訂正可能性の哲学 (ゲンロン叢書)

著者 :
  • ゲンロン
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  • Amazon.co.jp ・本 (364ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784907188504

作品紹介・あらすじ

正しいことしか許されない時代に、「誤る」ことの価値を考える。
世界を覆う分断と人工知能の幻想を乗り越えるためには、「訂正可能性」に開かれることが必要だ。ウィトゲンシュタインを、ルソーを、ドストエフスキーを、アーレントを新たに読み替え、ビッグデータからこぼれ落ちる「私」の固有性をすくい出す。ベストセラー『観光客の哲学』をさらに先に進める、著者30年の到達点。

感想・レビュー・書評

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  • 【新刊のご案内】東浩紀『訂正可能性の哲学』9月1日発売!|株式会社ゲンロンのプレスリリース
    https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000030.000034496.html

    おわりに──『訂正可能性の哲学』より|東浩紀 - webゲンロン|考えるを育てる(2023年8月25日)
    https://www.genron-alpha.com/article20230825_01/

    家族的なものとその敵(抜粋)──『訂正可能性の哲学』より|東浩紀 - webゲンロン|考えるを育てる(2023年8月31日)
    https://www.genron-alpha.com/article20230831_01/

    訂正可能性の哲学 特設ページ|東浩紀 著 - webゲンロン|考えるを育てる
    https://www.genron-alpha.com/poc/

    ゲンロンショップ / 訂正可能性の哲学
    https://genron.co.jp/shop/products/detail/796

  • 事後的に解釈やルールを変えられる、それが人間と言語の本質にある、だから社会の無意識的な理想、一般意志の実現を目指すAIによる統治は、人の本質を欠いていて理想にはなり得ない。分人は責任を負わないので異なるポジションを取るのではなく、全人的に訂正していこう、とも理解した。こじつけ感あるなと思うところもあるが、合意できる内容。議論する、難癖つける、相手を思いやる、そういう社会性で人の幸福は成り立ってる。何かに意味を見出すのはこれからも人がやりたいことなはず。

  • 『観光客の哲学』の続編である本書は前書の主張を引き継ぎつつ新たに”訂正可能性”という概念にポジティブな可能性、それは究極のところ、民主主義社会における新たな可能性を見出す。

    本書の主張は、末尾に収められた以下のようなテクストで要約される。

    ”だからぼくたちはけっして、民主主義の理念を、理性と計算だけで、つまり科学的で技術的な手段だけで実現しようとしてはならない”(本書p326より引用)

    ”ぼくたちはつねに誤る。だからそれを正す。そしてまた誤る。その連鎖が生きるということであり、つくるということであり、責任を取るということだ”(本書p343より引用)

    前著の『観光客の哲学』では「敵か味方か」という二元論を超える存在として”観光”という行為にスポットライトがあたっていたが、その二元論には「◯◯は正しい」という価値判断があり、その価値判断に合致したものが味方とみなされる。昨今の社会分断を見れば明らかなように、現代社会はこの”正しさ”をひたすらに追求してきているように思う。

    しかしながら、我々は常に正しい判断を下せるわけではない。むしろ自らの”誤り”に気づき、その意見を変えていくことこそが重要であり、”誤り”、ひいては”訂正可能性”をポジティブなものとして受け入れるべき、という著者の主張は、極めてアクチュアルな意見提起であると私は強く感じた。

  • この本は、これからも何度も読み返すことになる。考え続けることの意味を、こんなにも優しく分かりやすく語りかけるような本を書いてくれたことに感謝する。人間とは、迷って間違ってどうしようもなく、だからこそ愛おしいんだ。
    それから、理系の夫と文系の私で、「自然」という言葉の定義が違うのだろうな、という事に気が付かされた。違うところから出発して、議論を深められたらよい。

  • 著者がおわりで述べている哲学とは、過去の哲学に対する再解釈であるという姿勢が体現された著作だったなと。 過去の文献の丁寧な読み込みと再定義から発する「訂正可能性」の意義。人間に対する親しみを込めた諦観が、著者の人間愛を醸し出す。

    ところで過去の作品から文体が変わったとのこと。ぜひ、『一般意志2.0』あたりから振り返りたいなと。もちろん今後の創作活動にも期待しておりますです。

  • 絶えず間違い、正しさを作り、また訂正する。それを繰り返す。「正しい」なんか無いんだという冷笑に陥らずに、かといって絶対的正しさに固執することも無く。
    面白かった。別の著作も読みたい。

  • 人間への諦念を前提とした内容ながらも、これをポジティブ、いやニュートラルに捉えられる読後感だった。人間とは、決して合理的で強い存在ではなく、情念に振り回され他者を傷つける弱い存在である。これを、だからといって単純に人間を排除する思想に走るのではなく、それでも過ちを訂正し続けていくからこそ持続可能であると結論付けている。それは、悲観主義ではなく、かといって理想主義でもない、とてもプラグマティックな考え方に思えた。
    カール・ポパーが提唱したように、一見すると絶対的だと思われる科学でさえも、その正しさは常に暫定的なものでしかなく、それは反証可能性に開かれている。同様に、正しさの基準も時代や文化によって驚くほど変わる。発話は他者によって誤読され、訂正され、再解釈されていく。人間のコミュニケーションとは、所詮そのようなものでしかない。このような前提に立てば、データや AI に意思決定を委ねる「人工知能民主主義」も、科学やテクノロジーという一側面に依存しているに過ぎない。そのような似非的な「一般意志」には、統計学的な代表性しか現れず、固有名や個々の意志は排斥されてしまう。そこには主体性は宿らず、人間性の退化を招くことになってしまう。人間は不完全な存在であり、不完全にしか物事に関わることはできないが、だからこそ、常に過ちを発見し、正していく「訂正可能性」を持つことができる。そして、不完全な存在だからこそ、正しさを探求し続ける自由が保証される。本書を読んで、プラグマティズムへの関心がより強まった。

  • - 民主主義の本質=訂正し続けるということ
    - クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドックス』で出したクワス算の例
    - 人間の作り出した定義は曖昧で、絶対的に正しいとは言えない
    - 成田悠輔や落合陽一らは実は素朴なルソー主義者であり、そこには一般意志を訂正できる可能性はない(人工知能民主主義)
    - ルソーの一般意志=絶対的に正しいもの、自然にも重ねられる
    - 全体意思(個人の意思の集合)とは違うもの
    - 一般意志の「訂正」は不可能に思われる
    - ルソーの小説『新エロイーズ』を読み解き、「訂正可能性」を探る
    - サン=プルーとジュリの間の愛は自然
    - ヴォルマールはそれを人為的に上書きしてジュリとの「自然」な愛をつくりあげようする
    - 観光客的存在アイデンティティがはっきりしない存在が訂正可能性を生む
    - 家族も本質的には訂正可能性を内にはらんでいる

  • 2024/5/1
    導入部分は理屈っぽさを感じたけれど、その前振りの理由が判ると本論にスムーズに入っていける。
    いわば予習と本題の繰り返しを続けながら進む形に慣れていった。
    示される過去からの経緯やその関連資料が多く、その内容をきちんと把握できていないからかもしれないが趣旨は非常にシンプルな印象だった。
    本書に限らないが右だ左だとか、何々派、何とか主義とかが出てくる度に、その主義主張はこうである、だからこうすべきとか、それは解釈が外れているとかいう事例や批判が伴うが、他人が提唱した理論がいかに優れていると思えても、それを理解し、それに合致した生活や行動を100%行うのは無理であるし、その意味もないように思う。
    多くの人々は決して右や左、赤や青、特定の主義主張等、両極端に分かれているわけではなく、その内容や、その時に応じて両極の間を行ったり来たりしている。
    社会には公の役割は必要だし、私のない世界などあり得ないのが普通の感覚だろう。
    そこには絶対の基準などなく、あるのは公私およびオン・オフの程度の違いだけ。
    昔、選挙の前に色んな政治テーマ(確か7つ)について、なにが最適と思うかという問いがあって、答えてみたところ自分の意見と合致する政党が各テーマで全て違っていたという経験がある。
    驚いた反面、それが普通なのかなとも納得した覚えがある。
    どんなに意思疎通が出来て理解しあえている間柄でも所詮人と人は異なるし、自分自身の事さえも決して全て理解できていない。
    ましてや人間の集団や社会全体に共通した真実や善はなく、その近似値を常に想定、追求し続ける事が必要なのだと思う。
    その試行錯誤は人間の活動が休止しない限り続くエンドレスなものだと思うし、生物が自らの破壊再構築でエントロピーを排出し続けることによって生命を維持しているのと同じかなと思う。
    そういう意味では当然というか、その通りという内容だった。
    逆に真実はこれだ、これが究極だと唱える者は、為政者であれ、宗教家であれ、学者であれ、そこには傲慢と腐敗が必ず付きまとうということを改めて自覚すべきと感じた…頂点に達したら後は転げ落ちるだけ。

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著者プロフィール

1971年東京生まれ。批評家・作家。東京大学大学院博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者。著書に『存在論的、郵便的』(第21回サントリー学芸賞)、『動物化するポストモダン』、『クォンタム・ファミリーズ』(第23回三島由紀夫賞)、『一般意志2.0』、『弱いつながり』(紀伊國屋じんぶん大賞2015)、『観光客の哲学』(第71回毎日出版文化賞)、『ゲンロン戦記』、『訂正可能性の哲学』など。

「2023年 『ゲンロン15』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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