- Amazon.co.jp ・本 (326ページ)
- / ISBN・EAN: 9784907188207
感想・レビュー・書評
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SNSや観光、テロ、二次創作など現代に溢れている内容に哲学的な視点で書かれているところが斬新で、本書の魅力だと思う。哲学初心者の私にもとても分かりやすい内容で、その辺の難しそうな哲学本より、スラスラと内容が頭に入っていきやすかった。この本をきっかけに、哲学について勉強しようと思った。
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2017年の、いや、テン年代のメルクマールとなるのは間違いなく「中動態の世界」と本書であろう。
誤配せよ -
読み助2017年9月24日(日)を参照のこと。http://yomisuke.tea-nifty.com/yomisuke/2017/09/924-2d78.html
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力のある文章とその説得力に、文章量を気にせず読むことができた。
また、内容も明解で理解しやすい。 -
今我々が生きているこの時代を様々な立場の人が論じていますが、哲学者は今の時代をどのように捉えているのか、昔から興味深かったのですが、本書は東氏なりの一つの現代社会に対する一つの解釈とその方向性を出してくれたのかなと思います。
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偽善で空想的だったリベラルはもはや存在しないが、政治と経済、国民国家と帝国、ナショナリズムとグローバリズム、コミュニタリアニズムとリバタリアニズム、この対立のどこかに身を置く、のではなく、「第4の道」を見出すための本。
その道は、連帯しないのが連帯、と言うただデモするだけの否定神学的なマルチチュードではなく、書名にもあるように何らかの「繋ぎ換え=誤配」を産み出しうる『郵便的マルチチュード』である観光客だ、と言う話。
そしてこの「観光客」も単なる観光客という意味だけではなく、同じく郵便的マルチチュードと考えることが出来る「家族」も含まれるもの。
本書の最後がドストエフスキーを通して家族を捉え治す、と言うのがソルジェニーツィン試論に帰ってきているのが、注釈でも書いてあるように自覚的な原点回帰のようで、東さんはもう筆を折ってしまうんだろうかと少し不安になりかける。けどゲンロンはまだまだ続いていくようで、ちゃんと追っていかないと。
政治思想にはコミットしていないしそもそも文系科目的な知識や知見は初等教育の時代においてきてしまっているような人間に対しても粘り強く、重要な概念は何度も反復して、言い換え、思考を誘導するように丁寧に連れて行ってくれているようで、読みやすい。
とはいえ「難しい」話をしているのでこちらもちゃんと整理していかないといけないのだけれど。
実は存在論的 郵便的はまだ読めていないのだけれど、これまでの主著は大体読んできたので、それらとこの本が示す「第4の道」である「観光客=家族」へ至る道が朧気に記憶の底から甦ってきて色んなことに合点がいったり考えが展開したりして、面白かった。非常に。
最近の比較的ライトと言える仕事だった弱いつながりやセカイからもっと近くに、特に後者のあの最後の展開の部分がピタッと嵌まった感じで、凄く気持ちいい。
いや、気持ちいいとか満足した、と言うことじゃなく、この本で辿ってきた議論は何度も書かれているように荒削りで未完成ではあるわけで、それを自分のことに引き寄せて、それを実践して行かんとな、とは強く思っている。
ちょうど家族を作ろうかとしているところでもあり、この本を家庭の座右において、ずっと考えていかなきゃ。
東さんが6年(もうか!)くらい前に冗談めかして言っていた、「世界は二つある」の思想がぎゅーっとつまっている気がする。
などだらだらと垂れ流したので、2週目へ。 -
(01)
冒頭で、えらく古い易経において、「観光」の語が「国」という語とセットになった一文に発現したらしきことに触れつつ、すぐさま見切られ、西欧のツーリズムの方へと心移りがなされている。本書の全体の視野の広がりからすれば、ささいな見切りであるともいえるが、果たして「観」や「光」という漢の字が、本書で語られるテーマにまるかぶりする意味はなかったのだろうか。
ところどころで触れられているが、近代ツーリズム(*02)における「観」ること、視覚の優位は何を意味していたのだろうか、アーリの「観光のまなざし」の主構成はこの視覚の問題が根幹に据えられている。
また、「光」は、風光と熟され、その風光は風景とほぼ同義であることから、「景」の提喩ないし換喩(*03)としても考えられる。風景や風光はなぜ近代によって観光され、発見されなければならなかったのか、といった問題系から本書を起こすことも、あるいは可能であったように思う。
(02)
ルソーから、あるいはスピノザから始まる西欧の近代に始まり、現代までの主要な思想(*04)を、観光客が観光するような視線で、ざっくりとレビューし、著者の90年代から00年代までの著作や近著も含めセルフレビューし、プレビューとして一画面(インターフェイスかスクリーンか)に収めてしまう力には舌を巻いた。また、観光客から家族へという無茶ぶりともいえる接続ないし横断をやってのける力にも、歓声がどこからかあがるかもしれない。力を感じる評論である。
(03)
ふまじめ、ふわふわ、痛さ、憐みといった現代語のチョイスは適切であり、本書の立論では欠かせないキーとなるワードとしてもってきており、言論や人文の復権への意志と、粋な心意気が感じ取れる。
また、平易な言葉で書き表し、図と図式的なことばで喝破することは哲学の王道(エクリチュール!)でもあり、哲学への自負を感じる。
(04)
思想的な座標、二項、二層性は示されたとして、政治的なトピック、社会的なアクシデント、経済的なトレンドについてはどのように構え、応対しているであろか。
右派左派、民主主義、共和制、権力と生権力のいろいろ、テロリストほど極端に走っていないとしても移民と難民と市民たちの移動と不動のあれこれ、資本と労働(*05)とネットワーク(*06)のアゲサゲといった現代の相もふんだんに盛り込まれていて、現代をパースとして見通すのにも便利である。世相が観光の対象となりうるのであれば、世相のガイドブックとして参照されうる、行き届いた本でもある。カテゴライズが効いていて参照性が高いのかもしれない。いずれにせよ、大いに誤配や誤伝の可能性に開かれている。
(05)
貧困や過剰な労働に立ち向かっているだろうか、観光は所詮、ブルジョアらの慰みではないだろうかという本書への批判をどこかで目にした。現代の観光の経済活動をみたときに、著者のいう観光のフラット化というステージまでは未だ躍り出ておらず、古典的であり近代的でもある格差や階級差のほうが観光より普遍的な題目であるという反論もあるかもしれない。
中盤のマルチチュードの戦略としての観光を説くあたり、社会や経済の底辺まで浚え、救われるようにも思えた。観光には救済もありそうでもある。所得の外にはじかれた/はじかれつつある人びとにも本書は届くところがあるのではないだろうか。
(06)
ネットワーク理論の紹介は、例えば私の様に、知らない人は知らないので利がある。そうしたスモールワールド(*07)の現代知から「つなぎかえ」がなされ、スケールフリーに飛躍するように、また振り出しに戻るかのように、100年前に話は飛ぶ。終盤は、ドストエフスキー分析がなされ、フロイトのウンハイムリヒや父殺しといった19世紀末のミステリーに落としどころをもってくる流れは、現代家族の擬制の限界を示すのに便宜を図っている。
(07)
個人個人のネットワークがスモールワールドであるのと同時に、本書での指摘ではないが、都市間交流もスモールワールドなネットワークで構成されていると考えてよいものだろうか。その場合、地方や田舎や故郷はどのようにネットワークされるのだろうか。
このような都市論として観光についての問いを立てたき、国内の、盆正月のラッシュ、出張と左遷と栄転、移住、避難、巡礼と観戦といったモービリゼーション(動員)を捉えてもいいし、より小さなスケールで立ち飲みや立ち働き、送り迎え、福祉的な移送、散歩、まち歩きやのみ歩き、トレッキング、キャンピングのふるまいを見直してもいいのかもしれない。人類学と観光のアナロジーについての脚注も本書には書き留められていた。
アーリにもやや示唆されていたが、移動は手段ではなく、目的でもある。動くために人はとどまる。観光するために、人はふとそこにとどまっているだけなのかもしれない。 -
可愛い世界を愛でよう
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わかりやすさがすごい。
ラカンの解説ではじめていっている意味がわかった文に出会った。
論理が明確。