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- / ISBN・EAN: 9784865410297
感想・レビュー・書評
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内田百閒のエッセイ長春香にしろ、大原治雄の写真にしろ、僕が思ったのは、そこに描かれた人が【たしかに】歴史の上に存在したのだということへの、驚きであったと思う。
内田百聞のエッセイでは、関東大震災で被災しなくなった長野初さんについての記憶の断片が書かれ、大原の写真は、日露戦争後の日本の困窮によるブラジル移住の後に撮られている。
【歴史】というのは、パーソナルな記憶の中に、無意識的にしか堆積されないんじゃないか。その【歴史】を感じさせるような語りは、他者なしには成立しない。そうした語りにおいては、必ず社会的・時代背景的なものが絡んでくる。個人が社会によって引っかかれた記憶は、もはや彼女の意図を超えたものであり、そこには他者と共有すべきなにかが混入されているのではないだろうか。それを想像力で捉える時に『歴史』というものの存在が可視化されたり、伝えられたする、そういうことが発生するのではないだろうか。そしてそこで継承されるのが『生命』ということなんだろうか。
◉以下引用
「想起」という言葉のまわりには、どうも生命がつきまとう。
わたしたちは、なにかに誘われ、記憶がよみがえり、それを契機に引きづり込まれてしまうあれこれが身体の中をめぐる、その瞬間を必要とする。そうして、生命の生生しさに戸惑い、生き生きとした生気を感じる咄嗟、わたしは再び誕生する
もい本当にそうだとすれば、不確かながら固有の「わたし」に出会い直す、この唐突な想起にこそ、あらたな出会いなおしたい
津波や原発事故によって被災した人びとが痛切に感じてゐるのは、家屋や故郷とともにあったはずの自分の過去、家族や友人たちとともに在り得たはずの自分の未来が、根こそぎ奪い去られたという思い
自己物語りは、「私はこんな風にして生きて来た」ことを他者に提示し、その物語を記憶し承認してもらうことを通じて、私は自己のアイデンティティを確立する。
自己物語りは、他者の物語と交錯し、ときに対立し、相互に規定し合いながら、ひとつの「歴史」を形作る
他者の物語が失われる時、自己物語りもまたその一部を失い、危機に陥る。
→個人によってしか、他者の物語を引き受けることは出来ない。他者の物語を引き受けることが出来なかったら、生命が忘却されるのと同じだ。海士の時のことを想いだす。あの語りは、歴史の上で引き継がれることを望まれていたのだと思う。あそこで僕がいなかったら、紡がれてきた「生命」が途絶えてしまう。
両者のアーカイブは、作家の個人的主観によって選択され再構築されたアーカイブ
→内田百閒の長春香も、まったく記憶は断片的なのに、長野さんは「この歴史の上にたしかにあった」という感じがする。ロランバルトの「ノエマ写真」もまた「それはかつてあった」を証明するもの。
機械のまなざしの中に偶然写りこんでしまったものが画面を攪乱する
アーカイブは、客観的情報としての証拠映像を集めたものではない
ロランバルトが写真論の中で言った「プンクトゥム」のように、
不透明な何かが撮る側の情況を鋭く意識させる映像、ブレタリ曖昧であったりすることがかえって観る者の心に迫る証言性をもっているような、そんなドキュメント
想起の建築ー訪れた人が思い思いの本やガラスケースを取りだし、手元で見る形をとる、閲覧行為としての身体体験n
二重、三十の入れ子構造になった空間の仕掛けは、映像アーカイブを通して震災を好きしようとする観者に対して、その立ち位置を鋭く問い返してくるーあなたはどこにいるのですか。、と。記録内容を自分のこととして追体験するのでなければ、単に災厄のイメージを消費すること、
観者に違和感をあたえる一連の室内空間は、まさにアーカイブのアート的ディスプレイを通じて反省的受容をうながす舞台装置であった
ドキュメント集成でありながら、記録を超えたメタレベルのアーカイブアート
すでに観者の自我はゆすぶられ、記録を客観的な他者イメージとしては眺められなくなるはずである
意のままにならない受動的で没主体的な想起のかたちを、「アナムネーシス的想起」と呼んでいる。それは、快い思い出から構成されたアイデンティティに穴をうがち、人格の核心をなす超個人的、非ー自己へと至る想起の経験であるという。そこでは時間意識もまた過去から、「純然たる現在の瞬間」へと移行する。おそらく、そこでは「私」と「他者」の区別が曖昧となるために、想起した対象について、あれは私でもある、という感覚をともなうのである。記録されたものを受け取って想起すること、本当の意味で「忘れない」とは、そういうことではないだろうか
想像力の流れるところー時間ー歴史??
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記憶してください。私はこんな風にして生きて来たのです
心のケアが必要な人にとって、記憶を紡ぎ出し、それを物語化し、どういう形でどこに仕舞う、つまり奉納するかという一連の作業が必要
心の傷をケアするのは、薬の処方を考えるのではなく、患者さんたちの物語を一緒に作っていく作業
有り得たはずの自分の未来が、根こそぎ奪い去られた
自分が何物か-自分にとっての私と、他人にとっての私とが知覚において一致すること
震災の記憶をこまねいて忘却に任せること-経験の継承の断絶
良い記憶も悪い記憶も人が生きた証
客観的情報としての透明な証拠映像ではない
あてどなく視線がさまよう感じ。
機会のまなざしのなかに偶然写りこんでしまったものが画面を錯乱
記録を超えたメタレベルでのアーカイブアート
記録を客観的な他者イメージとしては眺められなくなる
もはや安全なところで鑑賞していられなくなる
快い思い出から構成されたアイデンティティに穴をうがち、人格の核心をなす超個人的、非ー自己へと至る想起。そこでは時間意識もまた過去から、純然たる現在への瞬間へと移行する
西洋ではキリスト教の教会が、中東ではモスクが、東洋では仏教の寺院が、時刻を告げる仕事を聖務として果たしていた
時鐘
古代エジプト人のコスモロジーによれば、ナイル川の西方の涸れ谷は、もともと「死者たちのクニ」であり、異界である。その隔絶された死者たちのクニで、清貧と沈黙とに生きる人々-いわば生きている死者
天の故郷に帰ろうとする心。すべての逃亡者の心にはそれがある
★それまで時間は、流れる時間ではなく、人を立ちどまらせる時間であった。いわゆる「時鐘」である。鐘の音によって、人々は立ち止り、今がどのような「時」であるかを知った。
自分の時間を取り戻すには、どうすればよいのか。
それは過去の絶望的な修復でもなければ、進行する時間に無意味な停止を命ずることでもない。「野の百合、空の鳥」の単純な想起である。神の国は、意外にも近い
。この神の国を人間の一生の長くもあれば短くもある時間の「今」として位置づけると。死者たちの住む異界を含むもっと大きな世界に私たちは生きることができる。
こうした大きな時間の流れのなかで、私たちは懐かしい死者たちと出会うのだ。
死者と生者の出会う、あわいの時間という独特なイメージ
不透明な何かが撮る状況を鋭く意識させる映像、ブレたり曖昧であったりすることがかえって観る者の心に迫る証言性をもっているような
空間の仕掛けは、映像アーカイブを通して震災を想起しようとする観者に対して、その立ち位置を鋭く問い返してくるーあなたはどこに居るのですか、と。記録内容を、自分のこととして追体験するのでなければ、単に災厄のイメージを消費すること
いま自分がしなければならないこと、ほかの人との関係でしなければならないことがぱっとわかる-気が利く
すぅーっと滑走できないコトバ
ぎくしゃくしてもいい
人間関係で摩擦係数を少なくするためのものだと思われている-コミュの勘違い
異物を排除して自分の中をピュアにする、浄化するっていうのは、自分を一番弱くすること
スカッといかないことが大事
別の星に住む人間から声をかけられた感じがした
鐘の音ーそれは一日の終わりというよりも、この世の終末を告げる時のしるしのよう詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
せんだいメディアテークで開催された「記録と想起」と題された大きな展覧会の関連書。中ほどに展覧会の写真記録もついている。
記憶ではなくて、
記録と
想起である。
被災地では、文化的記憶をいかに取り扱うかという課題が前景化している。忘れてしまいそうだからだ。 -
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