目の眩んだ者たちの国家

  • 新泉社
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784787718099

作品紹介・あらすじ

「どれほど簡単なことなのか。
 希望がないと言うことは。
 この世界に対する信頼をなくしてしまったと言うことは。」
 ——ファン・ジョンウン

国家とは、人間とは、人間の言葉とは何か——。
韓国を代表する気鋭の小説家、詩人、学者たちが、
セウォル号の惨事で露わになった「社会の傾き」を前に、
内省的に思索を重ね、静かに言葉を紡ぎ出す。

〈傾いた船、降りられない乗客たち〉

「「理解」とは、他人の中に入っていって
 その人の内面に触れ、魂を覗き見ることではなく、
 その人の外側に立つしかできないことを謙虚に認め、
 その違いを肌で感じていく過程だったのかもしれない。」
 ——キム・エラン

「私たちは、生まれながらに傾いていなければならなかった国民だ。
 傾いた船で生涯を過ごしてきた人間にとって、
 この傾きは安定したものだった。」
 ——パク・ミンギュ

感想・レビュー・書評

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  • セウォル号沈没事件を切っ掛けに社会の抱える問題があまりに赤裸々に白日の下に曝されたけれど、ここで曝された問題の恐ろしいところは社会の構成員のほとんど全員が一方的な被害者ではなく、むしろ加担側だったんではないかと考えられるところ。薄々気づいていた、予兆はあった、けれど見て見ぬ振りをしていた問題が最悪の形で露呈したのがセウォル号沈没事件であり、これは決して韓国社会だけの話ではないと思った。
    原発や差別や社会保障等、日本だって重大な問題を複合的に抱えながら具体的な解決方法を見い出せないままずるずる日々が過ぎている。
    何が正解か誰も知らないような途方のない問題を前に、ちっぽけな個々人がそれらとどう向き合うべきかを切実に誠実に語る本書は日本にとっても光明のような作品だと思った。

  • どれほど簡単なことなのか、
    希望がないということは。世の中はもともとそんなものなのだから、これ以上は期待しないということは。すっかりこの世界に対する信頼をなくしてしまったということは。(p.104 「かろうじて、人間」)

    社会の歯車になって決められたレールの上を走るだけの人生は惨めだ、とは昔からよく言われるが、その歯車が、性能の落ちる見掛け倒しの歯車になっているという事実を悟るのは、また別の意味で衝撃的なことだ。そんな見かけだけの部品があまりにも増えており、もっともっと増えていくに違いないこれからのことを考えると。(P.126 「誰が答えるのか?」)

    本書は2014年に起きたセウォル号の「事件」をきっかけに韓国の著名な作家・社会学者らが書いた文章をまとめた書だが、上記に引用した箇所は2019年の日本にもすっぽりと当てはまる。

    セウォル号の沈没は、1980年の光州事件以降の最悪の惨事と言っても過言ではないほど私たち皆にとって衝撃的だったが、精神的に健康な人ならば、韓国で起こり得ないことが起ったとは誰も思わないだろう。(中略)セウォル号の惨事は、韓国で続いてきた道理に外れた行いが積み重なってもたらされた人災なのだ。(P.137 「国家災難時代の民主的想像力」)

    上記の文章なども国を日本に、2014年のセウォル号を2011年の原子力発電所の「惨事」に置き換えても通用する文章だと思う。つくづく、地政的な意味だけでなくて兄弟のように似ている国同士なのだなという思いも強く抱く。

    セウォル号は溺死した死体だけではなく、それと一緒に新自由主義も水面に浮上させた。新自由主義資本国家の下品で卑しい本当の姿、弱肉強食の冷酷な本性を暴露する。(P.173 「永遠の災難状態」)
    結局、「新自由主義国家」がもたらした結果ということなのだろう。己の顔についたヨゴレはみえないが、他人の顔についたヨゴレは目立って見える。鏡をのぞいたところで直視しなければ気が付かない。


    国家が
    国民を
    救助しなかった
    「事件」なのだ。(P.63 パク・ミンギュ「目の眩んだ者たちの国家」)

    映画『タクシー運転手』、『1987、ある闘いの真実』、『工作 黒金星(ブラック・ヴィーナス)と呼ばれた男』(いずれも大傑作!)などを見ると民主化宣言(1987年)で国が変わった経験がいまの世代の記憶にも生々しく息づいていて、自ら手にした民主主義を活かしていこうという機運があるように感じられる。
    一方で西側諸国を席巻する「新自由主義」の波が襲い、その狭間で蠢いているという状況なのではないだろうか。日本でいうと東京オリンピックと大阪万博(1964~1970)の国の第二次成長期ともいえる時代。韓国はまさにその国家の青春時代なのではないかとも感じた。青春時代だからこそ苦悩し、もがき苦しみもするのだが。

    本書は「セウォル号事件」を基に韓国社会について、韓国社会で暮らす人々が重く深く(水中深くに潜水するかのように)思索を重ねた文章の集まりではあるが、読書感としてそこまで息苦しいものはない。冒頭に引用した二編などは韓国社会に絶望しているようでいても、それでもなにか期待を持つだけの底力のようなものを感じる。それが何故かは分からないけれど。

  • 今の日本では。

  • セウォル号事件に真摯に向き合う論集。セウォル号は大韓民国、わたしたちであるというメタファーのなかで格闘する論者たち。一条の光も見いだせない厳しい内省だ。

  • まだ風化せず残っている(私には、かろうじてだけれど)セウォル号沈没事件ーーそう、「事件」について寄せられた文集である。
    韓国は詩の国、そう先導してくれたのは茨木のり子さんの『言の葉』で、くにに(民族に?)よって決まりが異なることを教えてくれたのは中村哲さんの『アフガニスタンの診療所から』だった。このふたつの考えに助けを借りて、ほんとうに少しづつ読み進めた。
    凄惨な「事件」(つまり「犯人」のいる)について書かれているからということもあるが、くわえて、その「事件」に投げかけられることばの鋭角さにショックを受けたのだと思う。おそらくもとのことばでなければ意味の取れない単語がいくつかあるとも考える。
    そうして、引き比べて暗澹となったのは私たちのくにのことだ。セウォル号沈没事件のあったくにを、かつてくろぐろと墨を塗ったくにをーー韓国をばかにしているくに、つまりこの日本は、その内実がはるかにひどく蝕まれていることに、より鈍感だ。
    私は「クールジャパン」とかなんとかいう番組を観て感嘆する父、少女像についていつまでなにを言っているのだろうという母、急速に右傾化する弟と家族だ。恥ずかしいのではない。私自身にいつ芽を出すかわからない、無自覚で無邪気な「自分のくには良いくに大丈夫」という神話や差別などの芽があることがわかっていて怖いのだ。
    最善を尽くす。最大限努力する。それは私たちのくにでもよく聞かれることばだ。人間が「歯車のよう」と形容されつつ、「その場にあって精緻に機能する」歯車になるまで鍛えられることがないくにというのも同じ。プラスペンの行き先も。責任を取らない上部にかわってすり減る、「ちゃんとした人々」も。そして文集のトリにあたるホン・チョルギさんの項を読んで本当にゾッとした。政治に経済を取り込んだ新自由主義の犠牲になるものは、「◯◯も輝く社会」としてむりやり輝かせられる私たちの一側面ではないのか……。
    私たちはいままでの政治が取り上げてきたものに目を向けつつ、主体性を取り戻さなければならないだろうと思う。このとき、茨木のり子さんのいう「自分なりの調整」をして、「おとなりのくに」と話し合うことは決してむだではないだろう。かなしいかな、まだ私には言語的手段がない、けれど。

  •  2014年4月16日の「セウォル号惨事」と、それ以後の韓国政治・韓国社会の動向をめぐって、12人の小説家・詩人・研究者が振りしぼるような言葉を書きつけた一冊。
     12名の事件者は比較的近い世代に属するとは言え、キャリアも専門も得意分野もそれぞれ違う。しかし。本書から受ける印象は、どちらかというと個性というよりは、「惨事」と韓国社会に対する強く静かな怒りと祈りである。書かれている内容もそれほど違わない。真相を、事実を究明すること。そして、この事件を「韓国」という国家と社会の歴史の縮図として捉えること。

     そして、こうして見ると、研究者の議論より、小説家と詩人のことばの方がはるかに沁み渡る。キム・ソヨンとホン・チョルギは精神分析と政治学の研究者だが、理屈が先行してしまって、ことばが浮いてしまっている印象。むしろ誠実にことばの無力と向き合う文学者たちの凄みの方が際立つ。彼ら彼女らのことばに、とくに奇を衒った言いまわしは存在しない。しかし、刻みつけられた文字は、それぞれの厳しい思考と倫理意識をくぐり抜けた末に生まれ来たものであることを、確かに確信させてくれる。

  • 読むのがつらい

  • この事故のことはうっすらと覚えているが、韓国内で事故という言葉で済まされないほど、大きな事態になっていたことを本書で知った。
    ほぼすべての執筆者に共通する記載は
    ・初期の乗客全員救出という誤報
    ・船内の「じっとしていなさい」という指示
    ・責任ある人間たちの逃亡
    ・繰り返される政治家の嘘と釈明
    であった。

    執筆者たちは口を揃えて「変わらなければならない」「変わるにはどうしたらいいか」の言葉で締める。そうまとめるしかないんだろうな、と、自分の国を見ても思う。

  • 韓国、2014年セウォル号沈没事件へ寄せた作家、詩人、学者たちの、自国に対する痛烈で切実な思い。
    「この国に絶望するのは簡単」と言うこともまた簡単なのだと書く作家の言葉に両手が折れそうなほどの重みを感じた。
    深い海の色をした、船が眠る世界の色をした表紙。

    全員がそれぞれの言葉で事件のことを語り、自身の来し方を顧みて途方に暮れ、それでもこの国に言いたいことがある、言わなきゃならないことがあると綴られた文章たちは簡単には咀嚼できない。
    各々の領域で語ること、沈んだ船と亡くなった高校生たちの声に「応答する」こと。
    それを決して諦めないこと。

    ここに文章を寄せた人たちは自分の国に絶望しながらも自分の国のことを諦めていない、諦めていないからこそペンを取った人たちだと思った。

    国の暗部を、取り返しのつかない欠陥を目の当たりにして、日本人もまた同じほどの切実さでペンを取ることはできるのだろうか。

  • キム・ヨンス(『夜は歌う』)の『さあ、もう一度言ってくれ。テイレシアスよ』面白かった。進歩史観への疑義と警鐘をオイディプス王に絡めて。バイヤールの『予想剽窃』の概念興味深い。この人古今東西の本(論文含む)大量に読んでそうだな…前置き長かったけど
    官フィア、民営化
    詩的教育学、ボードレール『パリの憂鬱』
    新自由主義

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著者プロフィール

韓国・仁川生まれ。韓国芸術総合学校演劇 院劇作科卒業。2002年に短編「ノックしない家」で第1回大山大学文学賞を受賞して作家デビューを果たす。2013年、「沈黙の未来」が李箱文学賞を受賞。邦訳作品に『どきどき 僕の人生』(2013年、クオン)、『走れ、オヤジ殿』(2017年、晶文社)、『外は夏』(2019年、亜紀書房)、『ひこうき雲』(2022年、亜紀書房)がある。

「2023年 『唾がたまる』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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