ジョ-ゼフ・キャンベルが言うには、愛ある結婚は冒険である。: ジョ-ゼフ・キャンベル「対話集」
- 築地書館 (1997年5月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (190ページ)
- / ISBN・EAN: 9784806768036
感想・レビュー・書評
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神話や宗教、妖怪から昔話まで、世界の不思議への人間の見方なのだ。世界の不思議が科学で解き明かされていくと、人間の見方だけが残る。それは世界と関わる上で人間が見つけた意味の欠片。
・この情景はある種のトランス状態で経験されており、ウーンデッド・ニーの闘いの前に起きています。つまり「大西部」のインディアン世界が完全に粉砕されてしまう頃のことなのです。さて、ビジョンは何を伝えたのでしょうか。そのメッセージは、「我々は拠り所をバッファロー信仰から植物信仰に変えなければならない。さらに我々の小さな社会の枠は、他のたくさんの枠の一つにすぎないことを認識する必要がある」。これは予言的直感だったのですね。ここに出てくる木の変身すばらしいイメージ、そして他の枠の中の一つの枠、現代でも使えますね。自分たちこそ唯一の存在と信じていた部族が、異種雑多な世界の渦中に今は居る。この少年が九十歳ぐらいの愛すべき老人になった時に、「私の見たビジョンによって私の部族の人々を救えたかもしれないのに、その力がなかった」と語ったのです。
・神話を真に理解すると、形態とは善悪を超えたものだとわかります。インドの神々を例にとると、これが素晴らしいところなんですが、右上の手では「恐れるなかれ」と語りかけ、そのすぐ下の手は恩恵を授けており、左上の手は剣を携え、その下の手には切ったばかりの首を持っている。力の二面性を表しているんです。
・東洋の教師たちの教えをまとめると、重要なのは何千年も前の、仏陀が生まれた時やイエスが十字架にかけられた時に何が起こったかではないのです。本当に大切なのは、今あなたの中に何が起こっているかなのです。そして重要なのは、宗教的共同体の中のあなたの資格ではなく、その資格があなたの精神にどんな意味を持っているかなのです。西洋の宗教では、神聖な存在を世俗の外、神の中、天国に置きたがる傾向があります。しかし東洋的な考えは、神の国はあなたの中に在る、と言います。天国には誰が居るんでしょう?神ですね。神はどこに居ますか?神はあなたの中に居ます。じゃあ神って何ですか?神とは、人間の創造を超えて、名づけることもできない世界創造のエネルギーと神秘を人格化したものです。
・カルトは社会構造の始まりで、構造化された社会に寄生しています。カルトの持つ激しさは、相互関係が重要視されない世界に、意味のありそうな相互関係を作り上げようという心理的欲求の力に起因しています。分かりますか?
…ヨーロッパの都市の歴史を見ると、街の焦点が聖堂や教会にあることは明白です。今日でもシャルトルに向かって行くと、最初に目につくのは大聖堂です。十七世紀や十八世紀の王侯時代には、最も大切な建物は応急でした。宗教から社会政治へと強調点の転換があったのです。今の時代、大都市に向かって行くと目に入るのは商業ビルと住宅ですね。宮廷の権威はなくなりましたし、教会にいたってはもっと影が薄いようです。
…しかし、聖堂や寺院はどこにあるべき、という感覚すら持たず、政治経済的な配慮に支配された人生を生きることを考えてみてください。それは中心を外れた生き方です。そして今の私たちの精神は、現実にそんなふうに生きているのです。寺院は大切です。不可思議の感覚、生きて在ることへの感謝、私たちすべてを束ね、町を調和させ、人生を調和させる超越したエネルギーの感覚。こういったものはすべて失われてしまったのです。失ったものを再び見つけるためにどんな手がかりにでも縋りつこうとする人々の貪欲な探究、それがカルトなのです。
・「聖杯の物語」の中に一つ注意をひかれる部分があって、それは私が、ヨーロッパあるいは西洋的精神性と呼ぶものの本質を表しているような気がします。アーサー王の宮廷の騎士たちがテーブルに着いているのに、アーサー王は冒険が始まるまで食事を運ばせません。そして実際に冒険が始まります。天資的な奇跡によって聖杯が現れますが布で覆われています。皆狂喜しますが、聖杯は再び姿を消します。アーサー王の甥であるガウェインが立ち上がって言います。「誓約を提案します。ここにいる全員が覆われていない聖杯を見るために追跡に出発することを提案します」。そしてそのとおり実行することが決定します。その後で、私の気に入っている素晴らしい一節があります。「彼らは一団となって出て行くのは不名誉だと考えた。それぞれが、道もなく最も暗い森を選んで入って行った」。
・導師に従って内的瞑想を始めると問題になるのは、自分の自我(エゴ)と自己(セルフ)との関係です。これは最も基本的な関係です。より深い自己を意識してこれと関わると、他の人との関係、妻や友人との関係が煩わしくなってきます。わかりますか?逆の場合を考えてみましょうか。結婚です。結婚は自我の拡大、自我の解放です。他の人間の人生に参加する恩恵に浴する経験であり、宗教的な実践です。だからこそ結婚は一種の秘跡(サクラメント)なのです。
・(どうすれば自分のなかに生きているその子供と接触できるのでしょうか?)「汝なすべし」の龍を殺せばいいんですよ。
・父は究極の神聖な存在の象徴であり、その人格化されたものです。父が知られるためには、知る者が必要です。神は神によってのみ知られるので、三位の二番目は「知る者」、すなわち息子です。さて、知られる者と知る者が揃ったら、二者の関係が生じ、それが聖霊です。
・素晴らしいインドのお話があります。ある若者が導師から「お前はブラーフマン(婆羅門)だ。お前は神だ」と言われました。なんという経験でしょう!「僕は神だ」。すっかり我を忘れて若者は散歩に出かけます。村を通り抜けて田舎に入り、そのまま道を歩いて行くと立派な象がやってきました。象かごを乗せ、頭には馭者がいました。若者はひたすら「僕は神だ、僕は神だ」と考えていて、象に道を譲りませんでした。象使いが「馬鹿野郎、そこを退け!」と叫びました。若者は声を聞いて目を上げ、象を見ました。そして自分に言いました。「僕は神だ。そして象は神だ。神は神に道を開けるべきなのか?」そこへ当然真実の瞬間が来ました。突然象が鼻で若者を巻き上げ、道路の外に放り出したのです。
若者はぼろぼろの状態で導師の元へ帰って来ました。怪我こそしていませんでしたが、心理的なショックを受けていたのです。若者を見て導師は聞きました。「何があったのだ?」
若者は起こったことを語り、こうつけ加えました。
「先生は私が神だとおっしゃったじゃありませんか」
「そのとおりだよ」
「象は神です」
「そのとおりだ」
「それなら神は神に道を譲らなければいけないんですか?」
「なんでお前は象の頭の上から叫んでいる神の声を聞かなかったんだ?」
・倫理と宗教は違います。宗教は神秘的な次元であることがすべてです。倫理は社会的価値が尺度になりますが、宗教では個人的、内面的な認識が重要です。まったく異質なのです!
社会の中に身を置いていると、内面的な価値の認識までも社会の倫理の尺度で定義するようになってしまいます。そこが社会で生きることの難しさなんですよ。
・あなたが選んだ人が誰であれ、その人を理解できないと必ず思います。その人についてわからないことがいっぱいあって、でもそれは、その人自身にもわからなかったことなのです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ふむ
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至福に従え
結婚は関係性
心理(主にユング)と歴史から神話を読み解く -
今年のテーマは、「ヒーローズ・ジャーニー」。
つーことで、ジョーゼフ・キャンベルやヒーローズ・ジャーニー関係の本を買い込んで、少しづつ読んでいる。
そういうなかで、比較的取っ付き易そうなのが、ラディオ番組を編集した本書。ページ数もそんなに多くないし。
が、読み易さと深さはまた違う話。
とても平易なのだが、というか、平易であるがゆえに、キャンベルの洞察というか、決意の深さがすごく伝わってくる。
そんな熱い思いがあるので、結構、読み終えるのがもったいなくて、1ページ1ページを味わってしまった。
「神話の力」もインタビューで分かりやすくて、本格的だが、こちらはまたひと味違った良さがある。
キャンベル入門には、これがおすすめかな? -
うーん、ちょっと不思議な本でした。
ジョーゼフ・キャンベル。ご存知ですか?僕は知りませんでした。
アメリカ人の神話学者、という人で、1904-1987。
僕が知ったのは、(恐らくそういう人が多いと思いますが)、「千の顔を持つ英雄」1949 という本の作者さんとして。
ジブリの映画のようなタイトルですが、この本自体が、アメリカのインテリさんの間では、神話学というものの論拠のような名著であるらしいんですね。
で、それがどうして僕にまで知られてるかというと。
ジョージ・ルーカスさんが「スター・ウォーズ」の元ネタというか源泉として、言及してるからなんですね。
という訳で、「千の顔を持つ英雄」。
読んでみようかな、と思ったんですが。どうしてどうして。分厚いし、訳も硬そうでね・・・。まずは、この人はイッタイなんなのさ、という本を読んでみたいなあ、と。
で、比較的翻訳の新しい、対談形式のものを、相当以前にジュンク堂で衝動買いしたんですね。相当放置してました。あ、これ俺買ってたんだ、って思って。読んだら薄いんでスルスルっと。
上記のような "神話学の巨匠" さんが、アメリカのラジオ番組ようにいろいろと対談形式で柔らかく語りおろしたものの、翻訳なんですね。
雑に言うと。
前半、考古学的というか、世界各地の色んな神話の比較っていうか、その年代的なこととか。地理的なこととか。そういうお話が続きます。
そういうお話が好きな人には垂涎ものなのかもしれません。けれど、正直、僕からすると、「というわけでそこからこんな興味深いことが言えるんだよね」というところにイッテくれないと、何も面白くない(笑)。
前半で分かったことは、要するに「スター・ウォーズ」のヨーダと話している気分になります(笑)。言葉遣いの面でね。ある種、東洋哲学的な言い方っていうか。
つまり、こうです。アメリカを筆頭に西欧社会に、東洋的な考え方がほんとに紹介されたのは、1960年代~1970年代なんですね。ビートルズのメンバーが、ダライラマに会ったりするわけです。瞑想、メディテーションなんて言葉がカッコイイものとして普及したりするわけですね。
で、そういう流れの中で、1949年に「千の顔を持つ英雄」を上梓したキャンベルさんも、そういうマーケットの要求の中に、本意かどうかはともかくいたはずなんでしょう。ある意味、アメリカ社会の中に作られた、ヨーダ的な言語の、発祥に近いところに、いるんだと思います。キャンベルさんって。
そういう60~70年代の、東洋的思考の発見、という流れの中に、当然ジョージ・ルーカスさんもいた訳ですね。黒澤明や小津安二郎という映画作家の発見は1950年代~1960年代にまずヨーロッパ先行であって。それにさらに精神的なコトバも流れ込んできた。
それらが、ビートルズもそうですけど、「英語圏先進国のベトナム戦争的現状に飽き足らず、でもソ連的社会主義にも行けない」という、なんていうか、ポスト60年代的行き詰まりの中で、発見であり可能性であったんでしょうね。これは位置づけとして間違っていないと思います。
そして、1973年公開の、「アメリカン・グラフィティ」で、プレ・ベトナム戦争時代のノスタルジアを描いたルーカスさんが、「スター・ウォーズ」の脚本や内容を煮詰めていたのは、1973~1974年だったんですね。まだまだ、80年代という精神性は遠い向こうなんですよね。
パリ協定でニクソンが米兵のベトナム撤退を決めたのが1973年ですね。まだまだ戦争は続いて、サイゴン陥落は1975年ですね。「スター・ウォーズ」の脚本完成が1975年だそうです。
こういうことを考えるのは楽しいものです。
閑話休題。本について。
で、我慢してややトバシ気味に読んでいくと。
後半、俄然面白くなりました。
要は、そんな風に世界各地の神話について、ということは歴史について、学問に学問を重ねてきたキャンベルさん。
色んな国の色んな民族のお話を読んで聞いて考えてきたキャンベルさん。
そんなキャンベルさんが考える、いろいろなこと。社会のこと、宗教のこと、ヒトの精神のこと。
と、いう内容にカーブを切ってきます。俄然、面白くなります。
まあ、神話学の学問的研究をしたくて読んでるわけじゃないんでね(笑)。
で、どういうことを言っているのかというと、まあ、刺激的でもって、マットウなことなんですよね。
例えば、神話、っていうことでいうと。
ノアの方舟的洪水。マリアの処女懐胎。こういうのはなんと、世界中に似たような神話がいーっぱいあるんですって。じゃあそれはなんなのか。という話も深いんですけど、キャンベルさんは、
「だから、比較して検討するのが大事なんですよね。それを冷静にやらずに、相手を怪物扱いする態度が、戦争になるんですよ」
なーんて言っておられます。なるほど、ですね。わかりやすい。
そしてね、面白いのは、この本の原題って"Open Life"というそうなんです。開かれた人生ってことですね。こういう考え方自体は、僕は経験上とってもアメリカ的だと思うんです。
ところが。
キャンベルさんはまあ世界中の研究をした挙句に、どっちかっていうと東洋に甘いんですよね。やっぱりあこがれがあるのか、東洋的なモノノあり方を、手放し賛美はしないけど、好意もってるのはわかります。
ところがところが。
結局、結論で言うと、人生のあり方について、とってもやっぱり西欧個人主義的な前向きな開放的な姿勢を求めて終わるんですよね(笑)。
そこらへんにやっぱりものすごい研究と思索の結果を感じるんですね。だって、やっぱり20世紀終盤の段階で未来の個人のあり方を考えるときに、そりゃ西欧個人主義的な方向に向かうしかないんですよね。
そのへん、なんでかっていうのは、この本の途中でも宗教のあり方や、現代カルト宗教についての考察とか、キャンベルさんの意見を聞けます。
所詮カルトは、閉ざした集団の支配であり、自信を持ちきれない個人の慰みである、とか。非常に小気味よくバッサリです。スゴイ。
で、キリスト教、ユダヤ教、仏教とかの比較検討も面白い。
その上で、「あなたがわたしが、神を得るためには既存の神を取り払う。それが冒険」
とかって刺激的な素敵な言葉。
豊富な知識の上で、結論は、そんなに革命的じゃないんですよ。
「バランスが大事」
「今の時代(語っているのは1970年代~1980年代)、前例が無い、大冒険の時代」
「男女の役割は劇的に変わっている。女性が可能性を増している。それは素晴らしいこと。そういう上にのっとって、愛ある結婚生活は冒険である。それは恋愛とも違う。不可解なお互いの関係のために自分を差し出すことが、お互いを高め合う、すごい冒険なのだ」
とか。色々楽しいことを語っています。
あと、キャンベルさん自体も、相当に破天荒な人生を歩んだ人みたいですねえ。そんなことも興味深そうです。
ただ、なんていうかなあ、神秘的だとか神話的だとかっていう文脈や言葉は多いですけど、基本はキチンと比較されて検討されて、そして思考された上の社会科学的な立脚点があるんですね。その上でキャンベルさんの、意思としては前向きだったりロマンチックだったりします。それは素敵なことで、要約しすぎると怪しい自己啓発本みたいに聞こえますけど、そうじゃないんですよね。
そこのコトバに至るまでに、読んで聴くに値する非日常なレベルの比較と検討と思考がある。大切なのはその過程の行為なんですね。結論ではなくて。それが、物凄く冒険な行為としてワクワクする感じ、ありましたね。
※ちなみに、「愛ある結婚」云々とあるのは、ほーんとに最後の方に、一部分だけ言っています。
日本語タイトルのつけ方は、編集サイドの苦心が偲ばれますね(笑)。
ちょっとでも売れて欲しい、読んで欲しい、そんな魂がこもった日本語タイトルですね。悪くはないと思います。
「神話学のアカデミックな本として捉えられたくない」という意思の表明ですからね。
後半はなかなか素敵でした。
またキャンベルさんの本、ちょっと読んでみたいな、と思いつつ。
「コレぁ、訳によっては、学術的な本を読んじゃうと、とんでもなく砂を噛む読書になるかもなあ」
と、いうぼんやりした不安もありけりなんですが・・・。
「千の顔を持つ英雄」とか、光文社古典新訳あたりで出してくれないかなあ・・・。いや、読んでみたら素敵な訳かも知れませんけどね・・・。 -
・ああ、たしかに。。。どうして神話の内容を精神的なたとえと見ないで、歴史的事実として見ようとしてしまうんだろうなぁ。死んだ人がよみがえるなんて、ありえないけれど、よみがえったと「考える」ことは誰だってできる。そう表現しさえすれば、進化論を教えちゃあかん!なんて話が出てくるわけもないのに。
・結婚の考え方が変わるとおもう。結婚を考えているひと、結婚したけどまったくうまくいかなくて困っているひと、もう離婚してしまったひと、読んでみるときっと面白い。ちなみにぼくは結婚できる気がしないので、まだよくわかりません。笑