身体としての書物 (Pieria Books)

著者 :
  • 東京外国語大学出版会
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  • Amazon.co.jp ・本 (317ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784904575024

作品紹介・あらすじ

「世界のなかに私が住むこと。そして世界のなかに書物が存在すること。この二つの事実の偶然の関わりをめぐる、限りある消息をさまざまに探究することが、本書のテクストとして再現された講義の目的であった-」。本という物質的存在のゆらぎをたえず傍らに感じながら行われた画期的な書物論、全14講。

感想・レビュー・書評

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  • 書物に「かかわる」、また、遅く読むことによって、新しい知のあり方、生き方を切り拓く視点をつかむ。

    大学での講義録を産婆的にまとめた本。

    ボルヘス、ジャベス、ベンヤミン、グリッサンを題材に、物に即し、手触りを感じながら、その根源をめざす。根源からは歩むべき光が萌すからだ。

  • 私は『白鯨』。私は『マクベス』。華氏451度では同志各人が1冊の本を体現するのだが、『フィネガンズ・ウェイク』や『重力の虹』が割り当たってしまったらどうしよう。記憶力が試される(だけじゃない)。
    今福先生が撮った表紙の写真も、本の主題そのもの。

  • 「身体としての書物」今福龍太
    書物考講義録。

    書物は世界の写像であり、書物を、人間がどのように捉えて、どのように編み・造り、対峙しているのかを解きほぐしていく一冊。
    インターネットが、流れ、拡がっていく世界を写像しているのに対して、本は、その有限性をもって世界を写像している。すなわち、一個の人間が認識して表現することのできる世界を枠の中に閉じ込めることで、身体性と不可分に結びつくとともに、そこから繋がるリンクの有限性、ほとんど無限につづく書架の廻廊、一冊の本から得られる体験の不明瞭さ、そういった体験こそが、まさに私達自身の「世界」であることを表している。

    序章・終章を含めて全14回の講義では、4人の思索家(ボルヘス、ジャベス、ベンヤミン、グリッサン)の著作と、自ら手を動かして造本する実践からなる。
    ボルヘスにおいては書物の無限性と身体の拡張であること、ジャベスにおいては書物への内なる回帰、ベンヤミンでは圧倒的な他者としての書物、そしてグリッサンでは本の有限性に言及する。

    全編をとおして、「本」そのものの物質としての性質とそれが内包する哲学に深く切り込む講義録で、大変読み応えのある一冊。(5)

  • 自分の興味関心にびったりくる本だった。
    なにもまだわかっていない。


    以下引用

    そもそも、すでに分かり切ったテーマ、答えを見つけた問いであれば、議論の場を借りてあらためて考えたり語ったりする必要はないのです

    未知の土地と自分の頭脳や身体がつながろうというときにあらかじめ文字化された情報や知識を仕込んでおく、という態度がぼくには理解できません

    無心になって五感をすべて解放しながら新しい未知の世界にじかに触れる

    本は世界そのものであり、世界の尖端で打ち震える何かの化身なのかもしれません

    「良書が売れない」という言葉もよく聞きます。たしかに、真摯な意図をもって執筆され、編集され、制作された多くの本が書店の店頭からたちまち返品され、出版社の倉庫で死蔵されている。そして「世界」と真に向き合うことのない、読むに値しない本ならざる本が巷の市場にあふれかえっている

    一冊一冊、はじめから最後まで読み通さなければならないものでもない。本の中のある断片をとりだして読み、それを別の本のなかのある断片とつなぎあわせながら読み継ぐというのも、本質的な読書行為

    芦花部の教会

    ボルヘスが自己の書物論を深化させるのは、むしろ失明によって本を読めなくなった後

    眼が開いている/閉じているという図式は、自動的に「本を読むことができる/読むことができない」という図式と等号で結ばれるわけではない、ということです。本を読んでいるようでいてその書物に書かれてある真実を読みとりことができていない

    ピタゴラスは意識的に書いたものを残さなかった。自分の思想が肉体の死後も弟子たちの心の中に生き続けて欲しい、彼はそう願っていたのだ。

    「話された」声のゆらぎのなかから、普遍的なロゴスだけが「言われた」意味内容として固定化(文字化)されるのです。

    知の伝承・伝達の絶対的な条件は、むしろそれが書かれないことにある

    解釈の変化や言葉の流動性こそが、むしろ伝承の「精密」の度合いを高めるのではないか

    デリタのエクリチュール論によれば、書くことと語ることは同時に生起し、すべての書くことと語ることには先立って根源的な書き込みがなされている。この根源的な書き込みである「原=エクリチュール」、すなわちはじまりの他者の言語を永遠に反復するようにして、われわれは何事かを書いたり語ったりする

    エクリチュールとは何もない無の状態から創造されるのではなく、あらかじめある言語の位置に事後的なズレをつくることであり、文学とはこのズレの書き込みのことだということになる。デリタはこのようなエクリチュールの運動性を「差延」という造語で呼びました。「差異」という言葉ならみなさん知っていると思いますが、

    口から手へ、手から手へと微細に変異を孕みながら何ものかが受け渡されていくことの豊かさ

    吉増剛造という詩人ほど、朗読パフォーマンスや近年の一点の映像作品のようなかたちで、一度出来上がった詩をふたたび声の世界に戻したり、イメージと音との表現帯に造り変えたりして、言葉の生命を賭けるようにして「書物」という固定的なかたちを解体しようとしつづけている詩人もいません。詩的言語のもつ物質的な多様性やゆらめきが本という一個の形態に還元されてしまうことへの強い危機感、違和感をもっているからでしょう


    けふはぼくのたましひは疾み
    烏さへ正視ができない
     あいつはちゃうどいまごろから
    つめたい青銅の病室で
     透明薔薇の火に燃やされる
    ほんたうに、けれども妹よ
    けふはぼくもあんまりひどいから
    やなぎの花もとらない



    けふはわたしの額もくらく
    烏さへ正視できない
     いもうとはちゃうどいまごろ
    つめたく陰気な青銅いろの病室で
    透明薔薇の火に燃やされだす
    ほんたうに けれども妹よ
    けふはわたしもあんまり重くひどいから
    やなぎの花もとつて行かない

    賢治はおそらく、生々流転すべき【心象スケッチ】が書物の印刷テキストとして固定化された「詩」作品として絶対化され「完成」してしまうことへの警鐘を、あらかじめ書きつけておいた

    印刷者も、そして著者すらも見逃してしまう、紙の上野テクストの持続的なゆらぎのヴィジョン

    書籍のページに封じ込められた活字は、それだけでは、こうした感情の苛烈な軌跡、ひとつの言葉として焦点を結びえない情動の持続的な揺れを伝えることは不可能なのです

    作者のそのときどきの心象スケッチを呼び出す想像力をわれわれは忘れないように

    ベンヤミンは断章という特異なスタイルを先鋭化させていきます。記憶のなかのイメージを瞬時に言葉に焼き付けてゆく、鮮烈なスナップショットのような文章のスタイルです。

    こういう何気ない細部をあっさり読み飛ばしてはいけません

    この部分で暗示的に語られているのは、子どもが文章の行をなぞる仕草である以上に、ページや文字自体のもつ生命ある物質性に子どもの指先がじかに触れている、ということでしょう。つまり「本を読む子供」の世界においては、テクストが未だ意味性や記号の領域に着地していない

    そして立ち上がるときには、呼んだことが雪のように、体中に降り積もっている

    他方、あちこちのページには、かつて字を覚え本を読み始めた頃私を絡め捕った、あの網になった細い糸が、秋空の木々の枝に漂う蜘蛛の糸のように掛かっていた

    ベンヤミンにとっての想起という営みは、40歳のベンヤミンが七歳の過去の自分の姿や自分にまつわる原初的な記憶が沈殿する深層を手さぐりするということです。これがベンヤミン的な想起に見られる特異な時間への気球の身振りです。そして人間が本とどのようにして出会うかという問題は、かれ個人の人生の問題というよりは、集団的な社会におけるひとつの共通の現場、歴史的な現場にもかかわります。個人史や個人的な記憶を集団性・社会性・歴史性につなげてとらえるというのが、ベンヤミンの思想の固有のスタイル
    →書作品に集合的記憶とか公共性というのは、関係するだろうか。どうなんだろう。というか「詩」というのは、「公共性」と関連あるだろうか。


    早いうちから私は、言葉のなかに自分を包み込んでー言葉は本当は雲だったー雲隠れすることを学んだ

    ベンヤミンはこうした人間の原初的なアナロジー感覚を、「模倣の能力」と呼びました。

    人間は文化をつくりあげるときにまず自然界の所作を模倣して、それを人間的な所作に変換しようとする。
    →これは当時の人間が「自然界」を「他者」として想定していたことを示しているように思う、それをして、「自然界」を一度「なぞった」上で、自らをアイデンティファイしていくということかな。

    かれらにとっての神話や伝承は、自然条件のなかのさまざまな現象や生物の在り様を模倣したり踊り、樹木や鳥や動物の精霊を模したダンスとして受け継がれます。

    意味としては直ちには判読しがたい文字以前の文字がそこにあります

    ベンヤミンが「幼年期の本」という断章で描いた子供の目には、おそらくこのように文字が映っていたのではないか

    意味内容がいきなり図像的なイメージとして飛び出してくるということは、まさに文字を見つめる子どもの視線の先にあるあのもやもやの運動性のことにほかなりません

    「鷹」という字を書くというよりは、他かを書くのであります

    学校という近代的な教育制度のもとに、言語を文字という形態に特化して視覚的道具として完成させる規律訓練科のプロセスの産物です。

    このような近代教育によって文字は知識階級の専有物となり、オーラリティーの世界と口承的な言葉を「後進的」と見なす態度も生まれた

    身体的な模倣の能力とは違うやり方で字の手本を一つの型として可能なかぎり正確に再現させる

    こどもがおもちゃに手を振れるように、書物や活字に触れることー前言語的な感覚が言語的な意識の構えとして確立されようとするがぎりにおいて

    教育制度を通じていったん文字言語のリテラシーを獲得した人間が、文字の物質性をめぐる感覚世界に立ち還ることは容易ではない

    説明的な語彙が不在だからこそ、ミメティックな音が生命をもつわけです

    ※内田百閒のエッセイとか、大原さんの写真とかが「歴史」の上にあって、その層の上に自分がいると実感されるのは、たしかに個人史が集合的記憶に関連していることを示している事例だと思う。

    「言葉」のなかには、言語の模倣的な領域と、言語の記号的な領域とが存在します。後者の記号的な領域は、音素を単位とする抽象化された恣意性によって成立している。そして言語はこの記号領域に「言葉」を着地することで体系化され、このときから、たとえば踊りを通じてマテリアルな世界と交感する身体性に見られたような人間の「模倣の能力」は縮減される

    ☆模倣と記憶の関連が知りたいなとふと思う。聞き書きで、ああした「太初的記憶」というのか、「歴史との接続」が果たされたのは、模倣の能力や、模倣的な言語というものと関連があるのだろうか。個人史を僕は語られたわかだけれど、そこに確かに共有される「歴史」というものがあって、その歴史の相に、なぞることで引き込まれたということなのだろうか。

    遅く読むこと、これがベンヤミンのミメーシス論を通じてわれわれが書物のなかに刻まれた具象的身体性や物質性に手探りで触れるたmの特権的な方法

    言葉のなかには、オトマトペ(擬声語・擬態語)としての身体性・物質性が残っています。それは人間のなかにある、非言語を媒介にした音声によって言語を喚起する身ぶりであり、視覚を媒介にして言語を記号化する認識とは決定的に異なるものです。

    象形文字は文字でありながら黙読のイデオロギーに吸い込まれる以前の「言葉」の身振り、言い換えれば模倣的な言語領域になお属している

    忘れられたものは、それが私たちに約束するこれまで生きて来た全生涯を、ずっしりと重く孕んでいる

    文字記号がゆらめくかたちになって、具体的な象形物へと帰ってゆこうとする

    字習い積木箱が可能とするあの恩寵、つまり人間が言葉を自在に操って、「知」を獲得する秘密を目前にして、手の動きが止まってしまう。しかしそれでも必死になってその秘密に触れようとしておそるおそる指先を伸ばそうとする、これを指使いと表現した

    手とモノが接近しようとしながら、いまだ微妙に離れている状態のニュアンスも含まれている。少なくともベンヤミンの使う指使いは、「手を伸ばしていままさに触れようとする」という原初的なイメージ

    子どもは次第にこの目の前にある「モノ」が自分ではないことを学習していくわけです。モノと自分を分離して認識することで、外界に存在する事物を客体化しm同時に自分は自分であると主体化してゆく。

    幼い子どもが熊のぬいぐるみか何かにはじめて触ってみたいと思う。客体としての事物に手を伸ばして触れようとする最初の好奇心の芽生え、手がはじめて他者や事物と触れ合うインターフェイスとなる瞬間です。

    本というものを前にしたとき、もしわれわれがそこに書かれた文字さえ読めればいいと思うとしたら、それは、幼年時代そのもの、すなわり、手が枠のなかに文字を押して言葉になるように順々に並べた、その指使いの記憶を決定的に失っているということになる

    ------------

    書かれた言葉は残るが、しょせん死物にすぎない

    むしろそれが書かれないことにある

    反復とは人間の保持する力、神をめぐる至上の思想の中で、永遠に生き続ける

    書くことと語る事は、同時に生起し、すべての書くことにはそれに先立って、根源的な書き込みがなされている

    オーラりてぃとリテラシーの渾然一体となったもの

    写本の過程の、ゆれ、ずれ

    一冊一冊はじめから最後まで読み通さなければならないものでもない。本のなかのある断片をとりだして読み、それを別の本のなかのある断片と繋ぎ合わせながら読み継ぐというのも、本質的な読書行為

    話された声のゆらぎのなかから、普遍的なロゴスだけが言われた意味内容として肯定かされる

    知の伝承、伝達の絶対的な条件は、むしろそれが書かれないことにある

  • デジタルに移行していく過程でなされた様々な危惧は、今となっては取るに足らない出来事であったと、今になれば誰もが口を揃えて言う。ここで述べられている書物の”身体性”もデジタルで再現可能であり、また、"身体性"などという虚妄こそがデジタルと親和性が高いのだということを人は知っている。この本の面白さは書物の身体性にあるのではなく、単純に作品読解の面白さである。

  • 身体との連関からみた異色の書物論

  • 本というものが人にとってどの様に関わってくるものなのかを先人たちの作品を読み解きながら考えていく。

    冒頭こそモノとしての本について語られているが全体を通して見てみると、本や言葉といったものが人にとって何なのかということについて書かれた小説やエッセイの評論と言ったイメージ。

    論の根拠が抽象的なイメージであり少々理解しづらいのは、扱っている対象が人の内的世界という抽象概念だから仕方ないのかもしれない。

    終章において紹介される、それぞれの人々の中に潜む何事にも動じない水牛がイデアとしての知識の塊のシンボルとして解釈されるという説明は読者を何となく分かった気にさせる。

  • 普段本を読まないから、難しくてぴんとこない部分もあった。でもこれ読んで本を読もうと思った。難しい話がわからなくても、感覚的に感じることができる部分もあって、色々考えて楽しい。

  • 行ってきた。
    今福龍太(人類学者・批評家、東京外国語大学教授)によるトークイベント 本とからだをめぐる想像力のレッスン
    書物変身譚 vol. 2「書物と壁 ロラン・バルトとスーザン・ソンタグ」
    2010.4.17(土)15:00 ~17:00

  • 図書館があらゆる本を所蔵していることが公表されたとき最初に生まれた感情は、途方もない喜びだった。
    全ての人間が手付かずの秘密の宝物の持ち主になったような気がした。
    書物は記憶と想像力が拡大園長されたものである。
    ユダヤ人とは全ての問いに対して答えを持っている。書くという行為について問うことなしに、ホロコーストについて書くことはできない。

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著者プロフィール

1955年生まれ。文化人類学者・批評家。1980年代初頭から、メキシコ、ブラジル、キューバなどで調査研究に携わる。奄美自由大学を主宰する。著書に『クレオール主義』『ヘンリー・ソロー 野生の学舎』『宮沢賢治 デクノボーの叡知』など多数。

「2021年 『ぼくの昆虫学の先生たちへ』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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