竹村公太郎の「地形から読み解く」日本史 (宝島SUGOI文庫)

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  • Amazon.co.jp ・本 (251ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784800249982

作品紹介・あらすじ

地形から日本や世界の歴史を読み解き、新たな歴史観を提案する竹村公太郎氏。本書では、その竹村公太郎氏の歴史観を、古代から現代まで一挙に紹介。さらに日本の文明の特質も地形と風土から明らかにする。奈良盆地に存在した奈良湖が平城京を成立させた、参勤交代が日本を一つにまとめていた、雪国が生んだ日本文明など、日本の成立から日本文明の素晴らしさまでを竹村史観で解説する。

感想・レビュー・書評

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  • 数年前にこの本の著者である竹村氏の書かれた本によって私の読書の楽しみが増えました。この本のタイトル「地形から読み解く日本史」、見ただけで読みたくなるタイトルです、本屋さんで見つけて迷わず購入してしまいました。

    今では日本の石炭産業は見る影もありませんが、明治維新を迎えて、森林資源が枯渇寸前だった日本にとって、石炭は希望の光だったようですね。

    また、徳川家康がなぜ江戸に幕府を開いたか、これも森林資源と関係しているようです。長い日本の歴史において、日本の中心となった場所が動いていますが、これも全て地形、当時の気候等の影響もあると予想されます。

    今後、歴史小説を読むときも、当時の気候や地形をイメージしながら読むと、また違った味わいができると思いました。

    以下は気になったポイントです。

    ・日本人の到達経路は、北方・朝鮮半島・東シナ海・沖縄ルートがある(p33)

    ・古代にあった、奈良湖は決壊などにより短期で消滅したのではなく、一定の期間を要して徐々に消滅したと考えるのが妥当(p60)

    ・桓武天皇が奈良を見捨てたのは、仏教勢力から距離を置く、藤原氏ほかの大貴族の政治介入を避ける、との説があるが、ひとえに「森林資源の枯渇」である。(p69)

    ・1180年、東大寺が平重衡の南都攻めにより炎上したとき、再建に用いられたヒノキ材は、近畿地方にはなく、中国地方から運ばれた。政治文化の中心が箱根を越えて関東に移ったのは、利根川・荒川流域の森林資源を見越した徳川家康の慧眼である(p70、101)

    ・東日本大震災の津波到達範囲は、おおむね国道6号線の手前で止まっている、江戸時代以前から使われていた古い街道(p82)

    ・家康が関東に移封された当時は、手に負えないほど劣悪で希望のない土地であった、平野ではなく湿地であった(p98)

    ・隅田川にある佃島に、大阪の佃村の漁民33名を住まわせ、水路の船の操縦を任せた。本能寺の変で家康が脱出したときの、服部半蔵と並ぶ大恩人であった(p100)

    ・源頼朝は京都を嫌って鎌倉にした理由は、当時の京都は劣悪な衛生状態であったから(p105)

    ・家康は関東のほかにも、木曽川に尾張徳川、紀州紀の川に紀州徳川、北関東の那珂川に水戸徳川を置いて、川沿いおよび山林を抑えた、筑後川・吉野川・天竜川・雄物川の上流山間部を天領として押さえた(p109)

    ・全国の検地は17世紀までに終わっていて、18-19世紀まで殆どその数字は変更されなかった。商品や作物の導入が進んでも年貢の量は江戸初期と同じまま明治に引き継がれた。割を食ったのは武士階級(p119)

    ・明治31(1898)年、多摩川の水は新宿西口に完成した淀橋浄水場に直接送り込まれることになり、溜池への清浄な水の流入がストップ、これにより溜池は埋め立てられた(p126)

    ・日比谷の入江を埋め立てるために、神田から駿河台の高台を削り、江戸湾を埋め立て、日比谷・新橋・銀座・京橋・日本橋・八丁堀が生まれた(p143)

    ・今の渋谷駅の場所は谷底にあたり、その谷は、渋谷川と宇田川が削ってできたもの、この谷に2つの坂(宮益坂、道玄坂)ができた(p162)

    ・土地そのものが高台にあり、居住者が身分の高い旗本や大名家であったので、山の手と呼ばれた、現在の山手線の東側に「朱引」を書き入れた、麹町・芝・麻布・赤坂・四谷・牛込・本郷・小石川あたり、一方下町とは、日本橋・京橋・神田・下谷・浅草・本所・深川(p165、166)

    ・1550年頃に約1000万人だった日本の人口は、その後の約200年で、約三倍となった。耕地面積が約3倍になったことともリンクする(p174)

    ・歌川広重が1830年代前半に描いた「東海道53次」の木版画には、ほとんど樹木が描かれていない。江戸時代の人々が見ていた山は、見渡す限り、禿山であった(p176)

    ・森林資源が枯渇し、燃料不足を解消する目途がなかった幕末の状況は、森林から石炭へのエネルギーシフトを促した明治維新は時代の必然であった(p177)

    ・参勤交代により、家臣もかなりの数が大名とともに国元と江戸を移動した、大名の側近が政治的実権を持つ者ほど大名に従って、彼らは江戸の言葉、文化を身につけて国元へ伝え続けた(p189)

    ・日本には長らく中央集権の政治体制が存在しなかった理由は、日本の地形にある。国土は山脈と川によって細分化されていた、江戸の封建制とは、山脈と水で区分された流域に沿った統治方法(p198)

    ・欧米の植民地化した手法は、分割と統治により、各国の内部分裂を誘う事で、江戸の流域封建社会はまさに大分裂の可能性を秘めていた。これを根底から覆したのは、蒸気機関車であった。1872の開通以来、1889年には東海道線が全線開通した(p199)

    ・明治初期に採掘された石炭の殆どは輸出、明治10年代までの日本の石炭産業は、ほぼ外国船籍の蒸気船を動かすために存在していた(p202)

    ・日本のエネルギー源として最大の役割を果たしていたのは、木炭・薪炭、石炭が上回ったのは明治30年代のこと、日本文明の絶望的な危機を救ったのが石炭であった(p204)

    ・蹴上発電所による豊富な電力は、京都市内では蒸気機関ではない路面電車を発達させることとなった、明治24年に琵琶湖疎水に連なる水力発電所が完成、その4年後には全国初の市電が都大路に運行した(p208)

    ・各藩主により明治政府に届けだされた債務総額は、明治の新貨幣換算で、7413万円(両)、このうち旧幕府が諸藩に貸していた債務、藩主個人の債務は管轄外として、残る6168万円を対象とした。この上に藩札が3909万円、外国債400万円の合計約1億円。明治初期の税収が、316万円(元年)、932万円(3年)、天保14年(1843)に棄捐令を出していて、それ以前の債務は無効とした(p211)

    ・もともと7413万円あった諸藩の借金は、最終的に2842万円まで圧縮されたうえに長期償還と決められた。インフレにより実質的には数分の一にまで価値が減じて、明治政府は財政破綻を免れた、このため多くの中小両替商、廻船問屋が倒産している(p212)

    ・藩札の新貨幣への引き換えは、明治7年から明治12年まで、3909万円のうち、引き換え義務を負うものとして、2493万円とした。岩崎弥太郎は安い金額で藩札を買い集めた(p213)

    ・四大文明(エジプト、メソポタミア、インダス、中国)に加え、サミュエル・ハンチントン博士によれば、これに加えて8文明が存在すると説く。それは、クレタ島・古代ギリシア・ローマ・ビザンチン・中央アメリカ・アンデス・西欧・日本、これらは大抵が、大陸・降雪の少ない地域であるが、日本だけが島嶼、積雪地帯であった(p219)

    ・日本人が縮み文化を生み出せた理由は、日本の地形と気象の特性にある、山脈や河川で細かく分断されていたので、身分の上下を問わず、背に荷物を載せて自らの脚で歩いた、所持品をいかに小さく軽く纏め上げるかが工夫された(p220)

    2016年5月4日作成

  • 20160305読了

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著者プロフィール

日本水フォーラム代表理事。博士(工学)。
1945年生まれ、神奈川県出身。昭和45年東北大学工学部土木工学科修士修了。同年建設省入省、近畿地方建設局長を経て国土交通省河川局長。2001退職。一貫して河川、水資源、環境問題に従事。人事院研修所客員教授。
著書に『日本史の謎は「地形」で解ける』(PHP文庫3部作)、『土地の文明』『幸運な文明』(以上、PHP研究所)、『日本文明の謎を解く』(清流出版)、『水力発電が日本を救う』(東洋経済新報社)など多数がある。

「2021年 『“地形と気象”で解く! 日本の都市 誕生の謎』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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