「4分33秒」論 ──「音楽」とは何か (ele-king books)

著者 :
  • Pヴァイン
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感想 : 8
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  • Amazon.co.jp ・本 (256ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784907276133

感想・レビュー・書評

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  • ・4分33秒は沈黙の不在の証明
    ・同じ4分33秒は存在しない
    ・デジタルの無音は作れる。だが、音楽を聞くという行為には場所と時間が必要。頭で4分33秒のことを思うだけならコンセプチュアルアート。
    ・私は何も言うことがない。私はそれを言っている。
    ・4分33秒は今も流れている。
    ・音楽は時間芸術。再生したらその分だけ未来に進む。

  • 第34回アワヒニビブリオバトル「舞台」で発表された本です。
    2018.02.06

  • これは、なかなかおもしろい本でした。読後にピアノが上手くなるという事は、全く無いけど、音楽について考える人なら、読んで欲しい。

  • 音楽批評は読むのが難しい。何故ならメロディやリズムを耳にしないまま、文章でそれが解析されるからだ。そもそも感覚的なものを文章にする時点で誤差があるだろう。その誤差から「読む私」が脳内で再構築する音楽は‥もう元の音楽ではない。どんなに聞いたことのある音楽であったとしても、難しい(私だけか?)のに、この本は面白く読んだ。

    何故なら、「4分33秒」はメロディがないからだ。

    この限りなくコンセプチャルアートにも似ている音楽を、佐々木敦はコンセプチャルアートではなく「音楽」であるという。そういえば120年記念で偶々行ったザルツブルグの美術館で「ジョン・ケージ展」が行われていた。確かに美術館での展示ではあったが、音楽の町、ザルツブルグらしいアプローチだったような気がする。

    さて、ジョン・ケージといえばこの曲が一番有名だが、彼はこの曲の前にも後にも音楽を作り続けていた。耳をすませばどこにでも音楽は聞こえる、と、禅の境地に至ったかのような作品を作れど彼はトライアンドエラーを繰り返したのである。
    この本を読んでいて、デュシャンの「泉」のような皮肉めいた大革命に対して、ケージの「4分33秒」は皮肉ではなく、聖フランシスコのような大いなる愛のようなものを感じてきた。身近にある音に、ケージは心底心動かされたのではないだろうか。

    なんにせよ、読む前は「4分33秒」だけ集めたアルバムがあると聞いてなんて馬鹿バカしいのだろうと思っていたが、今ではそのアルバムを聞いてみたくて仕方がない。

  •  いやしくもクラシック音楽ファンを自認する者なら、20世紀音楽に関心がなくともジョン・ケージの名前くらい知っていようし、その代表作が「4分33秒」だということも承知のことだろう。ただし彼らが「4分33秒」を聴いたことがあるとは思えない。いや、20世紀音楽のファンだって聴いたことがあるとは思えない。
     というのは半ばジョークで、いったい「4分33秒」を聴くというのはどういうことなのだろうか。
     単純に聞こえないじゃないかというのは浅薄な理解であって、ケージはそこで何も聴くなと言ったわけでもなく、聞こえないことを体験しろと言ったわけでもなく、聴き方を変えろといったのだというのが、ひとまず「4分33秒」のコンセプチュアルな理解である。それを庄野進は聴取の解釈学から聴取の詩学への転換と述べたが、「4分33秒」においてはそれまで楽音と思っていなかったものを音楽として聴くといういかにもケージらしい哲学が開陳されているのであり、これを代表作とみることには一定の正当性がある。
     しかしなぜ「4分33秒」以降もケージは作曲を続けたのか。環境音を聴けということだけなら、なぜそれは4分33秒でなければならないのか。この点については4分33秒という枠の中に何か出来事が起こるという構造を有しているからだということを近藤譲は述べている。

     すでにあちこちで語られてきた「4分33秒」であるが、本1冊をこれにあてた論考というのはさすがになかったのではないか。2008年、佐々木敦が彼の私塾において5回にわたって行ったレクチャーの記録である。1回は3時間。つまり4分33秒のための15時間。語った内容はほとんど手を加えていないという。
     著者は聴取体験の変容、枠と出来事といった先駆者の論考を引きつつ、「4分33秒」の問題圏をケージが当初意図していたであろう点よりも先に推し進めようとする。

     もし、「4分33秒」の目的が聴取態度の変革、認識論的な変化にあるなら、それは1952年にデイヴィド・テュードアがこの曲を初演したときにしかない。聴衆はピアノの前に座った演奏者が蓋を開けて、しかし何もしないことに訝しがりながら、しかしそのうちに会場に満ちているあらゆる音に耳をすますようになる……。著者はしかしながら聴衆は「4分33秒」が何かはリアルタイムには理解しなかったろうから、遡行的に「作品」が生成されたのだろうと考える。他方、現代の聴衆が「4分33秒」を聴いたとしても聴衆はそのコンセプトをすでに知ってしまっているから、それは「4分33秒」の哲学や思想の再確認に過ぎない。
     そして聴取という問題とは別に考えてみようとする。それは時間の経過ということである。時間芸術のもっとも核となるものの抽出ということになろうか。「4分33秒」という時間が流れるということ。
     評者は面白く読んだが、「4分33秒」という時間が流れるということ、リアルタイムに音楽なり出来事を体験するということに、著者はいささかナイーヴすぎるのではないかと思う。まさにベルグソン的なのだ。いったい我々は「4分33秒」という時間をリアルタイムに体験できるのか。中島義道もいうように「4分33秒が経過した」と事後的にしか認識できないのではないか。もちろんケージはリアルタイムに体験が可能と思っていただろうが。

  • 4分33秒。話で聞くにはインパクトのある曲だけれどそれだけじゃない。無とは、沈黙とは、音とは、音楽とは。常識とか普通と言われる概念を根底から疑問とし、その一曲と対話する。
    分かりやすい言葉で咀嚼された理論はすんなりと心に染み込むし、押しつけがましくない展開はそこらの理論書の小難しいイメージをあっさり塗り替えた。
    とにかく一度、無響室体験をしに行くことを決めた。

  • 「4分33秒」と言えば、かのジョン・ケージが50年以上前に作曲(?)した、初演の際、ピアニストが出てきて、何も演奏せず、4分33秒後に、退場した、何も演奏されなかった曲。それだけをテーマに、一回3時間×5回の講義を行なうという意欲的な試み。以下備忘録的に。なぜ4分33秒なのか?という問いには、・秒数に直すと273秒= 273度=絶対零度だから・ダニエル・シャルルが「小鳥たちのために」で唱えた英文のタイプライターの配列が、「4」と「'」(分)、「3」と「''」(秒)を示す記号が同じだから・4フィート33インチ=ロバート・ラウシェンバーグの「ホワイト・ペインティング」(キャンパスをな真っ白く塗ってるだけ)にまつわるなんらかの数値ではないかと諸説あるそうな。「音楽」という集合が「音」という集合の中にあり、そして「音楽」は「音」の外縁に向かって少しずつであれ拡大していく。どこまでも拡大することはないかもしれないけれど、それでも「音」との間に余地がある限り、「音楽」は広がってゆく可能性を有している。p.34理想論めいた話ではありますが、耳さえあれば、そしてそこにある「音」を「音楽」として認識できるのであれば、作曲はもういらないんじゃないの?というところまで考えることが出来る可能性を『4分33秒』は潜在させている。p.56それはある意味では、やはり紛れもない矛盾なんだと思います。『4分33秒』の後で作曲をするということに、ある種の後ろめたさや無意味さとケージは向き合いながら、その後の長い時間、それでも作曲を、音楽をやっていったのだと僕は思います。p.57ジョン・ケージはレコードを一枚も持ってなくて、「音楽が聴きたい時は窓を開ける」と言っていた。p.73「無為の指定」と「時間と空間の限定」。この二点が『4分33秒』を形成しているとすると、サーストン・ムーアは「無為」のほうを捨てたということになります。「無為」の方だけを活かすと、ポース・グリフィスが言ったような、「今でも『4分33秒』は鳴っている」ということになってくる。その二つのどちらかにウェイトを置くかによって『4分33秒』の解釈の仕方は大きく変わってくるでしょう。p.95I have nothing to say and I'm saying it (私は何も言うことがない。私はそれを言っている。) p.100周りの音を楽しめばいいのかもしれないが、それは生活態度であって芸術ではない。耳を開いて、いろいろな「鳴っている音」に対して耳を澄ますという態度は、心が豊かになるという意味ではいいのかもしれないけれども、それは芸術ではないんだと。p.139『4分33秒』では「枠を作ってその中で何もしない」ことが、「聴く」ことの能動化を促すと言われているけれども、やはりそれだけでは足りないのではないか。つまり、「聴く」ことをもっと促すための仕掛けが必要だと言っているわけです。p.176コンセプトは理解されるためだけにあるわけじゃないと言いたい。p.195『4分33秒』という作品が何をしているのかというと、ほんとうにただ「四分三三秒という時間が流れる」ということだけしているんです。p.225二〇一二年の夏には「『4分33秒』著作権騒動」がありました。これは『4分33秒』はジョン・ケージの作曲作品として著作権が管理されているので、四分三三秒、沈黙を続けると著作権法に違反するのでは、というツイートが拡散されたもの p.248ジョン・ケージ「サイレンス」/ポール・グリフィス「ジョン・ケージの音楽」/マイケル・ナイマン「実験音楽 ケージとその後」/白石美雪「ジョン・ケージ-混沌ではなくアナーキー」/近藤譲「線の音楽」/「45分18秒」 コーム・プラスティックスというオランダのレーベルからリリースされた全曲『4分33秒』の作品集、にもあたってみたい。

  • ジョン・ケージという、これはもう「思想系」と言ったほうが早い存在。そしてその括弧つき作品『4分33秒』から受けた「認識の転換」には計り知れないものがあるが、その聖典である『小鳥たちのために』にならぶよいテクストが出た。
    わたしの活動はこれでまた破壊され刷新される。それがわたしにとっての『4分33秒』への向き合い方であり、そのくらい大きなことなのである。

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著者プロフィール

佐々木 敦(ささき・あつし):1964年生まれ。思考家/批評家/文筆家。音楽レーベルHEADZ主宰。映画美学校言語表現コース「ことばの学校」主任講師。芸術文化の諸領域で活動を展開。著書に『増補・決定版 ニッポンの音楽』(扶桑社文庫)、『未知との遭遇【完全版】』(星海社新書)、『あなたは今、この文章を読んでいる。』(慶應義塾大学出版会)、『ゴダール原論』(新潮社)、『ニッポンの文学』(講談社)、小説『半睡』(書肆侃侃房)ほか多数。


「2024年 『「教授」と呼ばれた男』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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