- Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
- / ISBN・EAN: 9784861526169
作品紹介・あらすじ
ニューヨークが生んだ伝説。「作品」と「言葉」で紡ぐ人生哲学。ファッション、ストリート、ヌード、絵画まで、その全貌を伝える約230点を収録。
感想・レビュー・書評
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ソール・ライターの、カラーにこだわった写真はそれでもカラフルとはまた違う、静かな、優しい、彼の生活圏のささやかな日常を、彼の視点によって見るものに随分とドラマチックに印象づける。
仕事の写真でさえ何故か、ファッションだけではないなにかが静かにエモーショナルに語りかけてくる。
傘や雪についた足跡や、ガラス越しの人や風景、子供たち。
彼の写真はまさにデッサンのようで、油絵のようで、さりげなく、そして同時に強烈な印象を残す。
似たような素敵な写真は沢山見るけれど、彼のように何者にもなりたくない、ただ撮りたい、そんな人が撮った写真はただ静かに、孤高としてそこにある。
ページをめくる度に、心が震えるのを抑えることが出来ない。
ドラマチックな一冊。
Photographs are often treated as important moments
but really they are little fragment and souvenirs of an unfinished world.
写真はしばしば重要な瞬間を切り取るものとして扱われたりするが、本当は終わることのない世界の小さな断片と思い出なのだ。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ソールライターの写真集。
ファッション写真をとっていたから、かっこよくスタイリッシュな写真が多い。
でも、スタイリッシュなだけではない。
この写真集には何らかの「リアル」が感じられる。
人を遠くから眺めているような、何か(例えば、雨の降った窓から、車の窓から)から、人を覗いているようなショットが多い。
背景のように配置される、撮られていることを意識していない人達。
真正面からカメラと向き合っているような写真はあまりない(後半のヌードの女性たちは若干、カメラとの1対1の対決の様にも見えるが)
それは、ソールライターが、人間を、他人を、簡単に理解できるものではないと考えているからだと思う。
自分自身ですら、実は理解できていない、不可解な人間と言う存在。
一人一人の人間をそのまま、距離感のあるまま映す。
そのことがこの写真の真実さ、ソールライターの誠実さを表しているように思える
この本に記載された、以下のソールライターの言葉からも、それは垣間見れる。
「写真はしばしば重要な瞬間を切り取るものとして扱われたりするが、本当は終わることのない世界の小さな断片と思い出なのだ。」
「自分が今何を見ているのか確かでない時が好きだ。
何故、私たちがそれを見つめているかが分からず、
ふいに見え始めた何かを発見する。この混乱が好きなのだ。」 -
kankankawaiさんの感想を見て、興味を持ちました。2020.8.8.pm
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映画を見て、もっとこの人の作品に触れたくなった
言葉で訥々と語る彼が
写真を通して語りかけるような気がして
ようやく 意味が分かってくる
一枚一枚に込めた 写真の意味
そして、写真家としての、彼の意義
素晴らしい
言葉も、写真も
表現はやっぱり悪くない
深刻にならずに、熱中したい
子どものように
永遠に 大人を忘れるかのように -
たまたま購入することになって、初めて知ったソール・ライター。
魅力的な作品集に夢中でページをめくりました。 -
格好いい。一目惚れで購入。
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『The secret of happiness is nothing to happen.』
穏やかな人生を求めたい。人生をかき乱す原因は往々にして人との関係に由来する。そうだとすれば、世捨て人のように出来るだけ世間との接触を絶って生きていくのが良いのかも知れない。そんなことを徒然に考えたりもするが、もちろんそれが容易ではないと直ぐに思い至り躊躇が生まれる。けれどソール・ライターは、ひょっとしたらとそんな困難な人生を敢えて歩んだ人であったのか、そんなことを信じてみたくなる。「孤高」。思わずそんな言葉が口を衝いて出る。それが少しばかり極端に切り取られた彼の人生であると解ってはいても。
その印象を生み出すのは彼のbiographyではなく、撮られたphotographyだ。しかも経済的に困窮していたと言う後年の時代の写真ではない。ライターがまだファッション写真を撮ることを生業に活躍していた時期の写真に、既に何かひっそりと生きる仙人のような息遣いが漂っている。ライターのいわゆるストリートフォトは、誰かに向けて撮られたものでもなく、強く個性を主張するためのものでもない。ただただ写真家の「印象」を幾分凝った構図の中に封じ込めたもの。そこに写る人々はカメラと対峙する被写体として存在する訳ではないのに、背負った人生をその瞬間に表出しているかのように写り込む。しかし往々にして、その存在は切り取られた視覚の片隅に追いやられ、背景に後退する印象を与える。踏み込まない。そして踏み込まれない。そんな距離感がその写真からは感じられる。
『A person's back tells me more than the front.』
自分の撮る写真もまた、はからずも人の背中が中心だ。余白を絞り切れない背景の中でそのプロフィールが何かを語りそうになる瞬間が自分は好きだ。人は幾ら公の場に居たとしても見られている気配に対して無防備である時、内面を思わず晒してしまう生き物なのかも知れない。その漂う気配と辺りの風景は決して無関係であるようには見えない。
あるいは逆に、瞳の写り込んだ写真には、見る側に特別なシナプスの結合を促す作用があるということなのかも知れない。アンリ・カルティエ=ブレッソンのポートレートやハービー山口のポートレートのように、何かを語りそうで語る寸前で止まっている被写体は不安な気持ちを掻き立てないが、瞳の映る写真の多くは見るものを糾弾するように不安な気持ちに追い込みがちだ。それは、ソール・ライターのポートレートでさえ同じこと。いや、むしろ、ライターのポートレートではそれがより強く感じられるようにも思う。
ライターは写真に閉じ込められた被写体の人生の悲哀を見通せてしまった。だからこそ、輻輳するリフレクションの中にそれを封じ込め、一見したところ意図を感じさせないストリートフォトを追いかけたのでは? そんな答えのない問いを投げ掛けて見たくなる。 -
常にうつろいゆく美に対して敏感な意識を持ち、ただ見つめてそっと写真におさめたい
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「私が写真を撮るのは自宅の周辺だ。神秘的なことは馴染み深い場所で起きると思っている。なにも、世界の裏側まで行く必要はないんだ。」「雨粒に包まれた窓の方が、私にとっては有名人の写真より面白い。」