ゲンロン0 観光客の哲学

著者 :
  • 株式会社ゲンロン
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感想 : 65
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  • Amazon.co.jp ・本 (326ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784907188207

感想・レビュー・書評

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  • 面白かったっすよ、観光客でした、僕自身が

  • 不思議な本である。そして同時に傑作である。

    本書のテーマは重い。極めて重い。今の世界が直面する困難の構造を析出し、それを突破する主体を構想する。それが本書の目的である。ところが、その重すぎるテーマを前にして本書の叙述スタイルはなんだかとっても妙だ。文章はわかりやす過ぎるほどに明快であり、哲学書・思想書にありがちな晦渋さとは無縁。随分くだけた表現もあり、場違いなほど俗っぽい物言いに思わず吹き出してしまうこともしばしばだった(とはいえ、これは東の話術=トークにおいてはおなじみのものだが)。もともと著者・東は複雑なものをシンプルに整理して提示する達人だが、本書ではその技術がいよいよ究められつつあるように感じられる。

    全体の構成も面白い。本書は二部構成で、第1部ではまず今の世界のありようを描き、それに抵抗する主体として観光客=郵便的マルチチュードなる概念が提示される。この新しい主体のアイデンティティの在り処を探るのが第2部となる。詳細については実際に読んでもらえればいいのだが、東は上記のストーリーを描き出すために多様なモチーフを呼び出している。観光学や政治哲学を参照して記述する第3章あたりまではいいとして、第4章以降はネットワーク理論に情報社会論(サイバースペース論)にドストエフスキー論と怒涛の展開である。さらに第1章のあとに挿入される付論では東の過去の仕事であるオタク論および福島第一原発観光地化計画についても言及され、本書との接続が図られている。このような混淆性により、本書を読むことそれ自体が一種の知的観光となっている。まさに構成の妙と言えよう。

    以上のような独特の叙述スタイルは、課せられたテーマの深刻さにもかかわらず、本書をさわやかで風通しのよいものとしている。この「まじめ」と「ふまじめ」の同居こそ、本書の不思議な印象の正体だろう。

    内容については下手な要約をするより実際に読んでもらうのが一番だと思う。大変刺激的な議論である。第2・3章の近現代政治哲学の鮮やかすぎる整理は大変勉強になった。第4章で試みられる社会思想とネットワーク理論の接続は驚くべきアイデアであり、今後賛否両論を呼ぶことになるだろう。第6章は東の初期の仕事であるサイバースペース論のアップデート。第7章(最終章)のドストエフスキー論は感動的ですらある。

    ついでに言うと、本書は「東浩紀による東浩紀入門」としても読むことができる。前述した「多様なテーマ」とは、つまりは東が過去に取り組んできた仕事の集積であり、それを「観光客」というパースペクティブから再構成し、そこに新しいアイデアを加えてできたのが本書ということになるだろう。これまで東浩紀の最初の一冊は『動物化するポストモダン』か『弱いつながり』あたりだったのかもしれないが、これからは間違いなく本書となるはずだ。入門したところから一気に最前線まで連れていってくれるのだから贅沢なものである。

  • 批評誌ゲンロンの創刊準備号の体裁をとっているが、実質は東浩紀のそれまでの著作を踏まえた単著思想書となっている。平易な文体で哲学者紹介や数学概念を横断しつつ、資本主義と国家の二重構造を往来する観光客としての思想的抵抗を提示する。第二部以降は第一部に比べ繋がりがなく、あまりまとまっていない印象を受けるが、それぞれ視点が異なっていてアイデアが興味深い。全体として説明が丁寧なので入門的にも読める。
    国家社会・共同体はつなぎかえのスモールワールド、コミュニタリアンの理想としての形式。対して帝国は、新規参入の成長と優先的選択のスケールフリー的な世界で、資本主義やリバタリアンの主眼である。これら二層構造世界での抵抗として、郵便的マルチチュードが示唆されるが、それは自由で安全な往来が担保される観光客、換言すればつなぎかえの誤配、ルソー的憐み、ローティ的共感(偶然的矛盾をアイロニカルに受け入れる感覚)と言える。
    それまでのネグリ・ハートの否定神学的なマルチチュードは、信仰告白に収斂する神秘主義・ロマン主義的自己満足でしかなく、共通思想の「ない」連帯が帝国に抵抗する結びつきが「ある」と信じる物語である。
    偶然的に誤配される観光客を新しい人間の定義として指し示している。
    また、個人でも国民でも階級でもない単位として「家族」を提示する。国民でも階級でもない、必然性と偶然性を包含するアイデンティティ。親から見て偶然性の子どもが必然性に変わる。
    加えて別の視点から、情報社会での主体の構造を分析する。大文字の他者が不在のラカンを基礎に、ニコ生の構造を使ったイメージとシンボルの鏡像としての主体。
    さらに文芸批評的に、ドストエフスキーのテロリスト小説の主人公の弁証法的乗り越えから新しい主体を考察する。亀山郁夫のカラマーゾフ続編空想から見る新しい主体としてのアリョーシャ、運命を子どもたちに委ねる不能の父。「誤配を起こす親としても生きろ」というメッセージで締め括られる。

  • これは、哲學書というよりそれ以前に、批評である。
    それは著者の『存在論的郵便的』『動物化するポストモダン』『一般意志2.0』の自注と(內容だけをみると)言えなくはない。これは、自著の単なる「解題」ではないか、と。
    しかし解題という言葉には、強靭な自己批判といういみも含まれるとすれば、東氏ほど「現在」を語るにふさわしい書き手はいないのではないか。

    射程の広い思考をもった理論家ともいえる。カント及び、ヴォルテール、そして、20世紀の政治哲學三人、シュミット/コジェーブ/アーレント。
    最後に、ネグリ+ハート、そして、ローティーと、振れ幅の広い思想家を、精確に分析する手管は、淒みがある。

    さて、他者の哲學とひとことでいってもその説明原理には様々ある。
    文化記號論的に要請される他者にも、システム論と相俟って1980年代には議論されてもいた。

    観光客概念の先の説明原理との大きな違いは、哲學體系文明観などの大きな物語との間隔を斟酌する必要がなかった、別の言い方で言うと、現代はそれらの枠組みと、別の枠組みを視野に入れる必要に迫られている。
    そういうことが言えるのではなかろうか。

    それは、何も、それまでの英知を無視するとやいう訳ではいささかもなく、むしろ、それを(哲學體系や文明観などの大きな物語)をどん欲に咀嚼(批評)した上での論理構成が必要になっている。

    中心概念には、精緻なシステム理論から編みだされた「誤配」、世界心情ともいうべき文化人類學的「憐れみ」を配して、郵便的マルチチュード/多元的決定論へと累進的に論じられる。

    第二部 家族の哲學
    (続く)

  • 最の高。哲学とか思想とか興味ないって人も、読むべき教養書。
    このよくわかんない世の中と、自分の生き方との接点って何なのか?を、意外な切り口からグイグイ掘っていって、示唆をくれる。
    もっと、偶然を楽しんで生きていこう。
    哲学や思想って、こんなダイナミックでおもろー!なのか、と気付かせてくれる一冊。

  • ・20世紀が戦争の時代であったなら、21世紀は観光の時代になるかもしれない。そのため、哲学は観光について考えるべきである。
    ・観光とは何か
    ー「楽しみのための旅行であり、報酬を得る活動をせず、日常の生活圏から脱出し、滞在すること」だったが、それが生まれたのは大衆文化と消費社会の誕生が背景にある。新しい交通と新しい産業が生み出した新しい生活様式と結びついた行為であり、古い既得権益層と衝突する行為でもあった。
    ー日本の観光学は実学的であり、「楽しみのための旅行」という定義だけでは、何も思考を促してくれない。
    ー他の国は観光を表層的なものとしてしか捉えておらず、観光の本質については議論していない。それが1990年代の「観光のまなざし」で変わる。
    観光の起源は大衆観光であり、人々に余暇という時間概念の誕生に付随して生まれた。
    素朴な土地→観光客の発見→経済的利益の追求→素朴さの破壊
    ではなく
    あらかじめ、観光客の視点を内面化して町並みやコミュニティが形成されるように変わってしまったのではないか
    →テーマパーク化、メタ視点
    必要性と不必要性
    観光客はふわふわと移動する(偶然性)、たまたま出会ったモノに惹かれ、たまたま出会った人と交流をもつ。
    →観光客の限界と可能性(第4章)
    観光客は現実の二次創作者である。
    ー世の中に溢れている観光プログラムの多くが2次創作物。でも、1次創作を大切にしなければならない。オリジナル。

    ・観光客と住民の対立は観光が大衆化された19世紀から存在している。
    ートマスクックの肖像
    ・自分の中での観光の概念(自己分析)
    ・ヴォルテールによると「観光客はまちがいに気づく」。(not最善説)カントによると「観光客は永遠平和を設立する」。
    ・観光客から考えられる人間の定義は何か?21世紀の考え方では時代遅れ。
    ・労働を強いられているものは生物学的には人間であるが、精神的には人間ではない。人間は欲望に沿って生きていくべきである。
    ・ナショナリズム(政治、公)とグローバリズム(経済、私、市民社会)の対立
    ー観光がこれを解決することができるのでは。公共と普遍につながる回路を探ること。
    ・政府の議論はネーション単位だが、経済の議論、市民の欲望は国境を越えて繋がりあってる。
    ・現代は上記の思想が共存する2層構造の時代。
    ・規律と管理は同時に作動しうる(本: 帝国)

    ・郵便的マルチチュード
    ーマルチチュード: 現在のグローバル的な主権と資本主義の支配下にいる全ての人々。消費、群衆。
    ー郵便的: 誤配(予期せぬコミュなど)を多く含む状態。
    ・つまり、群衆で消費をする観光客は旅先で様々なものに出会う。
    ・誤配は観光では否定的な経験ではない。
    ・否定神学的マルチチュードの限界は、連帯が存在しないことで存在するとされていたが、郵便的マルチチュードでは、絶えず連帯が失敗することで事後的に生成し、結果的にそこに連帯が存在するように見えること。
    ・ネットワーク理論、スモールワールド性、スケールフリー性
    ーつなぎかえ、近道、成長、優先的選択
    ・21世紀の抵抗は、帝国と国民国家の隙間から生まれる。つまり、誤配を演じなおすことを企てる。出会うはずのない人と出会い、行くはずのないところに行き、考えるはずないことを考える。
    ・21世紀の新たな連帯は、誤配の再上演(観光客の原理)から始まる。
    ・人間が社会を作るのは憐れみから。
    ・観光客が拠り所にすべきアイデンティティは家族である。
    ・家族の強制性と偶然性と拡張性。

    まとめ
    ・ぼくたちは世界に対して親が子に接するように接するべきだ。
    ーコミュニタリアン(ナショナリズム)でもなくリバタリアン(グローバリズム)でもなく、家族的類似性に基づき、新生児に接するように他者と接するべき。
    ・子として死ぬだけでなく、親としても生きろ。生物学的だけでなく、象徴的、文化的なものも存在する。
    ー親であるとは、誤配を起こし、偶然の子供たちに囲まれるから。
    ーすでにある環境だけでなく、リバタリアンのように信じた道を進みつつも、偶然なる出会い(誤配)を大切にする。

  • 改めて読み直した。素晴らしい哲学書は何度読んでも読み応えがあるし、新たな発見があるなと再認識した。
    この本ほど大量の哲学者たちの引用&要約されているものはあまり読んだことがなく(特に要約力が高すぎる)、その圧倒的な読みやすさからも、この本自体があたかも哲学への観光のようだった。
    再読した現在、BlackLivesMatterデモが加速していて、なんでこんな地獄みたいな社会になったのだろうか、とぼんやりだけど切実なガッカリ感が自分の中にあったが、この本はそのガッカリ感に言葉をくれた気がする(直接的な主題ではないが)。
    とにかく素晴らしい本でした。内容はもちろん、読み物として素晴らしい。

  • 緊急事態宣言が発せられた最初の土曜日。予定がキャンセルで引きこもり状態なったので、よし、積読解消モードだ!ということで2017年に毎日出版文化賞でチェックしていた本書を開きました。たぶん出版後すぐ読んでも受け取れることの多い読書になったはずですが、3年後このタイミングで読んだからこそ、の浸み込み度が大きかったと思います。今回のパンデミックによってデリケートなバランスで成立していたグローバルとナショナルの関係が崩れていく予感がしますが(同じ土曜日夜のETV特集でも世界の識者がそこ指摘してました…)、そのグローバリズムとナショナリズムの二層構造に分裂してしまった(それは今回のことだけではなくトランプ勝利やBREXITで顕在化はされていた)世界に対する哲学を創出しようという挑戦のプレゼンテーションでした。哲学というと難しいイメージがありますが作者の使う言葉は極めて明快で分かりやすく、分かりやすいキーワードで経済でも政治でもできない哲学ならではの現実世界へのコミットを指し示しています。そのキーワードは「観光客」。グローバルな仕組みとナショナルな社会を楽しみのために行き来する回路をそう呼んでいます。それはアントニオ・ネグリ、マイケル・ハートの「マルチチュード」という概念をベースに、作者が20年前から使っている「郵便」という概念でアップデートしたもの。「観光客」=「郵便的マルチチュード」なのですが、こうやってメモしているとなんのこっちゃ?ですよね。でも、読むとするする分かるのです。今回の災厄に対する危機感が難解な言説も本能的にわかるように鳴っているのかな?時々、東浩紀は読んできたのですが今回が一番するする浸み込んだ感じです。

  • いま現代社会に感じている違和感を明快に解き明かしてくれる。それだけではなく、そんな社会とどう向き合っていけば良いのかまでも、ヒントを与えてくれる、そんな本だった。

    第一部終盤、ローティの考えに対する著者の考察が面白かった。
    「たまたま目の前に苦しんでいる人間がいる。ぼくたちはどうしようもなくそのひとに声をかける。同情する。それこそが連帯の基礎であり、「われわれ」の基礎であり、社会の基礎なのだとローティは言おうとしている」

    この《たまたま》にこれからのヒントが隠されているのではないか。

    とても面白かったです。

  • 2018/07/14 購入
    2018/08/21 読了

著者プロフィール

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』など。

「2023年 『ゲンロン15』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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