縄文土偶と女神信仰

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  • 同成社
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  • Amazon.co.jp ・本 (386ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784886212238

感想・レビュー・書評

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  • 私たちは、何十万年か前に海を渡ってこの豊葦原の水穂の国に来た。
    環太平洋文明圏における土偶と女神の信仰は考古学の分野のみにとどまらず、現代でも生きている。

    人形とは、自己を問う際のツールであり、次世代がこうあって欲しいと望んだ理想(=存在し得ない)の姿ではなかろうかと、考える。
    それは、呪術(Magic)と共に、伝えられてきた。
    薬学とはカテゴリーを分けて考えると、呪術(Magic)は、願望を儀式によって投影する装置(前者的な呪術)であるとともに脳科学の一端であり、科学的考察態度をより象徴的に示す為のツールであった。(後者的な呪術)

    基本的に願いを込める前者的な呪術的作用としては
    女性は、自らが経済活動を行えない非生産者たる老婆になった時の扶養の為に子宝を願い。
    男性は、生きるために「魚のとり方」を教えるため、仕事を相続させるために子宝を願った。

    所謂、日本のドール愛好家のシェアを見るに圧倒的に女性が多いのは、このような文化形態を保持してきたからであろう。また、子供ができた時に与えられる知識や形態はより人間の「こころ」とは何かを問うために、その道具として伝統文化としてそれらを保持してきた。

    日本全国各地に残る「人形町」という地名は、人形工房文化の一大生産地であると共に、日本人が先史時代(記紀神話のテキスト化以前)より続く文明の継承及び保持を行い、なおかつ次世代に伝えていく役割を持っている。

    現代に続く美少女フィギュアというものは環太平洋地域に見る土偶と女神の文化形態を保持している。中国における馬祖信仰やNative Americanに於けるトーテムポールなど例を上げればきりがない。

    昭和後期~バブル期におけるハワイ詣でもまた、天孫降臨という伝承が宮崎県~鹿児島県の境目における霧島に残り、上等舶来と呼ばれるように、「海の向こう側から来た」という、稀人信仰の文化形態を保持している。

    それら、先史時代より伝わる土偶文化の延長上に博多人形の美人物小人形(現代で言えば美少女フィギュア)というものがあると思う。

    江戸時代における床の間の飾りが戦国期のド派手な拵え刀から徐々に落ち着き、人形に移行していることからも、戦乱の世を避けて平和で落ち着いた文化を保持しうるものとしての象徴でもあった。

    幕末に至るまでの間にも鎧兜は製作され続けたが、型を用いることで量産可能な人形に対して鎧兜はオーダーメイドの為、比較にならないほどの金額がかかった。

    発掘された人形を一世紀単位で見ると、古代史における埴輪や一刀彫の人形は人身生贄を代替するものとして前者的な呪術の目的が高いが、飛鳥時代には既に神仏習合が始まっていたことからも大仏造立を境にして、人身生贄の代替物としての側面よりも鑑賞物としての側面が高くなってきている。

    前者的な呪術性と鑑賞物としての割合は時代の景気に左右されるものではあるものの、平安時代には弘法大師が東寺に立体曼荼羅(視覚的な世界観の構築)を造立していることから、それ以降の人形文化は人間の位置関係を科学的な態度と呪術的態度を融合したから保持し得たのであろう。

    平安期以降、人形は科学的なツールとしての操作性を保持しうる道具として明確になってきた。

    また、リアル造型志向の生き人形と呼ばれる内面の醜さを映し出す鏡として存在していたが、生々しい写実的な様式が忌避される傾向にあり、萌えのニュアンスを重視する事からも、日本の肖像画が穏やかな表情であることは多く見受けられる。

    江戸時代の多くの人にとっては人形浄瑠璃によって、その人形を目にするところであろうし、それらは演目の内容が実社会のエグさを上演しているだけに生き人形のようなリアルさよりも、憎々しく思わせないように角のとれたまろやかな表情になっていることからも推察される。

    元禄期以降、石高の増加によって経済状況が活性化した為に公共福祉機関である寺社仏閣に詣でなくとも、人形は家庭で手に入れられる価格となった。

    人形は雛人形や五月人形に見るだけでなく、紙人形、素焼き人形として実に一般庶民もありふれたものであった。

    本来なら日本国内で生産し、各家庭の床の間に季節ごとに代わる代わる展示されていたが、現代では売買を行うにも、伝統工芸品としての人形は一体あたりの値段があまにりにも額が高すぎて、日本国内製品として安価に手に入れるのは困難になっている。

    現代に見る伝統工芸の博多人形は一体あたり、10万円が一応の人形としての目安であり贈答物としてのラインは30万円以上となっており、結婚式の贈答品や家の新築祝いなどの慶事に贈答される。

    現代様式の美少女フィギュア(スケールフィギュア)を見ると、1万円が一応のラインとなっている。(最近では美少女フィギュアの価格はやや落ち着いてきており一体あたり7~8000円ぐらいだが、同様の1/6スケールである木仏像の場合はおよそ15万円位が相場である。)

    現代文化の担い手である旦那衆(20代後半~)を見ると、収入に応じた人形を買おうという意欲はあるが、さすがに生活を圧迫する一体10万円の人形(所謂、伝統工芸としての人形)を買おうとする人は少なく、むしろ手頃なスケールフィギュア、最近はもっと安価な可動フィギュアを購入しようとする動きがある。

    人形文化に詳しくない人からしても、子供に与えるのは、リカちゃん人形であるし、聖闘士星矢の人形、現代ではエヴァシリーズ等が多いであろう。
    海外においても、バービー人形やトイ・ストーリーのウッディ・バズが人気を集めていることからも、その平和的な文化自体が見直されている。

    それらは人間の関係性を逐次的に模倣するものであり、西洋に見るイコン等、確立された手に触れられる技術であることが確認される。

    明治時代以降の薩摩焼(焼き物としては装飾華美極まりない部類である)が国外への重要輸出品として栄えていたことからも、工芸品としての人形の役割はその様な古代から続く文化の保持だけではなく、実際に展示することによって鑑賞する人の心を和らげる効果があったと考えられる。

    日本の思想史をたどる時に、大日如来と不動明王の一体化を教義として掲げている寺院が多く挙げられるが、炎の中で牙を向き出し怒りに身を任せ武装している不動明王と、銀河は大日如来の単なるAccessoryの一部であり、広大な宇宙自身である大日如来(=毘盧遮那仏)とが一体である事に疑問を持ったことはないだろうか…?

    印度からの人間の思想史をたどると、自己に内在する宇宙(ちぐはぐな思考の方向性・偏った知識)と実生活の一致はアートマンとブラフマンの一体である存在を実生活における感覚として自覚し、己の醜さと弱さを強要させられずに自分自身によって認める事で、それでもなお実生活において他人の助けになろうとする努力と態度に意味がある。

    これから先、人形というものが埋込型の人工の臓器や後天性欠損補助用具である手足を経て、サイボーグ(人体の一部を機械化し、生活の補助としている人)・アンドロイド(機械として誕生した自己を男性であるとして認識を持つ男性型ロボット)・ガイノイド(機械として誕生した自己を女性であるとして認識を持つ女性型ロボット)への道筋を辿る事は容易に予測された未来であり、アンドロイド・ガイノイドにも人間を模した「心の形」が与えられると思う。

    ここで言う心の形は「感情ではなく、物事を感じる存在」と定義しておき、他の観測者(人間)が外面的な見た目の良さや、脳内での質感を保持しうるものである。

    それを見た時に、同じように人間として「敬えるか」というのが、その人の環境や経済状況を端的に表すのであろう。

    Siriに観る音声認識ガイノイドは情報の集積を行い、会話者とのパターンによってより適切な個性を獲得していく。

    これは、子供を育てる時と同様なパターンであり、我々はその未来のイメージを求めると同時に、その人間としての倫理性を次世代の人間へ伝えて行かなければならない。

    だが、過去と未来を繋ぐとき新しい可能性とともに、古い価値観も否定されるべきではないと思う。何故ならば、人間が考えられる思考の形というのは、もはや遠い昔に確立されており、基本的にはそれを現代風に噛み砕いてわかりやすく説明するだけなのだから。

    ただ、古い価値観といっても暴力(モラルハザード・嫌がらせ)を笠に着た搾取は認めがたい。それは、実際の生活における不当な性的搾取を事前に防止するために必要であるし、社会性を持つ生物として公平で有らなければ、そもそも能力(ちから)を持った人間ではなく、ただの暴力だから。

    道徳の基本的概念というのは、暴力を根幹としている事からも、「慣習的に~してはならない」という、社会性を持つものであり、その様にして身を美しくするのが、躾であり小学生や幼稚園児にとって必要なことであると思う。

    大人が社会性を放棄したその様な暴力行為をしている時は、大人として扱われない報いを受けるものであるし、巡り巡って自分自身に帰ってくる。

    お爺ちゃんお婆ちゃんの世代が、優しさとともに厳しさを持つことは、子供の全人格的な完成を目指すにあたって必要な行為でその対象はあくまでも小学生や幼稚園児に限られてくる。そのように経験則を持つ人は尊ばれるべきであり同時に公平でなければ、物事のトータルでの判断を狂わすことになる。

    何よりも、肉親の、お爺ちゃんお婆ちゃんの静かな微笑みは、小さな子供にとって一番幸せな記憶なのだから。

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