テレジンの子どもたちから: ナチスに隠れて出された雑誌VEDEMより

制作 : 林 幸子 
  • 新評論
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  • Amazon.co.jp ・本 (234ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784794804884

作品紹介・あらすじ

テレジン・ユダヤ人強制収容所でナチス・ドイツ軍に秘密に出していた雑誌『VEDEM』の内容を日本で初めて紹介。強制収容所に収容されていた男の子たちの考えや詩は、つくられた時代と同じように、今でもそしていつまでも、とても大切なことを読者に語っている。

感想・レビュー・書評

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  • 『チェコに学ぶ「つくる」の魔力』『プラハ日記』に続く一冊。
    副題の「VEDEM」とは、テレジン収容所(チェコ)で13−15歳のユダヤ人少年達によって秘密裏に発行されていた文芸雑誌のこと。『チェコに…』では雑誌の存在を、『プラハ日記』では編集の中心人物だったペトル君のことを知った。

    本書ではいよいよ「VEDEM」および収容所の中身に迫る。前2作では「何十号も発行できるくらい容易に監視の目を潜られたのか?」という疑問が残った。幸いにもそれは今回解消し、関連本をあたっていくことの大切さを噛み締めた。

    著者(現NPO法人チェコ倶楽部代表)が前職の雑誌編集の取材でプラハを訪れるところから「VEDEM」と我々をつなぐ旅が始まる。収容所生存者で自身も「VEDEM」に寄稿していたコトウチュさんらの手厚いサポートもあって、少年達の声は無事日本へと発信された。
      
    テレジン収容所はアウシュヴィッツへの中継地点にあったが、実際は我々が想像する「収容所」とは違うものだった。
    集められたユダヤ人は年代別の家を割り当てられ、他にもSSの宿舎や工場・公園まで整備された、小さな町。…なのだが、内情はゲットーみたく常に食料不足で、彼らの行動は厳しく制限されていた。
    時折赤十字や(ユダヤ人を多く匿っていた)北欧の視察団へのカモフラージュとして、一部町を綺麗にし収容者達も楽しく振る舞うことを強制されたという。

    コトウチュさんを含む「VEDEM」の少年達がいたのは「男の子の家」の1号室。
    各号室には担任にあたる大人(ユダヤ人)が割り当てられ、それぞれスケジュール管理を担った。1号室の担任アイシンゲル先生は少年達の心強い味方で、「VEDEM」への社説寄稿にも協力してくれていた。(「VEDEM」がバレなかったのは先生の注意の他に、町の監視人が建物に入ることがあまりなかったことも関係しているらしい)

    自由行動を「歌を歌うかゲームで遊ぶ」ことに制限されていた子供達のために、先生をはじめ大人達は隠れて講義の時間を設ける。講義の感想もさることながら、「無知無抵抗のまま服従させられてたまるか!」という彼らの強い信念が、詩・物語・エッセイといった形で表れていた。

    「隣人への愛と、人種差別、宗教差別、民族差別への反対が、現在も将来も、僕たちのまず最初の法律になります!」

    本書は初刊の2000年版。
    あいにく2021年改訂版は図書館では手に入らず、調べてみるとコトウチュさんは20年の間にご逝去されていた。(本書を送り出せたことが彼への救いになっていることを願う…)
    しかし、「VEDEM」を戦後まで守り通してくれたタウシグさんという方が(2021年当時)90歳でご健在と知り、読後縮こまっていた心がほぐれた。彼もまた、1号室の少年だった。


    「命を落としたらそこで終わり」と思っていた。
    でも彼らは「命を落とした」のではなく、「命を、人間であることを奪われた」。
    それに、終わっていない。タウシグさんが守り通し、コトウチュさん・著者が発信してくれたおかげで、彼らの声が今も届いているのだから。

    「VEDEM」や「編集者達」のことは、読後も自分の心に留まり続けるだろうし、またここに戻ってくるかもしれない。改訂版に至る20年の足取りも追っていけたら…

  • リトムニェジツェ(Litoměřice)に逗留したことには訳がある。それは、ここから5キロほど離れた街テレジーン(Terezín)を訪問するためであった。テレジーン(ドイツ語名 テレージエンシュタット)は名前の通りマリア・テレジアの名にちなんで命名され、ハプスブルク家が構築した要塞都市。かつては立派な街だったようだが、今は史跡関連施設以外は寂れていて宿泊施設もこころもとない。そこで、宿泊は隣接するリトムニェジツェにして、そこから通うことにした。
    テレジーンは第二次大戦時にナチスドイツによってユダヤ人ゲットーや収容所として使われ、多くの方がこの地で亡くなった。その中には多数のユダヤ人の子供がおり、これに関する施設や2冊の本の紹介にも重点をおいた。
    テレジーンについて詳しい日本語サイトや書籍は少ないので、丁寧にまとめてみた次第である。

    ● テレジンの子供たち / 『テレジンの子どもたちから―ナチスに隠れて出された雑誌「VEDEM」』

    テレジーンに収容されていた子供たちがこっそり発行していた雑誌「VEDEM」の存在がこの子どもたちの酷い収容生活の実態を有名にしている。また、秘密裏に子どもたちの為に絵画教室を開いていた先生もおり、その絵画が記録として多く残されている。林幸子さんの書いた『テレジンの子どもたちから―ナチスに隠れて出された雑誌「VEDEM」』に古書店で出会い、これらのことを初めて知った時は衝撃的であった。

    詳細はコチラ↓
    テレジーン テレジン(Terezín) 観光ガイド / 『テレジンの子どもたちから―ナチスに隠れて出された雑誌「VEDEM」』と『プラハ日記 アウシュヴィッツに消えたペトル少年の記録』を読む
    https://jtaniguchi.com/%e3%83%86%e3%83%ac%e3%82%b8%e3%83%bc%e3%83%b3-%e3%83%86%e3%83%ac%e3%82%b8%e3%83%b3-terezin-vedem/

  • こういうものがあったという事実、そしてそのものとその背景を日本語で我々にもたらしてくれた著者に感謝です。

  • 強制収容所送りになったユダヤ人の膨大な金品は、全てナチスドイツの財産となった。またユダヤ人たちから仕事を取り上げれば、その後には失業中のドイツ人にとっては安堵した。ナチスが「国家社会主義ドイツ労働者党」という名称の略を見てもわかるように、ヒトラーは労働者の味方のふりをしていた。失業者をなくしてドイツ経済を復興させたことはヒトラーの奇跡と言われているが、ドイツの共産主義化を恐れた起業家たちが、ヒトラーの欲望を見破れずに独裁を助長させてしまった。失業者は職業を得、ドイツ国民の優越性のもとに気分よく生活し、未来への希望(偽りものもであったにせよ)を得てヒトラーを選んだ。「VEDEM」には「自分の父親を尊敬せよ!」(26号、1943年6月11日)という記事があるが、そこにこの問題が論じられている。「労働進歩や社会平等に反対する保守主義者に対する苦しい戦いを選ぶ代わりに、穏やかな家庭の平和を守ろうとお金の道を選んだことが、強制収容所への道につながった」
    目の前の職業や金銭的な安定のために、平和への本質的な道を見失った大人たちのことを、子供が冷静に書いている。そして「自分たちの運命は国家の政治体制によってきめられてしまうから、、岐路に立たされたとき、自分たちはしっかりと判断し、行動しなければならない」とも書いている。政治家によって翻弄されるのではなく、自分たちが政治を作っていかなければならない。ナチスが選挙で勝って政権を執ったのは、大多数の国民の投票によるものだった 。

  • 作者自身とテレジンでナチスに隠れて出版された雑誌VEDEMとの出会い、ユダヤ人の歴史、ナチスによる迫害、強制収容所などについての分かりやすい解説のあとに雑誌記事の写真と共に日本語訳と解説がつづく。

    迫害をうけ、テレジンに隔離され、家族と離れ離れになって収容された10歳から16歳の少年たちがナチスに隠れて出していた新聞。

    そこには被害者と嘆き悲しむ姿はなく、ひたむきに、前向きに生きることを望んでいた子ども達の姿がある。

    テレジンに収容されていた子ども達は15000人で、生き残れたのはわずかに100人といわれている。

    VEDEMに関わった子ども達のその後も分かる範囲で書かれ、巻末には参考文献一覧もあり、調べ学習資料として利用しやすい。

  • テレジン収容所で、少年たちが発行していた秘密の雑誌の日本語訳。約100名の少年たちが2年間、収容所での日々の記録や、楽しかった思い出、両親と会えないさみしさ、死への恐怖を書き記しました。その数は800ページにもおよびました。テレジンに最後まで残った少年がこの雑誌を隠し持っていたため、オリジナル原稿は現在もチェコ、プラハの博物館に保存されています。

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