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- / ISBN・EAN: 4523215021678
感想・レビュー・書評
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ストーリーはなんだかなーという内容なんだけど、不思議な魅力がある映画。
中年トラックドライバーのジャンギャバンが過酷な仕事の中、家族からは邪見に扱わられ、長距離移動の途中のカフェの女中と恋仲になる。家族を捨て、彼女と逃避行のはずが。。。
「とるに足らない人々について」という原題がこの映画を的確に表している。
ドラマチックな演出をして、許されない恋に夢中になる必然性を説明してていけば、こんな筋でもロマンチックにできると思うのだが、そちらにはいかず、淡々と地道に事実を描くような演出をする。
リアリティ優先のような演出。
その少し突き放したような感覚が、イタリアンネオリアリズモまではいかないにしても、この頃の映画の新しい挑戦でありこの映画のパワーなのかもしれない。
観ていて、なんでこんな狸みたいな親父(もうすぐおじいさんに見える)が若い女性から慕われるの?とか、これじゃ、ヒロインのフランソワーズ・アルヌールにとってこの物語は救いようがないだけじゃないかと思ってしまう。それはストーリーだけを鑑賞しているから。
この映画は人物を楽しんだり、色々なシーンのディティールを楽しむと味が増す映画だと思う。
主人公二人が妙にリアリティがあり、魅力的。
霧で進めなくなったトラックを降り、ヒロインのために近くの家に電話を借りに行くジャンギャバン。そのおおきな体から醸し出す不器用な雰囲気。
けだるく、人生を悲観しているような、それでいて希望を見出そうとひそかに期待しているような女性を演じるヒロイン。若さと儚さを象徴する彼女。
主人公は途中で不倫の為に家庭を捨てようとする勝手なおじさんなのに、最後には結局家庭に収まって何事もなかったように働いている。
最後にフェリーニの「道」のように、ジャンギャバンが涙ながらに後悔をしてくれれば、観客側もスッキリするのだが、全然そんなことない。
もしくは、女の目線からダメな男にひっかかって、滅びていく、エクスタシーを表現することもできたと思う。
だが、普通に、こんなことあるよね。という感じで映画は終わってしまう。
かなり拍子抜けして笑ってしまった。
だが、ここにこの映画の本質、魅力があるのだろう。
ヒロインがトラックのなかでうなされながら繰り返しみる光景(鍵のカチャカチャ震え、天井からぶら下がる顔のキーホルダーが骸骨のように揺れる)が、冥土への道としての雰囲気を良く出しており、かっこいいシーンだった。
なぜ、こんな勝手な親父がなぜ家族に再び受け入れられるのか。現代だったら無理だと思う。
それは、まだ父親が家族の大黒柱であり、権威を持っていたからだと思う。
なんだかんだいって、父親がいてもらわないと回らない世界。
1956年はそんな時代だったのかもしれない。
ヴィスコンティの「若者のすべて」(1960年)でお母さんがお父さんをビンタするシーンがあったと思う。さすがイタリアの女性、家庭ではお母さんの方が強いんだなーと思ったけど。
この映画はお父さんが絶対的に強そう。昔の日本のように。
時代だけではなく、イタリアの女性とフランスの女性は違うのかなー。詳細をみるコメント0件をすべて表示