- Amazon.co.jp ・本 (203ページ)
- / ISBN・EAN: 9784782800843
作品紹介・あらすじ
本書は、学習についての考え方に根源的でしかも重要な再考と再定式化をせまっている。人間の全体性に重きをおき、行為者、活動、さらに世界が相互構成的であるとみなすことによって、学習を事実についての知識や情報の受容とする支配的な仮説から逃れる機会を与えてくれる。
感想・レビュー・書評
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学習というものは、実践共同体への参加を通じてなされるものだというのが本書の骨子だと理解している。
ソフトウェアエンジニア業界では有志のコミュニティによる勉強会が公式非公式問わず活発に開催されているが、それはまさに「実践共同体への参加」にほかならないものだろう。
かくいう自分もエンジニアコミュニティの中で「正統的周辺参加」という概念を知り、より深く知りたいと考え本書を手にとった口だ。
解説文に如実にあらわれているのだが、本書は脈々と続く哲学の文脈の中に位置づけられている。そのため、門外漢である自分にとっては解説こそ難解で、何度もふりおとされそうにながら必死で読み進めた。
(まさに自分自身が「周辺」に位置していることを実感した)
学習=インプットではなく、もっと創発的で相互的な営みであるという視点を持つことができたので、どうにかこうにか読み進めることができてよかった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
【学習とは実践共同体への参加である】
状況的学習論の古典。
「頭の中」に学習があるという見方を批判し,
学習は状況と不可分であることを指摘。
知識偏重時代において改めて考えさせられる一冊。 -
心理学の概論の授業などで必ずといってよいほど紹介される有名な本。
中身は心理学であり、認知科学であり、また、教育学でもあり、社会学でもある。
学習を知識の獲得と定義するのではなく、特定のタイプの社会的共同参加という状況の中においてそれをとらえた点で、レイヴとウェンガーの考え方は新しい(といっても、もう15年も前の本だ)。
業務を遂行する技能はゆるやかな条件のもとで実際に仕事の課程に従事することによって獲得されていく、という概念を「正統的周辺参加」(Legitimate Peripheral Participation: LPP)という。
著者が、学習はこの「正統的周辺参加」の問題であるという考えに至った契機は、徒弟制についての研究であったという。
ことさら教え込まれたり、試験を受けたりすることなく、徒弟がいずれ技能に長けた仕立て屋の親方になれるのはどういうわけか、という問いが発端となった。
徒弟制では、学習者は定常的に実際の仕事に就いており、その中で技能を身につけていく。
つまり、徒弟たちにとって、学習と仕事の遂行とは不可分なものなのである。
たとえば「数学なんか勉強して何の役に立つのか」という多くの子どもが抱える疑問について考える上で、本書は重要な糸口を提供してくれているように思う。
教育に認知科学の知見を生かすとすれば、当然それは学習の問題が中心になる。
従来、学習と呼んできたことには、ごく当然のこととして「与えられた」教科内容を子どもがいかにして理解するかということに焦点が置かれてきたが、子どもにとっては「わかること」や「できること」の意義が見えにくくなってきている(訳者・佐伯胖先生の解説より)。
なるほど、正統的周辺参加論においては、「できるようになること」がそのまま学習なのであって、それは実際の仕事場で遂行することを目的として技能を教える教育とは似て非なるものである。
それならば、教える側としては「わかる」と「できる」の隔たりをなるべく小さくするような教授方法を考えなければならない。
もっといえば、「できること」を体現することが「わかる」になっているというのが望ましい学習形態なのであろう。
「「勉強」をする、というのはおかしい。何かをするときに、「勉強」が結果的にともなっている、というのが本来の学習なのだ」 -
LPPと言えばこの本。<br>
仕立て屋なんかの例が載っている<br>
学部時代図書館で一度読んだ。時間が経って、本屋で見つけて、パラパラとめくっていて、解説を読んで「買うしかない!」と思った。あとがきを読んで・・・強く共感した。<br>
私としては本編よりも、解説&あとがきのほうが刺激的で、印象的だ。<br>
ちょっと長いけど引用。<hr>
<解説><br>
p140 当然のことながら、我々は他者の心的構造などを直接観察する事はできないから、その構造の探求に関しては、結局我々に与えられているのは、研究対象の活動様式及びその活動の結果生産されたものの全体でしかない。<br>
この際に、どういう手続きをもって、ある複雑なデータが比較的単純な構造的関係に還元されるかは、言わば研究者の直感に任せられる事になる。<br>
しかしそうだとすると・・・研究者がそれ自体無秩序の対象から無理やりつくりだした幻想に過ぎず・・・我々が秩序とするものは全て我々の認識が作り出した幻想であり、現に存在するのは混沌に過ぎないという事になる。<hr>
p142 だが・・・すべては分析者が作り上げた幻影に過ぎないとする事ではなく、寧ろある対象の構造的把握が可能となるとすれば、それは一体どういう条件下でなのか、という点を明確にする事なのである。<hr>
当時、自分が一番気になっていたこと。認知科学は自己破壊的だということ。つまり、どんな記述も(所詮)観察者の主観的認識でしかない以上、真理なんてありえないじゃないか、ということに対して、ここでひとつの答えを提示してくれている(と感じた)。<hr>
<あとがき><br>
p183 従来・・・学習と呼んできたことは、ごく当然のこととして、特定の「与えられた」教科内容を、特定の子どもがいかにして理解に達するかということに焦点が置かれたものであった。<br>
しょせん、理解に至るまでのプロセスの最適化が問題となるということは、「それ以外に考えようのないほど」自明のこととされてきた。<br>
しかし、教育の問題を本気で考えるとすると、コトはもっと複雑で深刻である。端的に言えば、子どもにとって、「わかること」や「できること」の意義が見えなくなってきている、ということである。「わかって、何になる」、「できたからといって、それがどうした」ということである、こういう「わかって、何になる」式の不安と「先の見えない」閉塞感が、教室全体にかぶさり、教師も子どもも、それに圧し潰されていることがありありと観察できる。そこで子どもはやる気を失うか、受験という目の前の目標に自らを縛り付けて、「それ以外は考えないことにする」ということで当座を切り抜けようとしている。教師も同じであって、教材をどういじっても、教授技術をどう工夫しても、「先がない」状態での一時しのぎをしているのではないかという疑問と不安をぬぐい去ることはできない。そこでともかく日々、カリキュラムにしたがって、「これを教えるのだ」と自ら限定してカラ元気で動き回り、気をまぎらせているのが現状である。そういう状況に加えて教育問題を外側から眺める人びとから・・・注文ばかりどんどんつきつけられて、現場は混乱に陥っている。<br> 「考える糸口」がつかめない、というのがこれまでの現状である。本書がまさしくその「考える糸口」を提供しているように思われる。<hr>
この後、LPPと従来の学習観の違いがいくつかのポイントでまとめられている。このような考え方はドーナツ論にもつながるものである。
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141.33 学習.練習
NDC(8版) 371.4 -
福島真人氏による解説が出色。「教育」を学校に矮小化せず、社会学的分析の特殊例として諸学問の学史上に分かりやすく位置づけている。哲学、プラグマティズム、構造主義、文化人類学、社会学、認知科学、言語学、意味論、語用論という命脈で教育学を捉え直すと、学問分野としての地位が浮かび上がってくる。本編は昨今本邦で「アクティブ・ラーニング」主義者によく引かれているが、我田引水的引用の場合も多いため注意。学校教育に関してはもとより本書の射程ではない。学校での制度化されたプログラムに敷衍する際には、それに応じた考察が必要だろう。
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(エンゲストロームの言葉を借りるならば)ヴィゴツキアン第三世代の仕事のひとつ。正統的周辺参加の理論をある程度体系立てて説明してくれている。
いくつか理解の難しい概念があるものの,大枠は理解できる内容になっている。時々訳語として不正確な箇所があるので,原著と合わせて読んだ方がよいかもしれない。 -
学習の形はたくさんあるんだなということを改めてしることができた。難解な言葉もあったけどある程度は読めたと思う。