芸術の草の根 (1956年) (岩波現代叢書)

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  • 総じて、教育の目的は審美的であることにあるのではないかと感じた。
    また文化とは自発的発生であるということも。
    文化とは営みであり、古来の営みの理想は美的と偉大さにその重きを置いた。

    ●以下引用

    過去の偉大な文化はすべて充全総合的なものだった。つまり、それらの実際的な生活方式と精神的ないしは美的な理想とが、相互に緊密に結びついていたのである。機械が現れてその統合性を破壊してしまった。機械は生産手段における人格的要因を徐々に抹殺して行って、美などというような触知しがたい価値には居所を与えない経済体制を樹立してしまっている。

    つまり藝術と言うものは、ある意味からすると、社会構造と関連を保っているばかりでなく、国土の土壌や風光とまでも緊密に結びついているものだ

    人間の造型的視覚の審美性には変化など全然現れていないのである。

    美的感性は少しも変わらずにいる。変わってきたのは、いうまでもなく、芸術家を生み育てた社会の慣習や信仰だったのである

    藝術の標識は、それが道徳律の中にはないのだとすると、一体どこで見出されるものなのだろうか。その答えは言うまでもなく「自然のなかに」である。

    藝術はその香気も感受性も失ってしまって、めのこ算による自然の模写になり下がった。

    巨匠たちは、それぞれが生きた時代の文化の主流を意識的に代表していた存在ではない。

    どうみても偉大な時代とは見なしうる筈もない危機の時代に、思いもかけぬ力が個人の内部に目覚めるものだということである。

    知能の画一的な基準を造り出すことや、間接的には文化の画一的な形態を生み出すことを祈願するような教育の組織は、結局は社会機構の内部に神経症の蔓延を招来することに終わってしまう

    教育とは、個人をその環境に調整させてゆく連続的な過程なのである。そしてもしも個人が自己の教育を完了したと主張するならば、それはただ場面の転換の必要があることを表明しているに過ぎないのだ

    人間が飽くことを知らぬのは、その魂が高貴なるがゆえにである。この飽くことを知らぬ慾の深さは、ただ「幼児の状態」においてのみ保持されるものだ

    自由な個性、高貴な魂と言うものは権力や支配者たちに、また彼らが世界中にばらまいているさまざまな害悪や破壊行為に、決して従属するものではない

    偉大な建築や建築に適合した絵画や彫刻、それに大建築と機能的に結びついていた工芸などに取って代わったのは、機械による大量生産の無感覚な捏造物であって、それはまた特色的な副産物として、中央集権制、貧民屈、社会的神経症、生命力を喪失したプロレタリアート、非人間化されたインテリゲンチアなどをも生み出している。

    文明とは通常主として物質的な業績について言うもの、文化とは宗教的・学術的・藝術的な意味のもの。

    近代文明の主な努力は一般の生活水準を向上させることに向けられたのであって、「偉大さ」よりも、さらにまた「幸福」よりも、「安楽」という言葉が、近代世界の理想をより適切に言い表している

    近代社会においては、「文化」という言葉がすこぶる人為的なものを意味するようになってしまっている。それはもはや、人々やその生活態度から派生するものではなくて、教育や宣伝によって生活態度を押し付けられる何ものかになってしまった。

    人生における「熱情」は、冒険や、藝術的表現、創作活動などに顕著に現れている。「冷淡」は、物質的な富や莫大な財産に付随するものらしいが、まず第一に安全感を、次に倦怠を、そして結局は退廃を意味するである

    文化とはもともと生物学的な現象なのである。われわれは細菌に対しても、同一の「カルチュア」という言葉を使用しているが、それは全く正当なことである。藝術の文化を萌芽させるべき諸条件は、実験室内でペニシリンの培養を決定する諸条件と全く同様の的確さと科学性をもって決定されるべきである。

    人間成得の美的感性を保存し成熟させる教育組織

    単に教育が審美的なものでなければならぬということを教えるばかりでなく、教育が技能、品位及び効果的活動の達成を目的とするかぎり、その教育は現に審美的なのだということをも物語っている。

    高尚の高い時代とかには、常に総合的な身体技能の習得を基礎とする教育や薫陶の組織が存在した。

    藝術とはリアリティを確認するのではなく、リアリティを超えて何ものかを創造しうる人間の能力を確認する営み

    美しい行為は-公正とか愛とかの理想は-藝術作品において物質的に完成された形で示されなければ、決して知覚しうるものではない。

    われわれは藝術が情緒の営みであること、またおそらくは直観と知力の営みであろうことを認めなければならない。

    藝術を情緒的に効果あるものにする要因は、人間自身の本性と必要とによって与えられるものであり、人間の意識や知性とによって創造されるものではない

    われわれの目的とする所ところは、プラトンが目的とした所と同様に、人類の道徳的ならびに知的な完全、あるいは健康ということであり、そして藝術は、プラトンの場合と同じように、その目的に達するための手段である。

    中世のスコラ哲学の発生以降、教育はさまざまな形式をとって行なわれてきたけろども、この幾世紀かのあいだの教育が目的としたところは、本質的には、知性の力を増進させ情緒を統制して、自然界に関する学識と理解とを確立することであった。

    ルネッサンスにおいて発生したことであった。道徳的美質の教育はもっぱら教会が関係し、知性的美質の教育は国家がもっぱら引き受けた。

    ギリシアの哲人たちは、人間の行使しうる一切の知性的能力は、道徳的善という幹に接木されなければ、無益であるばかりなく、また危険なものでもあるということを、くりかえし説いていた。

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