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- / ISBN・EAN: 4571339481090
感想・レビュー・書評
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尾道で老夫婦の平山周吉(笠智衆)と とみ(東山千栄子)、そして次女の京子(香川京子)が暮らしている。
周吉ととみ は、身体が動くうちにと東京にいる子供たちのもとを訪れる。
長男の幸一(山村聡)は医者で、妻と2人の子供がいる。
長女の志げ(杉村春子)は美容室を営み、夫の金子庫造(中村伸郎)は勤め人。
三男の敬三(大坂志郎)は大阪にいる。
そして戦死した次男の妻で、今では努めながら一人暮らしをしている紀子(原節子)がいる。
しかしそれぞれの生活がある子供たちは、子供の頃の田舎の思い出も、老いた両親への家族の情も薄れている。
東京の孫たちも、田舎から来た馴染みのないおじいちゃんおばあちゃんには馴染まない。
そんな実の子供たちよりも、娘婿の庫造や、死んだ息子の未亡人の紀子のほうが配偶者に気を使っているかの様子を見せる。
周吉ととみに東京案内したのもの次男の未亡人である紀子だった。
実の子供たちは、「お父さんとお母さんいつまでいるんだろう?こちらも忙しくてどこにも連れていけないし」といい、お金を出し合い両親を熱海に行かせる。
だが周吉ととみ夫婦は、熱海の宿泊客の喧騒には心が休まらない。
抑揚のないゆっくりした雰囲気なのに、描かれている人間関係はかなりシビア。
東京や熱海は騒がしく、人々も早口だ。そんな中で周吉ととみだけはペースがゆっくりしている。
周吉とみ夫婦は熱海から東京に戻るが、子供たちの家には泊まりづらくなっている。
周吉は旧友の服部修(十朱久雄)と、沼田三平(東野英治郎)を訪ねる。
それぞれ老境に差し掛かり、戦後家族とも色々あった彼らは、酒を酌み交わしながら人生と家族への愚痴をこぼし合う。
すっかり呑んだくれた周吉と三平は、真夜中に志げの家に行き嫌がられる。
紀子の部屋に泊まったとみは、紀子と語らい合う。
尾道に帰ることにした周吉ととみは、見送りに来た子供たちとのお別れは、まるでもう会えないかのようだった。「みんなにも会えたし、もう自分たちに何か会っても尾道に来なくてもいいよ」「尾道と東京はえらく遠いから」というのは、距離(電車でほぼ1日がかり)だけではなく心も離れているかのようだ。
しかし子供たちは「これだけしてやったんだから両親も喜んでいるだろう」との気持のすれ違いがある。
帰りの電車ではとみが具合を悪くして大阪に戻る。
だがその事により、大阪で三男の敬三に会うこともできた。
そして周吉ととみは、自分たちの人生は悪くはないと語らうのだった。
この家族だって決して本当に心が離れているわけではない。なんだかんだ行っても喜ばせようとし(すれ違っているけれど)、兄妹弟同士はこの年でもこまめに連絡も取り合っている。
すっかり成人した子供たちが老いた親のことが二の次になるように、親たちだって「自分の子供はもっと大物になると思っていたが、実際に見てみたらこんなものか」という失望だって持っている。
それは断絶とまではいかない、一人の人間として独立しているということなのだろう。
尾道に帰ってすぐに、とみが意識を失う。
東京で電報を受け取った子供立ちは驚きながらも「忙しいんだけど尾道まで行かなければいけないのか」「喪服持っていくべきか」と冷静な態度だ。
みんなが尾道に駆けつけるがとみは意識を取り戻さない。医者の息子は父親に「明日の朝まで持てば良いでしょう」と冷静に告げ、周吉は理解しているのかしていないのか「そうか、おしまいか」と答える。
とみは意識を取り戻さずそのまま息を引き取るのだった。
葬儀が終わると実の子供たちは形見分けをもらい戻っていった。
尾道に残る京子は、紀子に兄姉の愚痴をこぼし、家族のつれなさを訴える。
紀子はにこやかに、子供は大きくなると自分の生活ができてくる。寂しくてもそういうものだ、と諭す。
しかしその紀子も、周吉と二人になったときに自分の不安を口にする。笑顔で一人で生きているかのような未亡人の紀子にも葛藤はあった。亡夫の両親に対してそれを見せるのだ。
周吉はそんな紀子にとみの形見の時計を託す。
紀子はそんな義理の両親の心づかいに涙を流すのだった。
紀子は帰り、京子は仕事に行き、周吉が一人で残る家の様子で映画は終わる。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
古き良き時代の日本の姿が描き出されている。尾道に住む老夫婦が東京の子どもたちに会いに来るが、息子・娘とも仕事が忙しくなかなか相手をしてあげられない。そんな中で一番献身的だったのは、亡くなった次男の妻。会社勤めのため、比較的休みが取りやすい様子。他の子どもたちも親のことを気遣い、熱海の温泉を勧めたりするが、老夫婦はかえって疲れてしまう。
尾道への帰途、体調を崩した老母が亡くなるという急展開が、この映画のキモだと思った。
たまに、無性に観たくなる小津作品。ロー・アングルとモノクロ画面が郷愁を誘う。 -
尾道に暮らす老夫婦(笠智衆と東山千栄子)は、東京にいる子供達を訪ねる旅に出る。東京には、長男(山村聡)、長女(杉村春子)の一家と、亡くなった次男の嫁(原節子)が暮らしている。長男、長女ともに忙しさもあり、両親を持て余す。次男の嫁だけが二人を歓迎し、精一杯もてなす。あまり歓迎されていないことを悟った老夫婦は早々に東京を切り上げ帰るために夜行列車に乗る。しかし、途中で妻の調子が悪くなり大阪で途中下車する。老夫婦は、その後尾道に帰るが、妻の調子は戻らず危篤状態に陥る。子供達に電報を出し、子供達も尾道に駆けつける中で、妻は亡くなる。葬儀後、子供達は早々に帰ってしまうが、ここでも、次男の嫁だけが残り、何かと義理の父親(笠智衆)の世話を焼く。次男の嫁に、父親は妻の時計を形見に渡しお礼を言う。そして、次男の嫁も帰る。
翌朝、笠智衆は一人の部屋で過ごす。
私にとっては、笠智衆演じる父親の孤独が最も印象的だった。
映画の最後の場面、子供達も次男の嫁も尾道から帰ってしまい1人残った家の中。たまたま通りかかった、近所の老女と言葉を交わす。
「1人になると、急に日が長くなりますわい」、そして、何とも言えないため息をつく。
妻を亡くし、子供達からは持て余される。家には末の娘が学校の先生をしながら残ってはいるが、いずれ家を出ていくだろう。何ともやり切れない笠智衆の孤独だ。
私の、90歳近い年老いた母親は1人で九州に住んでいる。周囲に親戚が住んでいるので、何とかサポートを受けながら1人暮らしを続けることが出来ている。
私の妻はタイ人だ。彼女の両親は、タイの田舎に2人で暮している。妻を見ていると、日本人とタイ人(少なくとも私と妻)の老親に対しての態度が全く異なることに気がつく。妻は、かなりの頻度で、タイのご両親に電話をして長話をしている(余談であるが、インターネット経由での無料電話が出来ていて良かったと本当に思う。もし、以前のように国際電話でしか話が出来なければ、莫大な電話料を支払うか、あるいは、電話の頻度を制限しなければならなかったはずだ)。妻のご両親の近くには、やはり何人かの子供家族が住んでいるが、こちらもかなりの頻度でご両親を訪ねている。この「東京物語」に出てくる子供達は、割合と日本人の典型であると思うのだが、タイの家族とは全く異なる(少なくとも、妻の家族とは全く異なる)。妻は、「両親の面倒を見るのは子供の義務」的に考えているようであるし、私にも私の母親に対して、同じようなことを期待しているようだ。私が母親にあまり連絡を取らないことを、最初のうちは不思議がっていたが、だまっていてはいつまでも連絡を取らないようなので、時々電話をしなさいとほとんど命じられる。
ちょっと映画のテーマとは異なる話になってしまった。
私はこの映画に出てくる笠智衆演じる父親よりは、幾分年下だが、それでも、この父親に最も感情移入した。彼の孤独は本当に心が寒くなるようなものだと思う。映画は色々な見方が出来るだろう。子供の立場、次男の嫁の立場、あるいは、家族関係そのものについて何かを強く感じる人もいるだろう。私は笠智衆演じる父親のようになることを、人生の最後の孤独を最も恐れた。
もしかしたら、タイ人の妻をもらったという偶然によって、その恐れからは少し遠ざかることが出来ているのかもしれない、とも感じた。 -
映画メモ。
期間も宿泊先も決めずに東京の子供の家にやってくる両親の旅路が、とにかく危なっかしくて、見ていられない。
長女を演じる杉村春子のガメツさというかしたたかさが、この世のものとは思えないほど美しく優しい亡き次男の妻を演じる原節子と対照的に描かれていますが、私は、けっこう春子も好きです。
なんだかんだ言いつつ、美容室を切り盛りし、部下に指示を与え、両親に宿を手配し、夜中に酔っ払いきって帰宅した父親を寝かせ、現実を回しているなあって。
どちらが良いとか悪いとかではなく、誰の心の中にもリトル春子とリトル節子が同居しているんだと思います。
終盤の父親を演じる笠智衆の言葉を、諦めととるか、優しさととるか、難しいところだけれど、願望も込めて優しさと解釈したいなあ。
時間の流れとともに人が変わることも、何かを忘れていくことも、それくらいでいいんだ、と考えた方が気持ちが楽になるし他者にも優しくなれる気がする。
観終わって1週間くらい経って、やっぱりすごく良かった! という気持ちになったので、☆5にします。 -
以前観た山田洋次監督の「東京家族」はこの映画をモチーフに作られたものと聞いて、いつかは観なければ、と思っていました。
山田監督の「東京家族」は、東京で忙しく生きる子どもたちは、親が上京した時にもなかなか時間を割くことができず、だけど心では親のことを大切に思っていることはわかるように描かれています。
しかしこの作品は、親から巣立って行った子どもたちは、親を切り捨てるように自分の生活をおくっていきます。
親のためにお金を出しますが、時間を割くことはしません。
そして、親の方もそれを、諦めを持って受け入れています。
山田監督は「家族はいつまでも家族なんだ」という映画を作りましたが、この映画は「家族はいつまでも家族ではいられない」というもの。
これは、家族関係が劇的に変化していった終戦後だからこその諦観であるのかもしれません。
子どもはいつまでも親のものであるという価値観が敗戦で消滅し、「個人」として生きることが奨励された頃の日本人。
原節子演じる、戦死した次男の未亡人が戦争の影をこの映画に与えていますが、蒼井優演じる次男の彼女は、東日本大震災の影響を映画に与えたとは言い難いところ。
全体に山田監督は甘いのだと思います。
そこが、観ている方には気が楽な部分もありますし、共感できる部分も多いのだと思います。
しかし映画の最後、東京から来た長男、長女、大阪から来た三男が帰って行き、同居している次女が仕事に出かけ、東京から来た次男の未亡人が帰り、家に一人残った父の姿は、現実を受け入れながらもうなだれていないその姿は、今の私たちにも訴える何かを持っています。 -
日本人として見ておきたい小津作品。代表作から入ることに。
高校の頃、小津監督の無声映画(タイトル忘れた…)をたまたま観て、全作品を網羅しようと誓ったのを覚えている笑
低い位置から撮られているせいか等身大というか、目の前にその日常があるみたいで、親しみやすい出来になっていた。
老夫婦がとっくに独立している子供達から邪険にされ孤立に追い込まれるのを観ていると色々胸が痛んだ。
そして一人残されたご主人が静かに尾道の海を眺める場面が流れると遂に視界がぼやけてもーた。
それでも清々しい気持ちで観終わることが出来たのは、原節子さんの終始絶えない眩しい笑顔のおかげやったと思う。 -
初小津。「そうか、いけんのか」。
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久しぶりの視聴。
小津安二郎の映画は、定規を充てたように風景とか小道具の配置が真っ直ぐだ。 -
1953年 松竹映画 小津安二郎監督作品
笠智衆主演