なぜ女性たちはいつも「与える」ことを期待されるのか?

    社会生活と政治の中にある「ミソジニー」を、分析哲学的アプローチで探究することで「ミソジニー」を定義し直し、それがどのように機能しているか明らかにする。
    http://www.keio-up.co.jp/np/isbn/9784766426359/?fbclid=IwAR1_Nd2NDuveFuo5mjMe_BqD5FlhJfSqqv6WzTGl_6gN7TKHkKuQeVe8X14


    【目次】
    はじめに 道を誤る

    序論 前言を取り消す 
     息を塞ぐ
     沈黙
     声の変容
     本書の狙い
     不出頭
     本書の概略
     ミソジニーの「論理」とは

    第一章 女たちを脅す 
     アイラ・ヴィスタ銃乱射事件
     「ミソジニーとは何か」とはどのような問いなのか
     ミソジニーのありうる姿

    第二章 ミソジニーの定義を改良する 
     ラッシュ・リンボウによるサンドラ・フルク批判
     改良的・交差的提案
     ミソジニーは存在論的に家父長制に依存する
     ミソジニー的敵意の諸相
     ミソジニーの認識論
     傾向性としての(潜在的)ミソジニー
     システム的なものとしてのミソジニー、そしてそれ自身が(はるかに)大きなシステムの一部
     分であるミソジニー
     この分析はミソジニーの根底にある道徳的特徴を明らかにする
     ミソジニーの存在はミソジニストの存在とかならずしも結びつかない
     男のものでない島

    第三章 性差別主義(セクシズム)と区別する 
     性差別主義対ミソジニー
     ミソジニーと性的モノ化
     お仕置きの術
     母を愛し、他者を抹消する
     与えない/与えられない女たち
     バックラッシュとしてのミソジニー

    第四章 彼の取り分を奪う 
     ミソジニーと権利意識
     彼女が与えなくてはならないもの
     彼の取り分
     生命を奪う──恥と家庭内殺人者
     本章以降の展望
     
    第五章 ヘイトを人間化する 
     人間主義的思考の適用例
     人間主義を明確にする
     人間主義の問題点
     社会的に状況づけられた代替案
     人を支配する
     女、あまりにも人間的な

    第六章 男たちを免責する 
     殺人から逃げおおす方法
     ボーイ・キルズ・ガール
     階層を維持する証言的不正義
     ヒムパシー
     ロッカールーム・トーク
     ミソジノワールの現場──ダニエル・ホルツクロー事件 

    第七章 被害者を疑う 
     いわゆる「被害者文化」について
     被害者とは何か──道徳的ナラティヴの役割
     被害者を(控えめに)演じる
     『独立の民』──事例研究

    第八章 ミソジニスト(に)敗北する 
     男が女と争うとき──ジェンダー・バイアスの比較研究
     社会的拒絶は嫌悪によって媒介される
     ヒラリーにたいする嫌悪表現の数々
     いかに嫌悪は貼り付くか
     距離を保つ
     ケア煽動
     ジェンダー化された二重知覚
     なりすまし

    結論 与える彼女
     
     訳者あとがき
     文献一覧
     索引

  • ミソジニーというものを日常の中でも意識するようになり物事に対する見方が大きく変わった。議論の内容自体は非常に面白いが、議論の進め方や説明に癖や難があり勿体なく感じた。

    https://hitkzs.hatenablog.com/entry/20231006

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著者プロフィール

ケイト・マン
Kate Manne/1983年、オーストラリア・メルボルン生まれ。コーネル大学哲学科准教授。専門は倫理・社会・フェミニズム哲学。著書に『ひれふせ、女たち ミソジニーの論理』(小川芳範訳、慶応義塾大学出版会、2019年)。

「2023年 『エンタイトル』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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