- Amazon.co.jp ・本 (317ページ)
- / ISBN・EAN: 9784837956570
作品紹介・あらすじ
これから歴史はどう進展するのか。特に本書の結末に示された「指導原理」は、欧米とは異質な歴史背景をもつ日本人にはきわめて重要だ。
感想・レビュー・書評
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・日本の社会はまずもって集団を認めようとする傾向がある。
・誇り高いリベラルな民主主義が、帝国主義への意欲を消し去っているということなのである。
・日々の生活の中にはびこる「対等願望」だけではもはや十分とは思えなかった。そして「優越願望」が大規模なスケールで再び姿をあらわしてきたのだ。 -
お見事です。
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結局、読むのに半年近く時間を要した。
それだけに読み終えることができてほっとした。
要所、要所にまさに2016年の今を予想させる記述もある。
「気概」それがキーワード
自由主義には、ロック流のものとヘーゲル流のものがあるということがよく分かった。
気概、気概こそ歴史を進展させてきたキーワード。
戦争がなくなり命をかける場所が経済的なものへ転化したこと、気概を消化しようとスポーツへエネルギーが向けられたことなど自分が思っていたことが記述されていることも多くあった。
さぁ、読むだけではだめで実践にいかさなくては! -
原題は「歴史の終わりと最後の人間」。
「歴史の終わり」はヘーゲルからのモチーフ。「最後の人間」はニーチェからのモチーフ。
フクヤマは、リベラルな民主主義が、第二次大戦でファシズムに勝利し、冷戦をへて共産主義にうち勝った歴史の流れについて、哲学的なアプローチで読み解いている。
すなわち、リベラルな民主主義が全体主義や共産主義に打ち勝った時点で、ヘーゲルの言うように歴史は完成し、人類のイデオロギー上の進歩が終点にたどりついた。しかし、自由な民主主義の世の中が実現したことで、ニーチェの言ったように、人間は目的を見失っているという問題提起。
もととなる論文を発表した時期が、ソ連や東欧諸国の自由化と同時期だったため、非常に注目された。
リベラルな民主主義に基づく社会形態が、さらに優れたものに取って替わられるということは考えにくい。
しかし、弁証法の考え方に従うなら、そこに矛盾が生じる余地がないと考えるのはいかがなものか。
現に、東西対立後はイデオロギーではく、宗教的な対立が世界的な問題となっている。
また、平等な社会が実現した後に、生きる目的の喪失という問題が残るならば、リベラルな民主主義内に新たな対立と発展の契機となる「矛盾」がなくはない。
そして、ことの重大さで言えば、「最後の人間」すなわち、生存権が保障される中での、人間が人間たるゆえんをどこに持つかという価値観の問題の方が大きい。
人間が生きるための後ろ盾になる価値といった問題となると、ここで引き合いに出されている西洋哲学の枠組みの中だけで考えるのはしっくりこない。
例えば、生きる意味を問うキーワードとなっていた「気慨」といった言葉も、ヘーゲルやニーチェが使ったように「命をかけて」といった具合で現代に持ってきても、ろくなことにならないと思う。
現実的にも、「気慨」というレベルではなくとも、何かをして他人に認証されたいという願望は、現代社会や組織内において大きな問題となっている。
この問題に対して、ニーチェを引用するにしても、近代の西洋哲学だけでなく、現代における彼らの後継者の成果を引き合いに出せば、もう少し現実味を帯びたものとなったのではないか。
とはいえ、上下600頁にも及ぶ大作で、自由主義社会の成立に至る思想史的背景については、学ぶところが多々あった。 -
民主主義の限界。