- Amazon.co.jp ・本 (208ページ)
- / ISBN・EAN: 9784874246078
作品紹介・あらすじ
「論文」としては活字にできなかった論考や思い。日本語教育・日本語学の「これから」を考える、著者渾身のエッセー集。
感想・レビュー・書評
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ぼくは庵さんとは面識がない。しかし、庵さんたちが書いた教師用の文法書は何冊かもっているから、少し気になる人だった。本書はその庵さんの、日本語教育・日本語学に対する提言の書である。ぼくは還暦の年にエッセイ集『体験的中国語の学び方』を出したから、本書を読めば庵さんという人がどんな人かわかると思って読んだ。読んで、庵さんという人が少し分かった気がした。機会があれば話をしてみたい、そんな気にさせられる本であった。たとえば、日本語教育における文法は、母語話者に対する理解レベルでなく、産出レベルを目指すべきだとする点―これは中国語教育についても言える。ぼくは中国語のテキストをすでに十何種も作っていて、その核となる考えは、その文型がどれだけ使われているかである。しかし、それを徹底しているかとなるとまだこころもとない。学習者にとって、最も必要な文法事項、語彙はなんなのか、それを踏まえたテキストを編まなければという気持ちに改めてさせられた。庵さんはまた、熱い心をもった人だ。たとえば、日本語はスル型ではなくナル型言語であるといわれるが、『新しい歴史教科書』では、いろんな事件をスルではなくナルで表現しているという石井正彦さんの論文を紹介し、このような例は「文法に関する問題がメディア・リテラシーの問題と深く結びついていることを示している」と指摘する。ただ、三輪正さんの『一人称二人称と対話』が非論理的だと言っていることにかみついているのはちょっと「若い」かなという気がした。ぼくもその本は読んでいて、別のところで評価していたので、あまり気にならなかっただけかもしれないが。また、外国人学習者は日本人のようにならなくてはいいということが主張されたそうだが、庵さんはそうなりたいという学習者の要求を門前払いするのは日本語研究者の怠慢だと言い切る。ぼくもそうだと思う。ただ、自分自身について言っても、ネイティブのようになることは不可能だし、それを最終目標にするのはどうかと思うだけだ。それも上の著で述べた。本書には、さらに日本語学が言語学にどれだけ寄与できるか、査読をするものは投稿論文にどう向かうべきか、研究者になるものはどうあるべきか等々、議論してみたい話題が豊富である。
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