プラハカフカの街

  • 成文社
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  • Amazon.co.jp ・本 (189ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784915730641

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  • 長い抑圧から経済発展やそれに伴う民族や社会の解放への可能性の時代1881年に父であるヘルマン・カフカはOsekという田舎町からプラハへうつる。そして裕福な出のユーリエと結婚。1883年7月3日カフカは昔ゲットーのあったプラハのユダヤ人街の一角で生まれる。フランツ・カフカはチェコ文化で育った父からドイツ語で育てられドイツ語の教育をうけ官僚をめざし法学部を卒業し法律事務所にも研修したが裁判所で1年働いた。のち民間の生命保険会社に就職したが激務すぎ本当は異国での生活もあこがれていたが、休暇のないのに不満を感じすぐにやめて公務員になる。チェコ・プラハで生涯根無し草として過ごす。父はユダヤ系であったがシナゴークにも通わなかった。1917年オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊まで激動の時代もプラハで過ごす。幼少期はドイツ系が暮らしやすかった町のようだ。だが次第にドイツ系はチェコ人の8%程度であった。偉大な詩人は実は生計の為に弁護士をあきらめ公務員として働いていた。勤務時間が短いからだ。だが、ドイツ語を話す人たちからはユダヤ系ということでドイツ人とみなされなかった。カフカは自身で次第にアイデンティティーをユダヤ人として意識するようになる。世紀末の東欧の歴史は非常に複雑なので激動の時代を生きたカフカの生涯を通して当時のプラハの町に興味のある方にオススメする。

    プラハはプシュミスル家の創始者で設立される。その王妃リブシェは息子のネザミスルに自分の曾孫が政治を統治するときにユダヤ民族を助けると国家は繁栄するだろうと告げたそうだ。リブシェが無くなった100年後リトアニアやロシアにいたユダヤ人はヴェンデ人によって追放されて10年間世界をさまよい最終的にチェコにたどりついた。そして9世紀半までその地で暮らしていたらしくチェコにはユダヤ人がかなり前から暮らしていた事がわかる。
    1781皇帝ヨーゼフ2世のユダヤ人への緩和作。が、言語はドイツ語と規制。ラビもドイツ語で話す必要があった。
    フランツ・ヨーゼフ1世は更に緩和しユダヤ特別税を廃止、1860年から完全な平等市民権を獲得。開放が完了した第2世代がフランツである。

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