居場所のちから: 生きてるだけですごいんだ

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  • 教育史料出版会
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  • Amazon.co.jp ・本 (238ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784876524655

作品紹介・あらすじ

家庭・学校・地域のなかに安心できる居場所をつくろう!多摩川(タマリバー)のほとりで、こだわり続けた「ともに生きる場」。公設民営の「フリースペースえん」が生まれるまでの15年。子どもとかかわるすべての人たちへ-。

感想・レビュー・書評

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  • 真似できない。ただただあなたの存在を受け入れる場所。どんな人でも。
    世間がどうこうではなく、必要と思ったことをやり通す。やりながら模索していく姿もまた素晴らしい。
    多様性、というものを受け入れるには、それ相応の覚悟がいるのかもなと思いました。でも、受け入れた先に高原社会があるのかも知れない。

    こういう居場所を作り、実践して、発信してくれていることに感謝。

  • 五章「居場所を生みだす「まなざし」-手に入れたい一五の心得-、だけでも読む価値ある。こういう研修が今の自分には必要で、やっぱり「居場所」に関わるには自分と向き合い、常に自分が問われるんや。難しいけども、やってみたい。

  • 「多摩リバー」の近くの「たまりば」の物語。学校が社会を押し付けるならば、耐えられない子たちの受け皿がいる。

     社会的な生き物であるニンゲンは、どうしたってルールを押し付ける。それで苦しむ人がいるなんて寝耳に水だろう。

     社会性という毒。酸素とか二酸化炭素と同じく、存在が当たり前だけれど、実は毒である類のもの。その毒をきちんと考えないといけないと思う。そういう本。

     ほうっておく、やさしさ。

  • 今週おすすめする一冊は、西野博之著『居場所のちから』です。西
    野氏は、不登校児童や行き場のない若者達の居場所づくりを20年
    以上にわたって続けてこられた方です。

    主として不登校の子どもたちを対象にした、従来の学校とは異なる
    居場所を「フリースクール」と言い、ここ何年間かで随分と認知さ
    れた存在になりましたが、西野氏がつくってこられた居場所は「フ
    リースペース」。あえて「スペース」と言っているのは、「スクー
    ル」という言葉にある「教育」的な響きを好まないからのようです。

    「もう一つの学校」をやっているわけではない。しかも不登校の人
    だけを対象にしているわけでもない。何歳だろうが、どんな人だろ
    うが構わない。今の社会の中で、居場所がないと感じている人なら
    誰でも受け入れる場にしよう。そういう徹底した覚悟のもとに居場
    所づくりをしてきたのが西野氏の凄さです。

    多摩川(たまりバー)のほとりにあるから「たまりば」と名づけら
    れ場所は、ただぶらりとやってきて、いたいだけいていい自由な場
    所。そこで追求されているのは、「自分自身をOKと引き受けること
    のできる自信をどうやって身につけることができるか」というテー
    マであり、学校にかわる「教育」ではありません。

    本書は、西野氏がつくってきた居場所「たまりば」の軌跡を記録し
    たものです。不登校の子たちに居場所を作る、という想いが理解さ
    れず、「ゴミ捨て場」とか「ふきだまり」とか言われ、経済という
    現実の壁に苦しみながらも、何とか試行錯誤しながら続けられてき
    た「たまりば」の歴史は壮絶です。長年の活動が評価され、現在で
    は川崎市が開設した公設のフリースペースの運営を委託するまでに
    なった西野氏。その半生から教えられるのは、居場所づくりのノウ
    ハウというよりも、人が人とかかわるための基本的な姿勢であり、
    人がつくりあげる場が持つ力、です。

    人を信頼するとはどういうことか。人の成長を見守るとはどういう
    ことか。誰かに手をさしのべるとはどういうことか。導くのではな
    くただ寄りそうとはどういうことか。場の力とは何か。

    これらの問いに興味のある方には、きっと宝物のような本になるこ
    とでしょう。素晴らしい本です。是非、読んでみてください。

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    ▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)

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    「たまりば」は暮らしをイメージしてつくりつづけてきた場であっ
    た。「施設」とか「学校」という枠組みにははまらない、そして何
    よりもここは、治療だとか評価・選別といったまなざしからは、ほ
    ど遠い場でありつづけた。地域のなかで子どもとおとながかかわり
    あい、育ちあってきた場なのである。

    反対住民たちが口々に言った言葉だ。「すばらしいお仕事ですね。
    理解しますわ。共鳴もします。でも、そういうことは、山のなかに
    でも行ってやってください。そのほうが子どもたちにとってもいい
    でしょう」。それを聞いてある人が言った。「つまり、ゴミ処理場
    ね」

    おとながなんでも指揮できるなんて考えないほうがいい。わたした
    ちは「場のちから」と呼んでいるのだが、そこに居あわせた子ども
    のほうが、他者の気持ちをくみとって話をすすめるのがうまい場合
    が多々あるのだ。

    ぼくが過ごした「学校生活」(幼・小・中・高・予・大)の時間を
    合計すると、なんと20年!この間にたくさんのことを学んだはず
    だが、いまにして思うと「あれはダメ。できっこない」「これはム
    リ。ぼくには向いてない」など、数えきれないほどのコンプレック
    スをしっかりと自分のなかにためこんだ時期でもあった。

    快適に過ごせるスペースよりも大事なこと。それは、「どんな思い
    で、どんなまなざしをもったひとがそこに居つづけるのか」という
    こと。その存在は、鍵さえもっていれば誰でも代われるというもの
    ではないのだ。つねに、自分自身のなかにある問題に目を向けなが
    ら場にかかわりつづける存在。(中略)たとえ、スペースはなくて
    も、その「存在」のまわりに、その関係性のなかに「居場所」はで
    きあがるのだ。

    「結局、おとなたちは子どもをジョーカーにして、ババぬきをして
    いる。いつから、どうして日本人は子どもをこんなにきらいになっ
    ちゃったのか?」

    居場所をつくりあげる前提として、まずおさえておかなければなら
    ないことがある。それは、安易に世間の評価をもちこまないという
    ことだ。

    ひとが専門性を責任の話をもち出すときというのは、基本的に「排
    除」を前提としている場合なのだとつくづく思う。結局、あなたを
    受け入れることに責任をもてない。こう語るとき、「責任」と自ら
    の限界を見きわめる「専門性」は、たいがい、ていよく相手を「お
    ことわり」するほうへと働く。

    問題の解決は、その子自身にしかできない。そこで、導いてあげよ
    うなどという目線からはずれて、ただ寄りそうというスタンスに身
    をおいてみる。この寄りそうというのは、実は導くよりもずっと難
    しいことなのだ。

    失敗してからではにと、学べないこともある。ぼくたちの出番は、
    むしろそこからなのだ。その失敗をおかしてしまった子どもたちと、
    かかわりつづける腹を決めること。その覚悟とおとなの立ち位置が
    問われているのだと思う。

    長年場を開いていて、子どもたちに教えられたこと。それは、一人
    ひとりは対応がたいへんだといわれるひとも、異質で多様な個性を
    もった子どもや若者たちが年齢を超えてまざりあうと、絶妙なハー
    モニーを生み出すということだ。(中略)もともと、ひととひとが
    生きあう暮らしとしうのは、こういうことだったのではないだろう
    か。わたしがなんとかしなくちゃとジタバタせずに、そこにいる一
    人ひとりの存在とそのひとがもつ力に、根拠のない信頼をよせる。
    そうすると、その安心感のなかで場の空気が変わり、こちらが楽に
    なれると実感するときがある。

    そもそも他人の人生なんて、そうかんたんに受けとめたり、支えた
    りすることなんてできやしない。(中略)もしできることがあると
    したら、誰かのせいにしながら不満でぬりかためてひとごとのよう
    に生きているそのひとの「生」を、ていねいにそのひと自身のもと
    にかえしていってあげる作業につきあうことくらいだろうか。ただ
    し、これはとてもたいへんなことだ。

    ひととかかわる仕事をしているひとは、相手の問題を横取りしない
    ように気をつけようと、肝に銘じるしかない。相手が自分でできる
    ことを奪っていないか。そのことが気になったり、そうしたいと考
    えているのは相手なのか、自分なのか。相手と自分の問題をていね
    いに見つめて、整理しようという姿勢が大事なのだ。そのさい、そ
    のひとの問題はそのひとに代わって解決してあげられることなんて
    何もない、という自覚も必要である。

    ぼくのなかの「ありえない」は、「これもありか、あれもありか」
    と少しずつ溶解していった。そもそも「正しい」という言葉を使っ
    て判断していることの「正しさ」そのものに、どれほどの意味や価
    値があるのかを疑ってみることも必要なのだ。

    成長過程にある彼らの「過ち」に対して、正しく健全に善へと導か
    なくてはいけないと強く感じるひとほど、強い言葉を使いがち。結
    果として言葉が通じず、子どもをなじって終ってしまったり、ウザ
    イやつだと反発されるだけで、コミュニケーションも生まれはしな
    い。

    「正しい」ことは控えめに言おう。これくらいのスタンスに立つと、
    いつのまにかこちら側にも余裕が生まれ、相手の側にも自分の過ち
    を認めるすきまが生み出されるようになる。結局、自分の頭で考え、
    自分のこころに響いたときにしか、問題の解決に向かって動き出せ
    ないのである。

    ときどき先生たちの前でいのちの話をするけれど、実はあまり受け
    がよくない。「いのちが大切なのは当たり前だから」と。でも、そ
    の当たり前のことがどれだけ子どもたちに伝えられているのか。
    「いのちを大切に」と100万回言ったからといって伝わるもので
    もない。ほかでもない「あなた」に、「あなたが大切なのだ」と、
    呼びかけるしかない。

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    ●[2]編集後記

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    昔、「できるかな」という番組がありました。「でっきるかな、で
    っきるかな」という歌をバックに、無言で色々なことに取り組むノ
    ッポさん。今、思い返しても画期的な番組だったと思います。

    30歳のころから20年にわたって「できるかな」を続けていたノ
    ッポさんは、70歳を超えた今も元気で、最近は、ミュージカルに
    力を入れているそうです。たまにラジオに出てくるのですが、初め
    てノッポさんの声を聞いた時には、「あ、ノッポさんって、しゃべ
    れたんだ」と驚かされました。とても饒舌で、楽しい話をされる方
    です。

    ノッポさんは、長年子どもと関わってきただけあって、子どもに対
    するまなざしには独特のものがあります。そんなノッポさんから一
    番学んだのは、子どもに対する呼称。ノッポさんは、子どものこと
    を決して「子ども」とは言いません。「小さな人」というのです。
    それは、子ども大人も、どちらも同じ人間であって、むしろ純粋で
    敏感な子どもには大人以上の敬意をもって接しないといけない、と
    いう信念があるからです。

    土曜日、娘と砂場で遊んでいたのですが、家に帰ろうとした時に、
    娘が砂場に置いてあったスコップを持ち帰ろうとしたので、「駄目
    だよ」と言ったのですが、娘からは、「違うよ、洗うんだよ」と言
    われてしまいました。その言葉どおり、娘は水道のところに行って、
    自分が砂で汚したスコップを洗っているのです。それを見ていて、
    持って帰ると早とちりしてしまった自分の無分別を恥じました。

    人を信頼する。人に敬意を持つ。言うは易しですが、本当に難しい
    ことです。そう思っていた時に、久しぶりにノッポさんの声をラジ
    オで聞いて、ああ、まだまだだなあ、と思ったのでした。

    日曜から出張で熊本に来ています。メールのトラブルがあって、今
    週は月曜日に送ることができませんでした。

  • 「川崎市夢パーク」等を運営する、西野さんの1冊。
    必読!

  • 分類=子ども・社会・居場所・人生。06年3月。

  • 気軽に読める1冊。著者の活動が前半〜真ん中くらいまでに書かれています。端的に子どもとの接しかたなどを知りたければ第5章をどうぞ☆っつてもさっくり読める本ですよ

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