ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義

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  • Amazon.co.jp ・本 (436ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784861827037

作品紹介・あらすじ

ポストモダンの原基を攻略する

68年、著者二人の出会いが、革命の書を生んだ。この複雑な網の目のような“危険な思考”は、しかし、あまりにも、わかりにくい。
「欲望機械」、「分裂分析」、「器官なき身体」など、正体不明な用語を丁寧に説明。きわめて創造的な思想とそのカオスな文脈をきっちり解きほぐす。知に衝撃を与えた、“わけのわからない”テクストを、現代思想の第一人者が、わかりやすく完全読解。

「この講義では、フランスの現代思想・文学事情に通じていない読者には、……かなりの辛抱強さを必要とする、読みの実践を試みた。最後までついてきてもらっても、「分かったぞ!」 という爽快感は得られないかもしれないが、現代思想の複雑な思考の網目を辿っていく糸口を得て頂ければ、幸いである。」 本書[はじめに]より

感想・レビュー・書評

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  • 精神分析の親子の3者の関係ではなく社会まで拡大してとか「機械」とか言いたいことはわかるんだけど、でも「ここにエディプスがある」という状況を何度も経験してしまうと、もうエディプス抜きで物事を捉えることから離れづらい。

    (そもそも言ってることがわかってないから離れられない)

  • 「アンチ・オイディプス」は、いわゆる現代思想の一つの到達点的なイメージがある。わからないことで有名な現代思想の到達点であるから、わからないことにおいても頂点だ。(「千のプラトー」よりはマシかも)

    原著の出版は翻訳が出たのは1972年、日本語翻訳が出たんはたしか80年代後半。日本語版の最初の4分の1くらいは我慢して読んだが、そこで挫折。以降、40年間くらい積読状態になっていた。

    著者の丁寧の読解を通じて、なんとか読んだ気になった。

    と言っても、この本がまた結構難しくて、わからないところはまだ多い。この本が何についての本なのか、それは標題にあるように「精神分析」と「資本主義」の本なのはわかるのだが、それがどう関係しているのか、そこの何を著者が問題視してい流というところまではわかったというレベルかな。

    いわゆるポストモダーン的な多元論、相対論ではない。今の資本主義システムにどう抵抗するかという目的に向かっての戦略論、戦術論のような本なんだな。

    今から50年以上前の本だが、その後、世界が経験したことを理解するフレームとして古くない。今だからこそ、やっとわかる議論もあるに違いない。

    昔は、ドゥルーズ=ガタリの思想とドゥルーズ自身の思想の差とか全くわかってなかったが、徐々にその辺りに見えやすくなっているような気がした。

    講義に関する聴衆とのやりとりがなかなか緊張していた。そういうやりとりを本に残すのもなかなかのものだと思った。結局のところ、なんでこんな難しい、意味不明な書き方をするのか、誰に対して議論をしているのか?ということかと思う。

    著者は、フランス現代思想を理解するには、周辺の知識をかなり必要とするし、辛抱強く文章を読んでいく必要があると言っていて、それはその通り。

    でも、ここまで難しい書き方をしたら、理解できる人はそんなにいないだろうし、誤解もたくさん生じるであろう。この本が、ある種の革命の呼びかけみたいなものだとすれば、誰に伝わるんだろうというのは、やはり素朴な疑問として残るかな。

  • 『アンチ・オイディプス』という本はフロイト以来、精神分析と共に流行し定着した「家族中心主義・性愛主義・自我中心主義」を批判的に取り上げている本で、ポストモダンの源流となった本である。極めて難解なことが有名で、私も事前知識なしに読んでさっぱり意味がわからず(何をテーマにしているかすらわからない)、挫折した・・・。

    そうした経緯もあって、仲正昌樹さん著『アンチ・オイディプス入門講義』、また最近発売されて話題になっている千葉雅也さん著『現代思想入門』を読んで、現代思想そのものを基礎の基礎から勉強することにした。
    と同時に檜垣立哉さんの『ドゥルーズ入門』(とても入門と思えないほど難解)も同時に並行に読むことで、なるほどドゥルーズやガタリはこういうことが言いたかったのかとなんとなくわかるようになった。それでも相変わらずほとんど意味がわかりませんが・・・・。

    『アンチ・オイディプス』は、左派思想にも右派思想(例えば、ネグリ=ハートの<帝国>、ニック・ランドの加速主義など)にも大きな影響を与えた本なので多少なりとも読み解くことができてよかった。今後も時間があるときに読んでいこうと思う。

  • 2016年から2017年にかけておこなわれた著者の講義をまとめた本で、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』の文章を引用して解説を加えながら、この書が全体を通じてなにを意図しているのかということを明らかにしています。

    日本語で読める『アンチ・オイディプス』の解説書には、すでに訳者である市倉宏祐の『現代フランス思想への誘い―アンチ・オイディプスのかなたへ』(1986年、岩波書店)がありますが、ごく早い時期の本でドゥルーズの思想がまだ充分に消化されていないかったためもあるのかもしれませんが、なかなかむずかしいと感じたので、本書のわかりやすい解説はたいへん有益でした。

    ただ、本書で紹介されている質問者も触れているのですが、なぜドゥルーズ=ガタリが精神分析に対してこれほどこだわっているのかということが、まだ充分に説明されていないような気もします。むろん著者も、「精神分析」と「分裂分析」のちがいを明確に説明しており、さらに「精神分析」に対するメタ・レヴェルでの批判であると語られているのですが、それがどういう意味なのかもうすこしくわしく説明してほしかったように思います。

    この問題にかんしては、ドゥルーズの初期のヒューム研究を手がかりにすることができるのかもしれません。カントの批判哲学をしりぞけてヒュームの思想に「超越論的経験論」としての意味を見いだそうとしていたドゥルーズの試みにかんしては、江川隆男の『存在と差異―ドゥルーズの超越論的経験論』(2003年、知泉書館)が先鞭をつけ、千葉雅也の『動きすぎてはいけない―ジル・ドゥルーズと生成変化の哲学』(2017年、河出文庫)がかみくだいてその意義を解説しており、経験の表層に身を置きつつ世界の多様性をえがきとろうとするドゥルーズの試みがていねいに論じられています。こうしたスタンスは、精神分析によって「構造」にさかのぼることなく「欲望」の多様性を肯定する『アンチ・オイディプス』の戦略に共通しているような気がします。

  • ドゥルース+ガタリの「アンチ・オイディプス」の上巻は読んだが、全然歯が立たなかった。本屋で本書を見付けた時、頭の中で「やめとけ、やめとけ、無理すんな、若くもないんだし」という声もタップリ聞いたが、兎も角読み始める。
    時間掛かったなあ。

    この読みづらい元本をかなり嚙み砕いているので、有難いとは思う。元が引用を明示しないで書き飛ばしているのを、一つ一つ説明しているのが博覧強記振り。その仲正先生ですら終盤、恐らくこういうことを云っているという表現が増えてくる。元書は判らせようと微塵も思ってないんだな。
    フロイトの言うエスが「機械」に置き換えられる。“自動的”にあるいは“自立的に”運動しつづけていくもの一般。これが人間の身体、精神、社会を同次元で適用されるので、欲望機械、独身機械、資本主義機械という言葉がバンバン出てくる。欲望機械は一つに纏まることなく、てんでバラバラに出鱈目に何処かに引っ付こうとするものという。
    そして「器官なき身体」。究極の不動の状態。終盤で改めて、欲望機械によって各器官に機能分化“以前”の身体、ヴァーチャルな身体と説明される。社会体の最初の形態「大地」は大地機械とも記述され、欲望の流れをコード化する。
    こうした内容がピンと来ない。

    聴講者からも何故、オイディプスを批判の対象とするのか判らないという質問がある。現在の精神分析ではさほど重要とされていないし、フロイトがオイディプスを云い出したのは、かなり晩年だし。精神分析の用語を別の意味に使っているのも不信を持たれている一因のよう。

    大地機械、専制君主機械、資本主義機械とそれぞれの身体。脱領土化と再領土化、脱コードと再コードの論議は興味深い。資本主義機械がすべてを飲み込んでいく先は「死」なんだろうけれど、具体的なものが見えてこない。
    パラノイアと分裂症については、基本的な知識を欠いていて、正直よく判らない。

    素直に首肯する部分が少なくて、ポストモダンなんてこんなものかと思うのだが、後書きで仲正先生が、安易な反ポモ(ポストモダン)を唱える前に、という一文を記されている。バカはバカなりに我慢して考えることが必要ということだな。

  • 講義の書籍化であるため、テクストの重要箇所を抜粋して、それについて引用元を明らかにしながら、時には例示も交えて丁寧に解説されており、非常にわかりやすく、概念もイメージしやすい。他のドゥルーズのガイドブックが、原文よりも難解なのではないかと思えるものが多い中、本書はテクストの流れに沿って論理立てて読み解くので、誤読になりにくいと感じた。学生の頃にこのような著作が欲しかった…。
    ベルクソンを引き継ぐ分子生物学的な発想から、欲望を欠乏ではなく、分裂的で自動的に動く意味での"機械"と捉え、そこから器官、身体、さらに拡張する形で原初的な大地、専制君主、資本主義を想定しており、そのようなモル的なまとまりが拡大していく上で、保全のために内部に抑え込むパラノイア的性質が、革命能力を持つ分裂的性質を抑え込む。フロイト精神分析のオイディプス・コンプレックスの考え方は、全ての無意識を父-母-子に代理させる意味でパラノイア的であり、本質的でないだけでなく思考を固定化し抑え込むため危険である。後者の分裂的性質に注目すべきで、それがドゥルーズ+ガタリが対象とする分裂分析である。

  • 何度も「アンチ・オイディプス」に挑戦してすぐに挫折したけれど、これはめちゃくちゃわかりやすい。
    オイディプス的三角形(いわゆる父ー母ー子の)は欧米的制度がはらむ単なる偏りであり、人間の欲望というのはもっと奔放で家族のみならずあらゆる物の影響を受けながら整流されるものであるということが言いたいらしい。
    その意味で、ヨーロッパで生まれた精神分析と文化人類学は、「はじめに構造があった」という前提に立っているがゆえに双生児のようなものである。
    がぜん「ミル・プラトー」が読みたくなっている。

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著者プロフィール

哲学者、金沢大学法学類教授。
1963年、広島県呉市に生まれる。東京大学大学院総合文化研究科地域文化専攻研究博士課程修了(学術博士)。専門は、法哲学、政治思想史、ドイツ文学。難解な哲学害を分かりやすく読み解くことに定評がある。
著書に、『危機の詩学─へルダリン、存在と言語』(作品社)、『歴史と正義』(御 茶の水書房)、『今こそア ーレントを読み直す』(講談社現代新書)、『集中講義! 日本の現代思想』(N‌H‌K出版)、『ヘーゲルを越えるヘーゲル』(講談社現代新書)など多数。
訳書に、ハンナ・アーレント『完訳 カント政治哲学講義録』(明月堂書店)など多数。

「2021年 『哲学JAM[白版]』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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