戦国合戦 通説を覆す

著者 :
  • 草思社
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  • Amazon.co.jp ・本 (269ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784794221117

感想・レビュー・書評

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  • 通説は、時間と共に研究が進み変わっていくと思う。作者の視点から多岐に渡り調べたことや、そこから導かれた結論は面白かった。歴史の面白さを示唆している。なので、ここは違うのではとか思いながら読むのがまた面白い。

  •  歴史が面白いと感じる時はこういう時なのかもしれない。通説として通っている内容もとらえる人によりいとも簡単にひっくり返ってしまう。無論この通説を覆した論も自ずと批判の対象になることだろう。

     たとえ一つの論として通っているものでも歴史の上では所詮仮説であり本節にはなり得ないという事を認識しなければならない。となると歴史の事実とはどう解釈すればよいのだろうか。昔に帰れるのならば帰って確かめてきたいものだ。でもそれはそれでがっかりするかもしれないが。

  • 合戦の詳細の通説まではあんまり知らないなぁ…と改めて思った。知っているエピソードもあるけれど、時間の流れとしては知らなかったり。
    そういうのもあって「通説」とされているのが現状学会でどのような扱われ方をしているのかはわかrないけど、「おかしい!」と指摘されている部分はたしかにそのとおりだなと思う部分でした。(説明されてないとか)
    あと江戸時代に家康が神格化されたことによって実像からかけ離れていった可能性はあるので、たしかにそうかもなぁと思います。
    しかし「通説が覆る」という話なのかというと疑問。
    あと論証が史料的裏付けが難しい部分も多く(解釈の問題だったり)、なんとなく説得力にかけているように感じました。

  • 戦国合戦記は昔から読むのを楽しんできましたが、読み終わって感じたのは、「やはり戦国武将はカッコイイ!」ということでした。若いときは純粋に読めていたのですが、歳を取ってくると自分がその状況にいたらどう振舞うのだろうかと思うと、もっと違う方法を取ってしまうだろうと思ったものです。

    井沢氏の「逆説シリーズ」で読んだ時、我々が習ってきた歴史は、後に勝者が書いたものや、明治以降になって書かれた小説がベースであることを知りました。そこで、実際にはどのような戦いが行われていたのか興味を持つようになりました。

    その様な私の想いを叶えてくれた本が、この本です。タイトルに含まれている「通説を覆す」という文言に惹かれました。この本の著者である工藤氏は、通説を検証するために、実際にその場所へ行ったり、当時の気候・地形も丹念に調査しています。私達が現在暮らしている地形と、合戦が行われていた地形は異なっていることも多く、この様な視点は大事だと思いました。

    この本では、日本でも時代を左右した大きな戦国合戦(関ヶ原、大阪の陣)や、有名な戦国武将の人生を左右した合戦(桶狭間、長篠、三方ケ原、賤ヶ岳、川中島)の通説を覆して、真の姿に迫ろうとしています。タイムマシンに乗った気分で、大変楽しく読みました。

    今後は類書を読むことで、自分なりに、有名な合戦の「真の姿」を自分なりにイメージしたいです。それが泥臭いものであっても、人間がしたことなので、私には受け入れられると思います。

    以下は気になったポイントです。

    ・戦国武将とその戦いを中心に語られる時代として、戦国時代後半から、安土桃山時代にかけて、第四次川中島の戦いから、大阪冬・夏の陣(1561-1615)までである(p3)

    ・戦国武将を主役とするため、もっぱらスーパースターとして扱い、ネガティブな面には触れないようにしているので、歴史上の人物の姿がゆがめられて伝わることになる(p5)

    ・川中島の戦いでの、謙信が信玄の本陣に切り込んで一騎打ちした根拠になっている「甲陽軍鑑」は、歴史書というより歴史読み物である(p16)

    ・鶴翼の陣は、三方ケ原、関ヶ原の戦いで使われたとされているが、もとは中国の大平原で万余の軍勢が、より少ない兵数の軍勢と戦うときに使ったとされる戦法であり、日本ではそれに匹敵する平原がない(p30)

    ・朝霧の中で周囲をよく見えず、足場も悪い八幡原で、車懸りや鶴翼の陣の陣形をとれるわけもなく、川中島の戦いで実際に使われたとは思えない(p31)

    ・謙信が信玄を仕留めるつもりなら、騎馬武者が使っていた馬上槍で攻撃したはず、それば太刀というのは作者の創作である証拠(p34)

    ・後の太閤検地で、武田の甲斐は22万石、米どころの越後も39万石、信濃は40万石、美濃50万石以上、近江70万石以上なので、当時の信長は裕福(p40)

    ・通説が両軍(武田、上杉)の乱取りに触れないのは、彼らを名将と称えるあまり、彼らに傷がつくことを嫌ったから。食糧争奪という、ごく当然の視点が「川中島の戦い」から消えている(p41)

    ・今川義元が大高道を選んだ理由の一つに、彼が朝廷から公家だけに許されていた、塗輿に乗って進軍していたから(p67)

    ・鷲津砦(織田玄蕃)、丸根砦(佐久間大学)、威力偵察の、佐々隼人正・千秋四郎隊は、いずれも捨石であった。彼らは、今川勢数千を引きつけることで、今川本隊の守りを削る効果があった(p70)

    ・信長の出撃を見た、朝比奈泰朝は、鷲津砦を攻撃すると見て、松平勢等も、大高城で迎撃の体制を取った。このため、朝比奈、鶴殿、松平の合計7千五百を、足止めできた(p72)

    ・永禄3年5月19日は、現在の暦では6月中旬、梅雨が本格化する時期、何年かに1回、豪雨が今でもある。さらに2時間ほどで上がったので集中豪雨であった(p74)

    ・豪雨が降ったが、今川は信長の攻撃に備えて陣を構えており、時刻は昼間、武器も通常であり、正面からの本陣攻撃なので奇襲とは言えない(p75)

    ・三方が原戦いにおいて、北条は二千人の援軍を武田へ送っていた(p98)

    ・家康は織田と同盟関係にあり、武田には寝返れない、織田から派遣された三千人は援軍より監視役、籠城すれば落城を待つだけで城中から寝返る武将も出てくる。したがって、無理にでも出撃して家臣を、対武田戦にひきずりこみ、わずかでも戦果を上げて家中の意思を「徹底抗戦」で統一する必要があった(p101)

    ・この当時の家康は、三河・遠江北部の小領主を服属させることもできず、信長の威勢にすがってやっと束ねていた。徳川家家臣の結束の強さは、家康を美化するための後世の作り話(p101)

    ・通説で言われている、Uターン(回れ右)しても、長い列ができるだけで戦闘隊形にならない。当時の軍勢は、まず先衆(戦闘部隊)の先駆け、鉄砲、弓、長柄(槍)、とつづき、その後ろが、徒歩侍、馬上衆、先備え大将、遣い番、となり、これが先衆。その後に、二番備え、三番備えと続き、その後ろが、主将を囲む本陣勢、左右には脇備え、後方には小荷駄隊、そして後ろ備えが続く(p107)

    ・明智の使者が秀吉の陣に紛れ込んだとするのは、秀吉が「信長の死」を知った方法を隠そうとして意図的に流した話のように思われる(p130)

    ・当時は蹄鉄がなく、街道をいくときは藁沓をはかせたが、無理をすれば脚を痛めた。映画や時代劇で見られるような、火急の報せをもった武士が大型馬に乗って疾走する姿は無かった。ポニーのような馬に乗って、トコトコ走ったのでは緊迫感がないからテレビでは競争馬を使う(p131)

    ・高松城水攻めにおいて、通説は触れないが、毛利が追撃すれば、毛利方からの人質である、小早川秀包(ひでかね)、桂広繁は首を切られるので、吉川元春が追撃を主張したというのも疑問(p143)

    ・信長は、楽市楽座・鉄砲の大量使用が先駆けのように言われるが、彼がさきがけたのは、道路政策(直線、拡幅)である(p145)

    ・秀吉というと、巧妙に立ち回っての立身だけが取り上げられるが、その実は自己のネットワークを作り、常に周囲から情報を得たうえで出処進退を決めていたからだろう(p150)

    ・賤ヶ岳の戦いにおいて、秀吉は、早駆けできる者のみついて来い、それぞれが宿場で指示を待てと、命じたのだろう、1万五千の大半は、長浜や米原、関ヶ原に止めておいたのが真実であろう(p158)

    ・賤ヶ岳の戦いは、美濃大返し、七本槍ばかりが採りあげられるが、余呉湖周辺の丘陵地帯での戦いは、城攻めが目立つ秀吉の戦いで、自らが前線にたって采配を振るった数少ない戦いである(p167)

    ・余呉湖北西の山間での戦いで、大谷吉継・石田三成、が一番槍の戦功をあげた。このとき、佐久間盛政の後備えの役割をしていた、前田利家隊二千が動き出した。裏切りに相当する。それに伴い、金森右近・不破勝光の与力部隊も後退した、合計4千。これで、盛政隊が崩れて戦いは山中での拍撃戦となった。七本槍と言われるのはこのときの争い(p167)

    ・七本槍で7人に大幅加増したのは、彼らの総石高(2万石)により、500人ほどの直属軍を作りたかったからもあるだろう。また、彼らを数千人を率いる武将に育て上げたかったのであろう(p169)

    ・織田信雄は、すでに尾張・伊賀など百万石を領して秀吉軍に加わっていたから、信孝としては、柴田に加担して、秀吉と信雄を討つ以外に、織田家の正統な跡目になる方法はなかった(p173)

    ・関ヶ原の戦いにおいて、家康本隊の3万人の一斉移動は、西軍を驚かせた急進撃と褒めるが、清洲での12,13日は、足軽勢抜きで部隊編成をどうするか、武具が到着しないとか、馬上衆用の馬の手配が間に合わないなど大混乱であったろう(p190)

    ・秀忠軍にはオール徳川(戦略、戦術、戦功者)がそろ
    っており、家康の周りには有効な直言をできる武将がいなかった(p194)

    ・小早川と一緒に寝返った、脇坂は東軍に通款していて本領安堵、のちに加増、朽木は通款はないものの誼を通じていたので厳封のみ、後に本領安堵。付和雷同の赤座、小川は所領没収となった(p202)

    ・毛利元康、立花勢が、京極高次の大津城攻めに手間取り、開城が関ヶ原合戦の当日で間に合わなかった。彼らが関ヶ原にいれば、小早川は裏切りができなかっただろう(p202)

    ・三成の蜂起と、反家康連合の誕生(西国勢中心に550万石、プラス上杉120万国)は、家康に自分の人気の低さや采配への評価を思い知らされた(p209)

    ・大阪の陣の軍令によると、大名1万石あたりの軍役負担は、馬上14騎、弓10張、鉄砲20丁、槍50本、合計94人。ほかに、中間・小者・荷物運びの陣夫が帯同するので、合計200人(p221)

    ・包囲軍合計20万人は、城の周りに陣を敷けずに、1万石につき間口三間(5メートル半)の間に詰め込まれた(p221)

    ・征夷大将軍への就任は、家康が武家として天下を治めるとの意思表示で、公家である関白が天下を治めていた豊臣体制に代わるとの宣言である。豊臣に配慮しながらも、天下支配への道を歩みだした(p226)

    ・豊臣攻めを延期していた理由としては、戦費がなかったこともある。関ヶ原後に直轄地は250→400万石(他に旗本知行地300万石)に増えたが、関ヶ原で勝つまでに、6万人の軍勢を会津征伐から関ヶ原へ移動さえるために多額の金を使って金庫は空となった。大阪の陣を控えて、徳川の家臣が戦費の調達に苦労したとの話が残る(p228)

    ・豊臣家も同様で、大坂冬の陣後に、秀頼の使者らが駿府を訪れ、冬の陣によって生じた豊臣家の財政逼迫に対して、金銭的援助を家康に求めている(p229)

    ・家康は、誓紙まで出した条件を守らず、約定になかった、二の丸・三の丸の堀の埋め立てを強行した。城方が阻止しなかったのは、すれば再戦の意思ありと思われるからだと思われる(p241)

    ・家康が身内の武将に対して、理不尽とも思えるほど厳しく当たったのは、味方の士気が上がらなかったから、各大名は取潰し、厳封を恐れて参陣しているだけで、加増は無いのは知っているのでやる気がでない。大阪は幕府が直轄するので(p255)

    ・本陣にいた家康が逃げたのは、戦術的な後退。真田に同調するものを見極めたかった、真田勢なら本陣で防げるが、左翼の伊達、後ろの浅野が加わるとどうなるかわからないので(p261)

    ・大坂夏の陣(1615)の後、1864年に起きた蛤御門の変、第一次長州征伐までは、島原の乱以外は、大規模な戦いはなかった、その後は10年に1度の割合で戦争をしている(p265)

    2015年5月30日作成

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著者プロフィール

横浜生まれ。明治大学卒業。ラジオ局に入社後、アナウンサー、ディレクターとして野球、ラグビー、サッカー等を取材。1989年度日本経済新聞・テレビ東京共催ビジネスストーリー大賞受賞。1992年度NHK「演芸台本コンクール」佳作入賞。2012年度東京千代田区主催ちよだ文学賞受賞。『信長は本当に天才だったのか』『プロ野球 誤審の真相』『プロ野球  球団フロントの戦い』『プロ野球 最高の投手は誰か』(以上、草思社)、『Jリーグ崩壊』(総合法令出版)、『小説安土城炎上』(PHP文庫)など多数。

「2017年 『文庫 戦国合戦 通説を覆す』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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