歴史の終わり (上) (知的生きかた文庫 わ 1-9)

  • 三笠書房
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感想 : 6
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  • Amazon.co.jp ・本 (260ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784837905509

感想・レビュー・書評

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  • 一度消費文化に馴染んでしまったらそれを捨てることはできないという意見には激しく同意。一度贅沢を覚えてしまったら節制するのはなかなか難しい…。

  • 別段本著とは関係ないのだが、他人との比較による承認欲求の満足や、日々の積み重ねの記録が無ければ、人は生き甲斐を感じ得ようか。当然それは社会との繋がりが前提にあり、存在を認められて初めて生きる事を知るという根源的な前提になる。今、自分の頭に浮かんでいるのは、ギリシャ神話にあるシーシュポスの岩の話であり、我らイデオロギーはさて置き、繰り返しの徒労の中で生き死する無常観にも近い刹那である。歴史の終わりとは、ある完成形へのベクトルを見出し得た、つまりはイデオロギーの変遷に終着が見られそうだとする手応えへの発信であるが、しかし、人はそこから如何に生きていくのだろうか。人類の社会進化は、根本的羨望を満たす社会形態により完成するというのがヘーゲルにもマルクスにも想定された考えだ。人類社会ルールの完成が社会形態の発展の終焉だとする考えは、言葉をなぞれば単にその通りとも言える。社会ルールを導くのがイデオロギーであり、イデオロギーを巡る動きを歴史と考える。人生の抑揚も、個人としての思想の変遷に他ならない、であればこそ、社会形態の完成の後には、人間はそれを繋ぐ一構成員として岩を運ぶような労働のループに従事するというような事を想像してしまったのだ。そして、既にその社会に足を踏み入れているのではないだろうか。

    そんな観点で、本著と共に考える。

    本著のいう通り、共産主義は認知欲求に対し、重大な欠陥をはらんだ統治形態であるだろうか。逆に資本主義においても、結局は出世主義がその一役を担うに過ぎぬのではないか。価値賞賛を得るべく競争を続け、相対的な優秀さを競っても、究極は肉体の限界を脱せない。認知欲などは一時の悦楽に過ぎぬのだが、依存性高く、イイね!のボタン一つが人間を操作する。生存本能のセルフコントロールと共に認知欲求からの脱却が、即ち解脱と言えるだろうか。解脱の先が、気付きながら抜けられぬシステムに乗った徒労のループならば、我々はどこに向かうか。

    曰く、人間の原動力は欲望と理性と気概で構成されるが、ここでは気概という用語が馴染みにくい。認知のためのセルフプロデュースの源泉ともなる性質と理解すれば良いだろうか。気概なき人間を本著は、最後の人間と呼ぶ。しかし、血生臭い威信をかけたこれも曰く、最初の人間こそ、生き甲斐に満ちたと言えるのか。人間の原動力は支配欲求にあるというのが、私の持論だが、本著違わず、支配への欲望の源泉を認知とする。ループをごまかしながら、羨望を集める事が気概か?

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著者プロフィール

1952年、アメリカ生まれ。アメリカの政治学者。スタンフォード大学の「民主主義・開発・法の支配研究センター」を運営。ジョンズ・ホプキンズ大学やジョージ・メイソン大学でも教えた。著書『歴史の終わり』(三笠書房、1992年)は世界的なベストセラーとなった。著書に、『「大崩壊」の時代』(早川書房、2000年)、『アメリカの終わり』(講談社、2006年)、『政治の起源』(講談社、2013年)、『政治の衰退』(2018年)、『IDENTITY』(朝日新聞出版、2019年)などがある。

「2022年 『「歴史の終わり」の後で』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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