「食べる」思想 ~人が食うもの・神が喰うもの

著者 :
  • 洋泉社
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  • Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784862485212

作品紹介・あらすじ

私たちは「食べる存在」であるから、「われ思う、ゆえにわれあり」ではなく、敢えて、こう言わなければならない。-近代哲学が意識の外においてきた、「食としての存在」が「私」という存在を根本で支えていることの意味を根源的に問う。いのちと「食」をめぐる問題に一石を投じる問題作。

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  • 「食べる」思想
    人が食うもの・神が喰うもの

    著者:村瀬学
    2010年3月22日発行
    洋泉社

    デカルト「わたしは考える、ゆえにわたしは存在する」に対し、
    「食べる私」の「私」が、たえず「だれか」あるいは「だれかの捕ったもの」の提供を受けて存在していることが見えてくるはずである。もう少し言えば、「私」というのは、「私」一人で独立しているわけではなく、絶えざるだれかの提供物を受けて、それを「食べる」ことによって存在することができていたものであることが見えてくるのである。

    私にしか関心を払わないと、自分の食べる物が多くの人の手を通して自分の「日」に届いてきていることが、だんだんと意識の中から外されることが起こってくる。生き物や動物と呼ばれているものは、「一口サイズ」にされることではじめてわたしたちの「食べ物」になるということである。わたしたちの多くは、自分で生き物を捕って「口」に入れることができないということである。それはだれかが代わってやってくれて、わたしたちの「口」まで運んでくれるということである。

    生身の生き物や生き物の姿形をしているものに相対する時と、その姿形を失ってしまったものに相対する時には、人間はおのずと違った態度を取ってしまうことについてである。(22)

    スープが「ブイヨン」であるときに、牛や豚や鶏の肉や骨をすりつぶしたりしたものを「美味しい」と言って飲んでいることになる。私たちのほとんどの人間は、そういう「美味しいスープ」を飲んで、そこに「牛や豚や鶏」が入っているのを知って可哀そうに感じたり、スープを飲むことに「ためらつたり」することはない。しかし、肉が入っていますと言ったとたんに「ギェ」と言う人も出てくるかもしれない。(23)

    『いのちの食べかた』含5 0五)という映画が上映されてきた。監督、ニコラウス・ゲルハルターが二年かけて、さまざまな「食肉センター」における「居畜」のすさまじい様子を、ドキュメンタリーとして淡々と紹介している優れた映画である。(32)

    世界の「屠畜」を見て回ってきた報告書、内澤旬子『世界居苦紀行』(解放出版社(2007)

    他の生き物の大事さを考えることがあっても、やはり食べてしまうと「ほっと」するのである。これはいかんともしがたい生体の仕組みだ。他のいのちを大事と考える心と、さっさと食べてしまってほっとする心は、実は「折り合いがつかない」し、矛盾してしまうのである。でも、その矛盾した形そのものが、そもそも「いのち」としてのあり方になっているのである。(40)

    1972年10月、アンデスの雪山に墜落して残った生存者。神はわれわれが生きることをお望みになり、友の死体という形でその手段を与えたもうた。もし神がわれわれに生きることを望んでおられないのなら、われわれは墜落と同時に死んでいただろう。いたずらに神経質になって、この生命の贈物を突き返すのは誤りである……。(62)

    大変冷静に、大変合理的な考え方から人肉を食べるに至っていたのである。それは「神」の存在を持ち出すことによってである。

    「一ロサイズ」の問題は、ただ「食べるものの大きさ」を「日」に入るように「小さく」することだけを言っていただけではなく、実は「世界の大きさ」を「口」で語れるように「小さく」することとも運動していたのである。つまり「食べる」ことは、それほどまでに「語る」ことと不可分なもの。(89)食べる神」はまた「言葉を語る神」

    「臓器移植」は「田」から人を食べるものではないが、「人の身体」を「自分の身体」の中に取り込むわけであるから、それが「食人」のバリエーションでなくてなんだろうと彼は考えるわけである(96)

    母乳を飲んで、自分は人の体の一部を食べているのではないかという、そういうぞくっとする「人食い」の感触を直感的に感じたからではなかつたか、という感想である。身近なところでそういうことの可能性は考えられたかも。(116)

    ハンニバルで自分の脳を食べるシーンにからめ・・・「一ロサイズ」にされたものは、それが自分の身体の一部であっても「おいしい」と食べてしまうわけである。(153)

    庶民は「生きているものを殺すことはいけない」と単純に考えながらも「しかし、他人の殺したものは平気で食べられる」。庶民はそういう矛盾を、たいした矛盾とも考えることなく暮らしている。でも鳥山は、そういう矛盾した考えが「なんの迷いもなく同居していることがおそろしくてならない」などと書くのである。ここでなんで「おそろしくて」などという大げさな言葉をもってきて異論を言わなければならないのか。

  • これを読みたかった時から時間が経ってから読んでしまった。めんどくさいことを書いているなぁと思ってしまった。

  • デカルトは「我考えるゆえに我あり」と言ったが、本当にそうか? 「我食べる故に我あり」ではなかろうか、から始まる「食べる」思想を説いた書。
    面白かった! 人が食人する宗教的な理由として、まず食べる神の存在、食べる存在として人が神を生み出したとし、その究極の食べ物として人を供犠してしまったのだ、というのはなるほど、と唸った。
    また親族の人食は彼の魂のためによくなるという風習の土地では、罪悪感を見いだせないそうだ。そうなのだろう、と納得し、受け入れてしまえる今現在において、食人を忌避するのは結局はグローバルな文化でしかない、とよく理解できる。
    現在、尊ぶべき生き物が、しかし食物として我々の前に表れると「おいしそう」になる。この「一口サイズ」への食物化を疑問視するのはおかしいことで、そうでなくて、我々のその食人や食を粗末にすることを忌避するこの文化で、十分、生き物を尊び、食べ物を大切に食べる思想は植えられる。
    ずっと感じていた食人への、なぜ自分がいけないと思っているのか、納得いかない気持ちがかなり整理されました。大事に読みたい一冊です。

  • 人は食べ方で体型も考え方も変わる生き物である - 読んだものまとめブログ http://t.co/6iG0X6

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著者プロフィール

1949年京都府生まれ、評論家。
著書『初期心的現象の世界』『「いのち」論のはじまり』『「あなた」の哲学』『徹底検証 古事記』『古事記の根源へ』『『君たちはどういきるか』に異論あり』『いじめの解決 教室に広場を』『吉本隆明 忘れられた「詩的大陸」へ』ほか、多数

「2023年 『詩文集 織姫 千手のあやとり』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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