白い鶴よ、翼を貸しておくれ

  • 書肆侃侃房
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  • Amazon.co.jp ・本 (544ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784863854215

作品紹介・あらすじ

秘められた谷で若き戦士たちは愛するもの、愛する谷を守るため剣を取った。谷の人々は時代に翻弄されつつ、もぎとられても切り裂かれても信じる道を進み、誇りと愛を失わなかった。その先が地獄とわかっていても。
生きて、誓いを守るために・・・・・・。
――『月と金のシャングリラ』漫画家・蔵西


亡命チベット人医師が遺したチベット愛と苦難の長編歴史小説

1925年、若きアメリカ人宣教師スティーブンス夫妻は、幾多の困難を乗り越え、チベット、ニャロン入りを果たした。現実は厳しく、布教は一向に進まなかったが、夫妻は献身的な医療活動を通じて人びとに受け入れられていく。やがて生まれた息子ポールと領主の息子テンガは深い友情で結ばれる。だが、穏やかな日々も長くは続かない。悲劇が引き起こす怨恨。怨恨が引き起こす復讐劇。そして1950年、新たな支配者の侵攻により、人びとは分断され、緊迫した日々が始まる。ポールもテンガもその荒波の中、人間の尊厳を賭けた戦いに身を投じてゆく。

感想・レビュー・書評

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  • 今年の1月から数えて、ようやく100冊目に突入!
    この節目には、(恐らく)人生初のチベット文学に挑戦した。しかも中国の支配下に入る前の話。

    1925年アメリカ人のスティーブンス牧師夫妻は、キリスト教布教の召命を受け、チベットのニャロンに赴くことになる。
    ニャロンはキリスト教にとってまさに未開の地。全チベット人を改宗せん勢いで現地に踏み込んでいく姿勢は、まるでフロンティア・スピリットに溢れた西部アメリカ開拓民のようだった。

    その頃のチベットは、他国の権限はおろか、外国人の立ち入りさえ厳しかった。各地域はポンボ(土地の長)によって支配されており、ニャロンの谷の一つもタゴツァン家が支配している。
    だからタゴツァン家やラマ(高僧)が布教活動を許可したのが驚きでしかなかった。(同じ仏教国なのに、どこかのキリシタン排斥国とは全然違う) それがタゴツァン家との交流を生むと同時に、最初の悲劇を生み出してしまうのだが…

    出立の第1部、怒涛の第2部、友好の第3部、分断の第4部、闘いの第5部(エピローグ含む)
    計5部の構成だが、それぞれにテーマがあるとしたらこんな感じだろうか。
    少なくともこの5部で、チベットの風習・衣食住の輪郭は何となく掴めた。そして非道な仕打ちを受けた涙の近現代史も。
    血気盛んではあるが、他国には絶対に干渉せず、古くからの暮らしをひたすら大切にする人達。何より(一部を除き)みんなおおらかで伸び伸びとしている。
    これが、支配前のチベットで生まれ育った著者の記憶にある風景なのかな。

    「俺たちの方はたぶん歴史のごみ箱に放り込まれる運命なんだ」
    「人生において本当に重要なのは勝ち負けではなく、自分たちの権利のために立ち上がること。勝ち目があろうとなかろうと関係ない」

    何故そうまでして支配する?人々の心の拠り所で生活の一部だった宗教まで解体されなきゃいけない?
    宗教同士の衝突はよく聞く話だが、今回は無宗教(中国共産党)が脅威に成り代わっている。中国共産党の圧倒的戦力と"洗脳教育"により、彼らの日常が内から、外から駆逐されていくのが耐えられなかった。場面転換の前に本を閉じ、涙を拭いて心を整理してからでないと読み進められなかった。

    もっとも喪失感・憤りを禁じ得なかったのは著者の方だろう。1955年ロンドンの大学を卒業したが、生まれ故郷はもはや事実上の独立国でなくなっていた。2007年にようやくチベットを訪れた時、彼の見知った風景は見る影もなかったという。(その失望がエピローグに表れていた)そして、本書が遺作となった。中国の支配が、本書のような新しいチベット文学を誕生させたというのは皮肉なものだ。

    本書は間違いなく100冊目という節目に相応しかった。谷のみんなが育み、最後まで消えなかった家族愛・友愛・郷土愛が翼を広げ、より多くの読者の心に届くといい。

  •    白い鶴よ
      翼を貸しておくれ
      遠くには行かない
     リタンを巡って帰るから

    著者のツェワン・イシェ・ペンバは、英領インドの教育を受けるためにインドの学校に入学し、さらにロンドンの大学で医学を学び、チベット人で初めて西洋医学者を学び外科医になり、英語で自伝と小説を書いた人物だということ。
    自国を書く作家というのは、国を離れて客観的に見たり外国と比べたりして余計に自国のことが書けるようになる人がいる。
    そしてこの「白い鶴よ、翼を貸してくれ」は、著者が遺した原稿を遺族から預かったチベット文学研究者により出版された。この小説は英語で書かれている、作者自身はチベットとは話し言葉であり書き言葉ではなかったようだ。
    この印象的な題名はダライ・ラマ六世の遺した詩が元になっている。
    ダライ・ラマ六世は15歳で即位したが、20歳のときに出家修行者の立場を返上して還俗した。それ以来は髪を長く伸ばし町で恋愛と即興歌作りをして過ごしたが、その素行やダライ・ラマという位を政治利用され、北京に護送される途中の地で没した。暗殺とも病死とも言われる。
    ダライ・ラマとしては異質だが、その性質や詩は民衆から親しみと愛情を持たれていたという。
    そして「白い鶴よ」は彼が遺した詩だった。

    読書会のために読んだので、かなり長く記載します。

    まずは年表と用語。(いくつかwiki転用)
    ❐アムリケン⇒チベットの人々がアメリカ人をこう呼んだ。
    ❐リンポチェ⇒高貴なラマ、化身ラマ
    ❐化身ダライ・ラマ⇒この世の衆生を教え導くために、如来、菩薩、過去の偉大な仏道修行者の化身としてこの世に姿を現したとされるラマ
    ❐ダライ・ラマの転生⇒ダライ・ラマが没すると、その遺言や遺体の状況、託宣などから、次のダライ・ラマが生まれる地方やいくつかの特徴が予言される。その場所に行って子どもを探し、誕生時の特徴や幼少時の癖などを元にして、その予言に合致する子供がダライ・ラマの生まれ変わりとして次の位に就く。
    ❐ポンボ⇒地域の長、領主。裕福で影響力も勢力もある氏族がなる。徴税、法の執行、罪人への処罰を行う。大きな僧院のリンポチェが、ポンボということもある。
    ❐カムパ⇒チベットの高地はカムと呼ばれ、ここに住むカム人はカムパと呼ばれ世界最強の部族集団と言われている。この物語の舞台となるのはニャロンという高地。カムの西側はラサのチベット政府の管轄、東側は中国政府の管轄で中国では西康省とも呼ばれる。

    1697年 ダライ・ラマ6世即位
    1706年 ダライ・ラマ6世廃位、死去。「白い鶴よ 翼を貸しておくれ」
    1906年 趙爾豊(ちょうじほう)に率いられた清朝軍がチベット侵略。清朝軍は残虐の限りを尽くしたという。
    1924年 物語の始まり
    1937年 日中戦争
    1941年 日本アメリカ開戦
    1949年 毛沢東を主席とした共産党が、中華人民共和国の建国を宣言
    1950年 人民解放軍が中国から分断されたチベットから米英の影響を駆逐し、チベットを開放するために進軍する。「チベットの人民は団結してチベットから帝国主義侵略軍を駆逐し、中華人員共和国という祖国の大家族に戻らなければならない」(1951年北京放送)
    1966年から1976年 文化大革命

    ===

    1924年、サンフランシスコからチベット入を目指す牧師夫妻のジョン・マーティン・スティーブンスとメアリーがいた。
    チベットには土着の宗教、仏教、そして一時的だがキリスト教宣教師がいたこともある。
    仏教の寺にかかっている古い鐘にはラテン語でキリスト教聖歌の一節が刻まれているという。
    中国奥地に派遣された宣教師は医療的にも歓迎されていた。教会は教育・医療・布教の役割を担っていたのだ。
    険しい山道を越えチベット入したスティーブンスとメアリーは、まずは医療から住民に受け入れられてゆく。
    病気の対処法も、アメリカとチベットとはあまりにも違った。僧侶に祈り、呪いをしてお守りを貼る。病人には水を与えず悪霊を体に入り込ませないためには眠らせてはならないなど、医学的見地からすると正反対のやり方を行っている。
    アメリカとチベットは地球の反対側だ。チベット人にとっては、地球が丸くてチベットが朝のときにアメリカでは夜だということも実感できない。だからチベット人たちは、アメリカ人との考えや風習の違いも「我々は正反対なんだ。考え方も、物事への対処法も」として受け止める。

    そしてこの地のポンボであるタゴツァン家の妻の出産を手伝ったことから、タゴツァン家の全面的な信頼を得る。
    このとき生まれた次男のテンバ・ギュルメ・タゴツァン(愛称テンガ)は、後に生まれたスティーブンス夫妻の息子のポール(愛称ポーロ)とともに兄弟のように育っていった。
    ポンボ・タゴツァンの勧めで寺院のリンポチェたちにも会ったスティーブンス夫妻は、キリスト教布教の許可を得ることができた。

    このあたりの、チベット人がもともと宗教があるにも関わらずキリスト教布教をあっさり認めた経緯が彼らの思想を表している。
     <われわれチベット人は、チベットの独自の宗教を信じています。深淵で複雑で、奥が深く、人類のあらゆる宗教的願望を叶えてくれます。われわれは非常に信心深い人間です。あなた方がもたらそうというのは別の宗教ではありますが、反対するわけがありませんよ。哀れみと寛容は我々の信仰の柱です。どうぞ布教活動をして神のお言葉を広めてください。あなたの言葉をこの地の人々に聞かせてください、どの宗教を信じるかは人々次第です。信仰のための祭壇は果てしなく広いのです。われわれは無限(タイエー)と読んでいます。別の神のための場所はいつだって存在するのです。P91>
     <宇宙の無限の広大さと、その無限の広さを知覚する精神の間には何ら違いがないということです。P102>
     <仏教を理解するには一生ではとても足りませんよ。2千年以上の人間の英知が、哲学的思索が作り上げた思想体系です。P108>
     <あなたがたの宗教(※キリスト教のこと)にはよい宗教の備えているべき要素がすべてあります、そうであるならば、その宗教はーおそらくですがー追い求め、信奉する勝ちがあるのです。P116>

    しかしニャロンの僧院はただ宗教施設というだけではなく、地下には膨大な武器を蓄えていたのだ。
    僧院の役割は、民衆を領主の横暴さから守ることでもある。かつてかつて清朝軍の侵略によりチベットはあまりにも酷い残虐の限りを受けた。そしてまた近い将来にきっと戦いとなるであろう。その時は武力で戦わなければいけない!

    ニャロンで生まれたポーロは、中国語と、ニャロンのチベット語と、英語とを話した。
    タゴツァン家では我が子同然の扱いを受け、年齢のほぼ同じテンガとはいつも一緒に遊んでいた。英語のレコードでダンスを踊り、チベットの昔話を聞く。
    タゴツァン家でテンガの世話役のアー・ツェリンはポーロとテンガとにカムやチベットの昔話を聞かせる。かつて清朝軍から受けたあまりにも酷い残虐の限り。また戦いとなるであろう。だが広大な中国に抵抗するだけの誇りと勇敢さを彼らは持っていた。相手を用心することは大切だ。だが恐れることはない。自分たちは剣を体の一部とし、荒馬を乗りこなし、そして心に誇りを持ち決して臆病にはならない偉大な氏族なのだ!

    ニャロンに溶け込みつつあるスティーブンス牧師一家だったが、キリスト教布教活動と、医療に対する考えの違いは一部の現地の人たちの反感を買ってしまう。
     <アムリカ(※アメリカ)で適切かもしれないことがここでは違うのかもしれないし、ここで正しいことがアムリカで間違いなのかもしれませんよね。例えば、ここでお天道様が明るく照っているとき、アムリカでは確か夜なんですよね。(…略…)我々は正反対なのです。病気そのものも現れ方の点で異なっているのかもしれません。もちろん死亡率や治療方法も、ここチベットのニャロンでアムリカとおなじことをしてもほとんどうまくいかないんじゃないでしょうか。P143>
     キリスト教とはなんと単純なのか!まるでおとぎ話ではないか、<複雑さにかけ、チベットの仏教哲学における観想のような息もつかせぬ緊迫感はまったくない、それこそが人間の最も鋭い知性を揺さぶり、悩ませ、挑発するものであり、人間の最も深い思考を惑わせ、混乱させるももであり、あらゆる自称を有情も無情も含めて把握し、理解してやろうという人間の野望を打ち砕くものだ…そして空(くう)、さらに空を超越した地平も…P113>
     <私はあらゆる宗教に敬意を持っていますが、私にとっては自分の宗教が一番大事です。自分の宗教を捨てるくらいなら、母に百回死なれる方がましです。率直に言って、宗教ってもっと寛容だと思うんですが…P129>

    そしてそれは、後ろ盾となったボンボ・タゴツァン家も巻き込み大いなる悲劇を招いたのだった。

    数年後、テンガとポーロはニャロンの屈強な若者に成長していた。
    テンガは若者たちの大将として、強く高慢で多くの女達と性を交わし博打打ちで酒飲みで喧嘩っ早いことで悪名も轟かせたが、危険を察知する直感と生まれついて運を持ち、ニャロンでは畏怖されたリーダーだった。
    ポーロはテンガのほぼ副官のような立場で、ともに共に狩りをし、同じ女を想い合い、そして何ヶ月のかけてゴロク地方への狩猟探検に出た。
    ゴロク。そこは「中央アジアの奥深くにおける白色人種」が住み、略奪や強盗を収入としていたが、厳しい規律により結束を固めていた。だがテンガやポーロたちは、彼らと義兄弟の契を結び、女たちと夜を共にし、何度も彼らの居留地を訪ねたのだった。

    このころ中国では、蒋介石の国民党と、毛沢東たちの共産党の戦いが続いていた。
    国民党と共産党のそれぞれの方針が語られる。
     国民党「背信、腐敗、無能に抜本的な対策を取らなかった」「村に派遣され、略奪と強姦を行った」「だが二度と作ることのできない天国の果実、糞の山の上に咲いた最高に蠱惑的な花だった」
     共産党「献身的で、団結力があり、規律正しく道徳的」「なによりも自分たちの主張に絶対的な自信をもたせてくれるイデオロギーと思想をもち、自分たちが価値ある戦いをおこない勝利を確信している」「ひたむきで仕事に打ち込む清廉潔白で理想的な指導者に率いられている」「村に派遣されても強奪強姦は行わなかった」「将兵と一般兵士の区別は殆どない。人間にとって必要最小限のもののために戦っている。あらゆる人間を同じレベルに貶める。文化を楽しむ時間はなし。歌も贅沢品も性も文化もだめ、みなが同じレベルでカツカツに暮らす。みんなが手かせ足かせをかけられた状態で同じ船を引っ張る」「そしてその組織化により手にするのが一杯の飯」

    そして毛沢東を主席とした共産党が、中華人民共和国の建国を宣言し。中華共産党の人民解放軍は、「チベットから帝国主義侵略軍を駆逐し、すべてのチベット人を平等で規律の取れた中華人員共和国の一員として開放する」ために軍を送る。

    ニャロンの人々は決断を迫られる。
    <人生において本当に重要なのは勝ち負けではなく、自分たちの権利のために立ち上がること。勝ち目があろうと無かろうと関係ない。P270>
     スティーブンス牧師と妻のメアリーは、アメリカから米国民保護のための飛行機に乗り米に帰ることになった。かつて「すべてのチベット人を唯一無二の神であるキリスト教に改宗させたい」と言った彼らは、どんな宗教も受け入れるニャロンで25年も過ごしてすでにここが彼らの故郷だった。
    <私が個人的に理解し、解き明かしたいと思っているのは、人間に備わっている神々しさに関することだ、(…略…)我々キリスト教徒との中にも、偏見に凝り固まった、攻撃的で狭い視野しかなく、自分たちの信棒する以外のあらゆる宗教を軽蔑し、自分たちの須臾鏡を高みにおいて、あたかも自分たちこそが神なるものを独占しているかのように振る舞うものがいる。そんな主張は馬鹿げている!P502>
     脱出できるもの、闘えない者はニャロンを出て別の土地での再開を図る。彼らはある者は逃げ延び、あるものが捕らえられ、ある者は未だに戦っているのだろう。
     逃げる体力もないもの、家長が残ると決めた者、そして僧院の僧侶たちは国民解放軍を迎える覚悟を決める。
     闘える若者たちは山に籠もりゲリラ戦を闘う。リーダーは”なかなか仕留められない野生動物のよう”と言われるテンガであり、両親とは別の道を選んだポーロも加わる。

    進軍してきた人民解放軍は要求を告げる。
    「チベットはもともと中華人員共和国の一員だ。だが英米の帝国主義、身分制度、宗教的権威、封建的な地主や領主、資産を独り占めする資本家や商人、反動主義者が跋扈している。
    我々は彼らを粛清し、チベットを開放しに来た。
    我々自身が選んだ代表者が選ぶ中央政府の命令に絶対的に従わなければならない。それは我々一人ひとりの代表が選んだ我々一人ひとりの意思だからだ。
    偉大な新中国に必要なものは、労働者と農民と兵士のみだ。
    罪を犯したものは自ら罪を認め、今までの間違った信念を撤回し、精神的更生を受けなければならない。
    我々人民解放軍は、完全に人民の軍隊だ。
    チベット人は我々とともに偉大なる大中国の一員となるのだ。
    そのためには、いままで人民を搾取し抑制し労働を行わず堕落した生活を送ってきた資本家や反動主義者や僧侶たちを粛清せねばならない」

    僧院の僧侶たちはリンポチェの言葉を待った。
    人民解放軍は自分たちを放っておいてはくれない。降参すればすべてが失われる。戦えばすべてを壊される。どうやっても自分たちは根絶やしにされるだけだ。釈迦ですら亡くなったのだから、チベットの僧院が喪われることを受け入れなければいけないのだろう。しかし死そのものより死にどう立ち向かうか、それは屈服ではなくて高潔な大義に従うべきだろう。今後攻撃されるであろう他のチベット僧院に思い出されるように。「みなさんを肉体的にも精神的にも私のもとから完全に開放します。みんなを一切に近いから解除します」逃げることも、闘うことも、還俗することも完全に自由意思。しかし誰一人として僧院を出ることはかなかった。だが人民解放軍との闘いが始まると、彼らの受けた辛酸は想像を絶するものとなった。あらゆる屈辱、あらゆる苦痛。ここで死ななかった者はこのあともっと苦しむのだろう。だが屈することはできなかった。中共が要求するものはただの武装解除や還俗ではなく、もっと根本的なもの、何度もの交渉や闘いの末の双方が最終的に譲れない最後の要求だった。

    山に籠もった若者たちはゲリラ戦を続けていた。
    「自分の持っているものを死ぬまで守る。見込みがどうであろうと、敵が誰だろうと、どれほどの希望だろうと関係ない。放っていてくれれば平和を。土地に侵入してくる奴らには死を」
    <戦い、走り、隠れ、そしてまた戦う。じぶんがいずれ神秘の領域、死という無の世界に入ってしまうまで、もしくはもう一度自分の故郷を取り戻すまで、これを毎日繰り返すまでだ。(…略…)
    勝算があろうとなかろうと。どんな苦難に会おうとも、盲目的に戦い続けると心に誓った男たちだ。彼らはとりつかれたようにたった一つの不動の目的に向かって突っ走る。それでこそ男たちは行きやすくなり、人生において日々を生きる意味が与えられる。そこにはいくばくかの真実がある。はたしてどのくらいの人間が人生において生きる意味を心に抱いて日々を生きているだろうか?(…略…)
    足元の大地と頭上の空だけが自分のもの−それ以外は何も所有していない。宗教も、文化も、政治も、食生活も、着物も、言語も、歌も踊りも−すべてずっとあとからやってきたものだ。それは単に高度に複雑化された物にすぎない。彼らが望むものは足の大地との空−それらを自らもものとすること。それだけが彼ののぞみだ。それが彼の求める物の全てだ。それこそが心の自由なのだ。それが心の開放だ。P510>
    彼らは勇ましかったが数と武器の差には勝てない。
    そこでアメリカ人であるポーロは、チベットを脱出してアメリカに、または他の世界の国々に援軍を求める役目に選ばれる。
    ポーロがチベットを離れるのは初めてだった。
    アメリカでも「中共軍の只中で行方不明のアメリカ人牧師の息子」は救助の対象だった。
    だが助けられたポーロの言葉にアメリカ大使館員は慎重に返答する。いまアメリカは、世界は中華人員共和国という大国と事を起こすことはできないのだ。

    平和なアメリカでポーロは自分の居場所に、自分のやるべきことに思いを馳せるのだった。

    ===
    読書会のために読みましたので以下読書会メモ。
    ●チベット文学に下ネタはお約束なのか?
    ●狩りや生活など、自分が知らなかった文化を知れた。
    ●インド映画「輪廻の少年」を思い出した。インドの少年が「自分はチベット僧(リンポチェ)の生まれ変わり」という。現在はインドと中国は国境閉鎖。
    ●性について非常におおらか。男も女もあけすけ。だがポーロとテンガの初恋は貞淑な女性だったというのは作者の価値観なのか。
    ●最後は故郷を出て離散して終わったのが神話的。作中では年代が書かれているのだが、1950年以降は書かれていない。最後はおそらく1965年くらいにはなっているはずだが、書かないところで神話的になった。そして故郷を出たことによりそれまでの時間と違った流れになるところが哀愁。
    ●家族の絆は非常に強いのだが、子供が何ヶ月もかかる危険な旅に行かせるなど突き放すところもある。子供を個人としてみている。作中でも臆病が恥で、必要があれば命を掛けて戦うという土地柄なので、それが復讐の連鎖になることもあるが、子供を個人としてみるということにもなっている。
    ●実際にチベット人と話しても「そんな力を入れるな、話し合おうよ」という精神を感じる。
    ●解放軍と老リンポチェのやりとりが印象的。かつてチベットの王が国のすべての財を平等に割り振ったが結局貧富の差は生まれ、それを3回繰り返した。
    <悪しき物と苦しみとは、われわれのこの現世において本質的な部分なのです。でも果たして戦いに勝ち得るでしょうか?現世における行動の秘訣は悪しきものと苦しみに戦いを挑むことではありません。なぜならこの世の終わりまで続く戦いだからです、その秘訣とは、最大限の熱意で持ってその道を追い求めることで…P368より抜粋>
    ●中国は、地主との戦い、政治的戦いを繰り返して来ている。変化に対抗する。
    ●テンガについて。戦う時と逃げる時を知っている。作中でも宗教をまるきり否定しているのはテンガだけ。一番の産業が仏教というようなチベットで、宗教に頼りすぎないというすごいバランス感覚を持っている。
    ●テンガとポーロの友情が熱い。萌えます(笑)
    ●ポーロがインドに亡命したときに、チベットの地名や人名が誤字表記されていた。自分にとって大切な物があっさりとどんな表記でも良いと軽くなっていたところが切なかった。
    ●ニャロンでは女性も戦う。女性戦士もたくさん出ているし、ゲリラを率いた女性もいる(27年投獄などを経てインドでご存命)。
    ●(翻訳者さん談)この小説は、亡くなった作者が遺したタイプ打ちの原稿を出版した物。作者と編集者の構成は入っていないので、もし作者が生きていたら本にするに当たりもう少し編集した可能性はあるということ。チベット語表記が、チベット語をそのまま英語にした印象(普通の英語ではなくて、日本語で言うところのローマ字表記みたい)なので、訳註をつけるつもりだったのかなとか。
    ●なぜニャロンが舞台なのか?⇒(翻訳者さん談)作者の祖父がカム地方出身で、インドに貿易に行っていた人だった。移動距離が長かったからこそ国外に出る意識がある。そしてその中でもニャロンが舞台なのは、ニャロンの戦いが語り継げられたり、書き記されたり資料が色々あるので、それで舞台にしたのではないだろうか。そしてキリスト教宣教師はニャロンにはいなかったらしい(近隣の地域には宣教師がいたという記録がある)。そこで小説としては、いなかったはずのキリスト教宣教師をニャロンに入れるという話を創ったのではないだろうか。
    ●作者はチベットでは?⇒(翻訳者さん談)英語で書かれていてチベット語訳はされていない。これも他の作品も中国との関係で難しいかもしれない。
    ●もし作者が生きていたら何を聞きたかったか?⇒(翻訳者さん談)結局距離感とかは難しかった。
    ●挿絵がチベット僧院漫画を描いている方で、表紙のテンガとポーロがイケメンさんです。作中でもテンガはこんな装束だとか美しいとか書かれていて、容姿に書かれているのはテンガの一家なので、作者にとっても特別な登場人物で、やっぱりイケメンさんなのだろう。作者自身は立場はポーロかもしれない。違う環境に一人で入って、どっちでもない。読者が感情移入しやすい。
    ●(挿絵画家さん談)ニャロンは本当に怖い土地で、西洋人の残した資料や写真がない。ニャロン出身の女戦士の息子さんから写真を提供してもらい冒頭の地図のイラストを描いたということ。
    ●P11の地図。縦でチベットから海の向こうの日本が見える。チベットは中国大陸の河の源流なので河を巡らせた。永遠の慈悲の文様。飛ぶ姉羽鶴のため飛ぶ視点が見える。
    ●作者の娘さん(遺された原稿を預かっていた方)に日本の装丁と絵を見せたところ「漫画にしてほしい」と言われたそうだ。いつか漫画化?!
    ●ダライ・ラマ14世へのインタビューを聞いたことがある。「ダライ・ラマがインドに亡命するときに若いゲリラがインド国境まで送ってくれた。ゲリラはそのまま戦いのチベットに戻った。その姿を見送ったときが人生で一番悲しかった」→作中で、ポーロがインドに亡命し、それを送った仲間たちと分かれる場面を思った。

  • 星泉教授インタビュー: 訳書『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』出版記念 | TUFS Today
    https://wp.tufs.ac.jp/tufstoday/research/21020901/

    『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』ツェワン・イシェ・ペンバ|海外文学|書籍|書肆侃侃房
    http://www.kankanbou.com/books/kaigai/0421

  • チベット×キリスト教というどんな話か期待最高潮で読み始めるも、それプラス少年の成長譚、村での諍い、戦争、チベット信仰など盛りだくさん。家族愛や友情、信仰と差別、復讐や嫉妬など繰り広げられ、息を呑む展開に酸欠、高所チベットに登った感じ。

  • 美化されたフィルターの神秘的チベットではなく、宗教や風俗や部族社会のリアリティが描かれているのが良かった。
    元のチベットを取り戻すことを願う人々が多数の一方で、元々のチベット社会でやっていけなかった人が共産党に加る描写が印象的だった。

  • 読みながら、このハマり感、「熱源」と「真夜中の子供たち」を思い出した。これらが好きな人はきっとこの本も好きと思う。

  • 人民解放軍が来るまでの、チベット、カム地方の文化、自然、暮らし方、人生観、宗教観記録したという点だけでも十分な価値がある。ストーリー展開も面白く、まるで映画やアニメを見ているようにイメージが豊かに広がる描写力も素晴らしい。中共が入る前、というか、おそらくいつの時代にあったであろう若い世代と年配者、親世代の宗教観や習慣に対する考え方の差異、とか、セブンイヤーズインチベットなどで見られる虫も殺さぬチベット人のイメージとは違う一面も見られたし、かっこよさで名高いカムパのイケメン、勇猛ぶりを存分に楽しめる。チベットに物理的に帰ることはできても、かつてのチベットに帰ることはできない。イギリスやブータンで人生の多くを過ごした著者が亡くなる前にこの壮大な自由を愛し求めるカムパの物語を完成させたことは、生きていること生き続けることの希望を感じさせてくれる。
    蔵西さんの帯とイラストも、表紙も、この本の存在そのものが美しい。
    輪廻の少年というドキュメンタリー映画をみた。ラダックに転生したまだ幼いリンポチェは、チベットのカムに住んでいた、と前世の記憶をいい、カムから迎えが来たらカムに帰れるのだがまだカムから誰も迎えに来ないと寂しそうに語ったのでこの小説に出てくるテンガやリンポチェたちを思い出し涙が出た。

  • 著者は1932年にチベットのギャンツェに生まれ、インドを経てイギリスで医者になった人。イギリスの大学を卒業した1955年にはもうチベットは共産党支配下にあり、その後はブータンやインド、イギリスで外科医、作家として活動したらしい。本書は2011年に亡くなる前に書かれた遺作である。

    日中戦争前の1925年にアメリカ人宣教師夫妻が東チベットに入るところから話は始まり、WW2が終わって人民解放軍がやってきたあたりまでの時代が舞台。
    ストーリーは何となく想像がつくような一本槍で進んでいくのだが、描かれるチベットの文化習慣や考え方などがリアルで、本当にそういうことがあっても不思議でないような、一つ一つのエピソードが実に魅力的。(解説によるとモデルがいたりするらしい)

    正直、あまり期待してなくてしばらく積んでいたのだが、手を付けたら500pもあるのに2日ぐらいで読み切ってしまった。
    漫画家の蔵西さんが地図と帯を書いている。

  • 2022年 5冊目

    中々足を踏み入れる事も出来ない神秘的な土地であるチベットを描いた小説を初めて読みました。

    小さい頃は行ってみたい場所だったチベットだけど、大人になるに連れ現実的に行く事はシンドそうだと知ると、いつの間にか憧れも無くなってました。

    まさか、チベットを旅する事が出来るとは思わなかった!
    なんだか得した気分で読破しました。

    一見本の厚みと空白の少ない文字だらけの中身に怯んでしまいましたが、読み始めるとなんのその。

    今まで想像だにしなかった世界に入り込めました。

    生き生きとした描写がチベットで生活している登場人物達と一緒に冒険しているようでした。

    特に、中国人の描き方が解りやすかった。
    国民党、中国共産党それぞれを特徴を捉え明確に表現してくれてました。

    年始に素晴らしい大作を読みました。

  • 一人一人に信念があり、それを否定はできない
    信念がぶつかる場面には争いが起こり日常が奪われる
    マイノリティーとマジョリティーの分かれ道
    今では簡単に当たり前に使われる「多様性」
    誰もが他人を否定すべきでない。
    しかし、多様性を受け入れられる寛大さがあるか。
    奪われた人たちに目を向けられているか。

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著者プロフィール

チベットのギャンツェ生まれ。医師であり作家。1941年にインドのクセオンにあるイギリス式学校に入学して英語を身につけ、1949年にロンドン大学に留学し、医学を学び、卒業後はブータン、インドなどで外科医として活躍。1957年にチベットで過ごした日々をエッセイに綴った『少年時代のチベット』(Young Days in Tiebt)をロンドンで出版。1966年にはチベット人として初めてとなる長編小説『道中の菩薩たち』(Idols on the Path)をロンドンで出版する。その後、創作活動から離れていたが、晩年にようやく実現したチベット旅行をきっかけに、『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』(White Crane, Lend Me Your Wings)の執筆に取りかかり、2011年に書き上げたあと、病没(享年79歳)。

「2020年 『白い鶴よ、翼を貸しておくれ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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