- Amazon.co.jp ・本 (240ページ)
- / ISBN・EAN: 9784909394743
作品紹介・あらすじ
思索、数学、子供との時間、今という瞬間…
偶然の日々の中で一度きりのすぐ近くにある、永遠をつかみたい――
その思いを胸につづられ、あふれでてきた、詩のような言葉たち。
散歩は、子どもたちとの本当の散歩のときもあれば、先人や先達との、時空を超えた思索の散歩のこともあった。二度とない偶然の散歩を、心に刻みつけるように書いた。
(まえがきより)
日経新聞「プロムナード」全25回ほかを収録。
『数学の贈り物』から3年半、著者に訪れた大きな変化の感覚が息づくエッセイ集。
感想・レビュー・書評
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図書館で借りた本。わりと待ちました。
散歩っていいいなー、なかなか時間がないなぁなんて思っている時にタイトルに惹かれて予約したものだと思う(記憶があやふや)。
著者の肩書が素敵。「独立研究者」ですってよ、奥さん。最近組織に縛られることのメリットデメリットを考え続けているからか、自分の力で仕事をしてる人を羨望の眼差しで見てしまう傾向がある。
それはおいといて・・・
本書の内容。
息子さんとの散歩について書かれたものもあれば、仕事についてのエッセイ、家族についてのエッセイもあり、そこまで散歩散歩していない。(←散歩散歩って何よ)
数学者とのことで、相当賢い方だと察しますが(今ググってみたら東大出身でした。さすが。)、その他の分野についてもかなり博識な方だとお見受けしました。
「数学の演奏会」という発想は面白かった。やはり自分で仕事を作り出す方は発想が違うわ、と思いました。
その他に心に残ったのは、「精進」というエッセイと、「道草の記憶」というエッセイかな。
数学、物理、というか数字そのものに苦手意識がある私にとって、著者のような人の頭の中はとてつもなく謎でありまして、だからこそ、こんなこと考えていらっしゃるんだと興味深かったです。
わりと抽象的な表現が多く、絶対的に賢さや知識が不足している私にはわかりにくい部分もありましたが、ひとつひとつのエッセイは短く、詩のような日記、という感じがして、読んでいて心地よさはありました。
なんだかもう一歩著者の思考などに入りきれなかった気がしますが、それはこちらの力不足でということで・・・詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
経歴を見てみると、大学や研究所には属さずに、
数学の”独立研究者”として国内外で数学の講演や演奏会やブックトークなどの活動をしているとのこと。
機会があったら聴いてみたいな。
鳥や虫、草花など自然を感じながら歩く目線が穏やかで心地よい。特に後半・第三章のエッセイ「遅々として、遠くまで」「生きる」には著者の思いが詰まっていて沁みた。自分の日々の余裕のなさを反省…もっと大らかな気持ちで過ごしたら違う景色も見えてくるのかな。 -
数学を講演会などで普及活動している作者。自宅を拠点にしているので、生まれたばかりの子供とも過ごす時間が多く、そこにはいろんな発見がある。今から考えると、私は仕事一辺倒で一つ、二つの時の幼子のかたこと言葉をしゃべっていたなど一切思い出せることはない。残念なことです。
今、愛犬との散歩に毎日出てますが、もう少しあれやこれやとおしゃべりしながらフラフラと散歩するようにしますわ・・・・。 -
また本に「呼ばれた」のだと思う。
本屋さんの一角で著者もタイトルも知らないのに視線が吸い寄せられて、目が離せなくなるあの現象。
そういう直感には従うようにしている。
すると不思議なことにその時まさに自分にとって必要な本だったりする。
この本もそうだった。
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『何かを使えるということと、何かを理解することのあいだには、本当は果てしない距離がある。理解しようとする辛抱をやめ、効果的に使うことばかりを求めていると、未知の他者に対する想像力や感受性は、知らず知らずのうちにやせ細っていく』―『「わかる」と「操る」』
自分の本棚を見返してみると「計算する生命」の中から引用している文章が見つかり、その章題が『「わかる」と「操る」』であることに気付く。二年程の時を経て再び同じような言葉に惹かれていることを知り、つくづく人は知りたいことしか知ることが出来ないのだという事実に思いが至る。でも知りたいことしか知ることが出来ないと判っていても知ろうとし続けることによって何かが何処かで変化する。多分「理解する」というのはそういう境地に達することを言うのだろう。
「数学する身体」「計算する生命」のような数学的思考を通した哲学的考察を記した著書とは異なり、本書は「生きる」ことの意味を問い直すようなエッセイ集。とは言え、論考と名付ける程に研ぎ澄まされてはいないが、路傍の花の神秘にふと気付くような新鮮さが溢れている。それは日常の中に起きた変化がもたらした思考の接ぎ穂であり、偶然と思える出会いが導くものでありながら、例えばアイザック・ニュートンとリンゴが木から落ちる瞬間との偶然の遭遇の時にニュートンに起きたことと同様、思考そのものは既に著者の中で意識・無意識の内に繰り返し吟味されていたものである筈だ。しかし繰り返し考えても辿り着かなかった「Ah, ha!」の境地に、小さな自然との出会いの助けを得て急に視界が開けるように辿り着く。その過程は言葉にならないけれど、先人たちも繰り返しもどかしく言語化しようとしてきた道筋に違いない。森田真生もまたそんなことを語ろうとする。
もちろん、そんな風に小難しく読んでしまう必要はなく、著者の親としての成長の記録を読むような気持で文章を辿ることも可能ではある。しかし子供の成長の中にある「理解」の過程、「真理」という概念への接近に、著者の視線は向かう。そこから「数学的真理」という実態もなく証明することもままならないものへ漂っていく思考を追いかけることこそ、本書の醍醐味なのではないか。少しばかり環境問題への傾倒が気になりつつも、著者森田真生の感性の確かさを改めて感じる一冊である。 -
一度として、同じ散歩はない。と、筆者さん。
学者さんの日常を垣間見れる楽しみと、
子供の驚くべき成長が丁寧に綴られた一冊。
読んだ後、尊い、と言わずにはいられない。 -
考えごとに煮詰まった時、無意識と意識の境目あたりに考えごとを置いて散歩すると思わぬ閃きがおりてくることがある。著者が考える、単に歩くこと以外の「散歩」を教えてもらいたい
#偶然の散歩
#森田真生
22/9/22出版
#読書好きな人と繋がりたい
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言葉がとてもシンプルであること、何層もの奥行きのある記憶風景のように、振り返る(読み返す)たびに意味を豊かに、ありありと受け取れることに驚く。
いつか死ぬ、生きているということ、もう会えないひと、会いに行けるひとのこと。この本を贈りたい、大切な人ひとたちのことが思い浮かぶ。
いくつもの光を、手を伸ばしてキャッチするように瞬間瞬間の切なさを味わい、何度も読んでいます。