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- / ISBN・EAN: 9784884680046
感想・レビュー・書評
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レオ・シュトラウス関連で読んだ。ソールベロウはシカゴ大学でシュトラウスの講義に出席しており、彼の弟子筋として位置づけられている。
以下はかなり自分に引き付けた読解で、個人的な意味こそあれ、誤読である。読む必要はない。
「自分のための自分」という自律的な個人を推し進めると、「他人のための自分」という他律的な奴隷へと至るいう逆説が描かれている。「自分のための自分」の不可能性、困難、苦悩について語られている。神を殺した人間は自らが神にならなければならないが、人間はそれほど強くないので、誰かに権威を付与して従うことで楽な道を選んでしまう。楽な道を選ぶことはネガティブなことではなく、そうせざるをえない程、自由とは苦しいものなのだ。何をしてもいいし、何もしなくていい。誰も彼に期待していないし、責務も負わせていない。彼は社会から隔離されている。膨大な時間だけがただ無意味に彼のもとにある。しかし彼は何かをしなければならないと感じている。しかし誰も彼に頼みはしないし、要求もしない。彼はひたすら何かをしなければならないと感じているのである。心理的な葛藤が生み出す高尚な理念を基礎づけるものは何もない。小さな部屋でウジウジしている自分をやがては見つけ出す。温厚な人間もこんな環境に長くいれば性格だって変わってくる。彼にはただただ時間だけがある。答えを提示する者が現われたら?彼はそれに従うだろう。彼は自分の居場所が割り当てられて、意味を取り戻し、幸福とは何であるかを知るだろう。彼はもう何も考えなくていい。それに従えばいい。この話はとても社会心理学的だと思う。ナチスを思い出すのは難しくない。アラン・ブルームなんか特にそうだけど、シュトラウス学派はシュトラウスに反して政治的人間であることを推奨する。最初はこの本を内省的な魂との会話なんて馬鹿げた現実逃避に明け暮れた愚かな人間が最後にわかったことは、内省的に過ぎるとアノミーに陥るのであり、人は生きていく上では自らの善きことではなく、みんなの善きことである共通善を追求すべきなのである、つまり重要なことは政治的人間としてのアイデンティティであり、都市や国の一員としての自分の必要性を描いたのだと思っていた。しかし先のように考えると、政治的人間へと至る道に良い道と悪い道があるかのようであり、当然この本では悪い道としての政治的人間が描かれているように思える。魂を尊ぶ高貴なる政治的人間ではなく、自由に毒された奴隷なる政治的人間である。2つがある。この2つがある。2つがある。こんな調子で書いていたら時間がどれだけ必要なのかわからない。あと色々wちなみに、ネオコン的な要素を伺おうと思えば伺いうる。
宙ぶらりんになった経緯はどうでもいい。宙ぶらりんになった人間の心理的葛藤がどうにもこうにも見覚えがある。僕はそこに21歳の頃の自分を見つけた。詳細をみるコメント0件をすべて表示