木曽義昌の項のみ読了。父木曽義康のいちはやい降伏により所領を安堵され、信玄の娘を義昌の嫁に、となり、親族扱いとなるも、木曽の臣下に信玄から直接恩賞宛行いが行われるなど、警戒感もみせられ。勝頼の代、信長が侵攻してくるといち早く寝返り、先導をつとめ、信濃の二郡を加増され。しかし、本能寺の変による混乱で、旧領回復に燃える小笠原貞慶に二郡の実質的支配を奪われ、名目的に家康に二郡を安堵されるも実質をともなわず。秀吉に与するも、小牧長久手後は家康の与力とされ。そして、父祖伝来の地から、房総半島への転封、その後五年で木曽義昌は没する。そこまでして守った木曽家の名はほどなく息子の代に断絶。叔父を殺したから、あるいは愛妾と密通した家臣双方を牛裂きにしたことを咎められてとの説もあるが詳細不明とのこと。