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感想・レビュー・書評
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本当は「ジュニア文学名作選」を読みました。
大人になってから読む児童文学。嵌りそうです。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
広貴の読書のはやさ(本を読む「速さ」も習熟の「早さ」も)、理解の深さも既に、すっかり妻を上回っている。
「二十四の瞳」(壺井栄著)
先日、広貴が泉野図書館でまとめて借りてきた本の中に、壺井栄の「二十四の瞳」があった。なんとなく、私にも迫ってきているような感じがし、広貴が読み終えた後、私も久し振りに手にとって見た。
初めて読んだのは、私の中学生の頃だったろうか。当時は、かわいそうだったという印象だったような気がするが、今回読み直して初めて気がついたことがある。
「戦争の悲惨さを訴える感動の名作!!」と帯に謳われているように、確かに、いくつか巷で言われているように、反戦小説といわれれば、そうとらえられないこともない。しかし、この小説が書かれたのが、昭和27年ということを考えれば、決してそうとも言い切れないのではないか。
ごく普通の日本の妻であり、母であり、娘である女性にとっては、戦争なるものが好意的にとらえられているはずがない。作者のように、そして、作中の主人公「おなご先生」のように、ちょっとインテリな女性が、戦後、自由にその思いを文章に表しただけではないだろうか。それをもって、「反戦小説」と言われては、ご本人たちにとっても、必ずしも本意とはされないのではないか。おそらくは、作者壺井栄にしても、反戦小説という意識よりも、あの時代の、日本の田舎まちの素朴な光景、戦争と直接は関係ない田舎の子供たちが、時代に呑み込まれながらも、それぞれに成長していく様を描きたかったのだと思う。
小説の最後の部分。いたずら小僧だったソンキが戦争に行って、目を患わして帰ってくる。戦後、おなご先生をはじめ当時の子供たちも集まっての同窓会。昔撮った写真を皆で回して昔話で盛り上がる。
同級生のキッチンが言う。
「おまえがめくらになんぞなって、もどってくるから、みんなが哀れがって、見えないお前の目に気がねしとるんだぞ、ソンキ。そんなことにおまえ、まけたらいかんぞ、ソンキ。めくらと言われても、平気の平ざでおられるようになれよ、ソンキ」
同級生しか言えないし、全ての日本人が、多くの不幸を戦争で背負っていた時代だからこそなのだろう。
ソンキが応える
「目玉がないんじゃで、キッチン。それでもな、この写真は見えるんじゃ。な、ほら、まん中のこれが先生じゃろう。その前にうらと竹一と仁太がならんどる。先生の右のこれがマアちゃんで、こっちが富士子じゃ、マッちゃんが左の小指を一本にぎり残して、手をくんどる。それから、・・・。」
その指している指は少しずつその写真からはずれている。おなご先生は、涙を流しながら、「そう、そう、そうだわ」と相槌をうつ。・・・・・・・
広貴はどんなふうに、この小説を読んだのだろうか。どんなふうに感じたろうか。