- Amazon.co.jp ・本 (113ページ)
- / ISBN・EAN: 9784791766086
作品紹介・あらすじ
深夜のニューヨークで若い女性がむごたらしく殺害された。38人もの近隣住民がそれを目の当たりにしたにもかかわらず、救おうとするどころか、誰も通報さえしなかった。後に心理学の「傍観者効果」説まで生んだ特異な事件の真相とは?ピュリッツァー賞記者がミステリーに迫るノンフィクションの名作、待望の邦訳。
感想・レビュー・書評
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傍観者効果の元ネタとなった64年のニューヨークで女性が襲われたのに誰も通報しなかったキティ・ジェノヴィーズ事件を振り返る。
これ、同名のドキュメンタリー映画とは全くの別物です!
被害者の弟がかつての傍観者を訪ね歩き、実はけっこう通報してる人もいたという傑作ドキュメンタリーとは全く関係ない。
本としては、実は当時はニューヨークには110番のような通報システムがまだなかったという点くらいは読みどころがない。
ちゃんと邦題を分けてほしかった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
あまりはっきりとしていないのは、あとがきで書いてあるように、直接記者が現場に出向いていたのでではなくて、部下を行かせてその聞き書きから作ったものであるということだそうだ。
他の本の方がいいかもしれない。 -
社会心理学の教科書には必ずと言っていいほど紹介される(らしい)有名な事件のルポルタージュ。
1964年にアメリカで起こった殺人事件。
深夜に女性が自宅を目前にして殺された。
近隣住民は彼女の悲鳴を聞き、目撃した者さえいたが誰も通報しなかった。
なぜ彼らはなにもしなかったのか。
これは「彼女の事件」について語られた本ではない。
この本で語られるのは、彼女の人生でも彼の人生でも彼らの人生や人格でもない。
個々の事情は社会に衝撃を与えた事象自体とは関係ないから。
ここで考察しようとしているのは社会のアパシーについて。
今だったら無関心やネグレクトと言ったほうが近いかもしれない。
目撃者の行動もさることながら、社会の反応が今に通用し過ぎてぞっとする。
目撃者の名前をさらせと新聞社に投稿する正義の一般人たち、
社会が悪いテレビのせいだ大都会の人間関係がどうのこうのと(取材もせずに)言い切る「識者」たち、
もう終わったことなんだから忘れましょうという近所の(目撃者ではない)人たち。
神話を作ってしまった功罪はあるけれど、著者は「目撃者の行為」ではなく「私たちの行為」を考えようとする。
その状況で自分は動くだろうか、家の下で起こる殺人を無視することと、外国で起きている虐殺を無視することは違うのか。
すごいと思ったのはジャーナリズムのあり方。
たとえばp48、事件発生直後はたいした扱いの記事ではなかったというくだり。
些細な事件に見えるから自分が担当記者だったとしても「警察の談話をそのまま後追いするような」記事を書いただろう、とある。
つまり、警察の談話をそのまま発表するのは、頭を使わないおざなりなものだという認識がある。
(もっとも、タイトルにもある「38人の目撃者」が何もしなかったというのは警察意見を鵜呑みにしたものであるらしい)
事件の性質に関連しない限り「わざわざ」犯人が黒人だとは書かない、ともある。
事件と関係ないプライバシーや条件を重大なものであるかのように扱うことは、事件の性質を捻じ曲げる。
白人から「なぜ黒人が犯人であることを“隠した”のか」と苦情がきても、説明できるだけのポリシーを持っている。
訳者はあとがきで「黒人であることを発表しなかったのは賛否両論あるかもしれない」「新聞時代にはこうした選択もあり得たということだろう」p112と、まったく他人事に書いているけれど、この問題は今だってある。
たとえば事故と無関係な病歴、事件と無関係な国籍、被害と無関係な性関係やオタク趣味を嬉々として書きたてる報道や晒せとあおる言論が今の日本にはたくさんある。
たとえば桶川ストーカー殺人http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4104405019の被害者の服装。
そもそも64年のアメリカなんだからテレビは普及してるし日本でさえカラー放送が始まってる。
ローゼンタールについて語られた序文にも、保守的な当時のタイムズのなかで、ユダヤ系の記者は名前を変えたりイニシャル表記にしたりして出自を隠したとある。
名前で判断されないようにしていた著者について書いてあるのに、肌で判断されないように気を配ることに無頓着なのが信じられない。
この鈍さがものすごく嫌。
著者の思考の深さは素晴らしい。
読むべき本だ。だけど新鮮味はない。
(これはむしろほぼ50年前の社会問題が未だに通用することに驚くべきところだ)
的外れな後書きのおかげもあってもやもやしたものが残る。
当時のニューヨークの通報制度なんかは現在の参考にはならないけれど、歴史としては興味深い。
~夫人、~嬢、ルンペン、ついでに乳母車など、言葉がいちいち古いのは原書の古さを意識したものなんだろうか?
「彼女の話」じゃないのにキャスリーンの顔をあしらった表紙は、「私たちの話」であることに気づかせようとする中身にそぐわない。
知りもしないのになれなれしく「キティ」と呼ぶ報道への疑問が呈されているのに副題が「キティ」なのも気になる。
『魂の叫び』http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4916028678で、被害者を親しい人が使わない愛称で呼ぶ報道のエピソードがあったのを思い出した。
著者の意をくんだ形の本で読みたかったな。
読むべき内容なのにおすすめとは言えない本のつくりがすごく残念。 -
感想未記入
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一体どれほど離れれば、何もしない自分を正当化できるのか。
という問いは現在にこそ必要だと思う。和訳が面白くない。 -
女性なら誰でも吐きそうな嫌悪感を持つだろう。公衆の場で暴行されるという事件。近年の日本でも列車の中で女性が襲われるという惨事があった。なぜそういうことが起こるのか、目に見えない社会の暗部が、個人的にずっと引っかかっていた。そんなとき、この本に出会う。
ニューヨークの郊外、閑静な住宅街で深夜に女性が暴漢に襲われた。事件が起こっているのにも関わらず、なぜ周囲は通報しなかったのか。「誰かが助けるだろう」「誰かが通報するだろう」「痴話喧嘩かもしれない」「関わりたくない」・・・すべての傍観者38人がそう思ったのか? (正確には38人目が通報している)
興味のある内容だったのだが、残念なことに著作としてはいまひとつで、それは訳者も指摘している。前半と後半の情報が重複している部分もあり、全体のまとまりには欠ける。
傍観者は被害者を見殺しにしたのか。当事者を責めることは誰にでもできる、しかしわたしたちは実際にその現場に立ち会ったときに、果たして通報できるのか。今までの人生においてはどうか。いかなるときも正義感をもって弱者を助けてきたと胸をはっていえるのか?いつかの当事者は自分であるかもしれないと気がつく。 -
期待外れ。著者の言いたいことはよくわかるが、ノンフィクションの作品としては深みがないと思う。原文は違うのかしら。