見事に誰も幸せにならない話だった。数学のようだと思っていた文章は最後の作者付記であえて素朴にしていることが分かり、何だか結末に対して、摘ままれたなような、いたたまれない気分になった。リアルに浪人を経験した受験生にこんなのを読ませたらさらに暗澹たる気分になるのではなかろうか。作者付記は、受験制度への投石をしたつもりなのかもしれないが、これだけ散々暗い気分を盛り上げられたら、読んでいて辛くなる方が先立ってしまって共感しきれなさそうにも思える。一高という場所は、受験という制度は、百年近くも前からこのように人を狂わせていたのかも知れないと考えると、今なお改革され得ない受験戦争の姿を垣間見ている気がした。そう思えば深い作とも捉え得るがそれはあくまで現代から読み直した結果の話であって、この作そのものはただ光明を見せてはそれを薄暗く潰していく、地を這うような受験の暗部の話であった。
勉強という行為をどう捉えるか。学生時代の競争の体験は、等しくその後の人生に影響を及ぼす。先頭に立つものには、その成績を維持せよというプレッシャーがかかるし、中間にいるものにはより向上心を持つように求めてくるし、下層にいるものには自分は底辺であるという諦念が渦を巻く。この作の主人公は、鶏口牛後なる位置で一高に受かることを願ってはいたが、弟にすら敗北し、ヒロインである澄子さんとの恋にも破れたことで、失意の念のうちに死にゆく。これが、遠い昔の話であればまだ良かったのだが、今でもどこかで起きてそうな話だからなおのこと困る。何というか、もうちょっとフィクションがフィクション足り得る形に加工できなかったのだろうか、と思わなくもない。リアルで面白いといえばそうなのだが、受験勉強をしていて頭が痛くなるとか、友人の出来ない問題を出来て得意げになるといった随所に盛り込まれるエピソードが痛々しくて、ありえそうで、いっそ滑稽にも思えてくる。あるある…と思ってしまう人は案外多いかもしれない。
受験生の心理があまりにも素朴に直接的に書かれていて、読んでいると応援したい気持ちにさせてくるのは間違いない。だからこそ結末を読んでこれだけショックを受けるのだが、これを書いている久米雅夫本人は一高には無試験入学らしい(恒藤恭『学生時代の菊池寛』参照)のがこれまた何とも言えない気持ちになる。
引用は、この表現凄い様になってるな、と思った箇所。運命の門。何と的確な表現か。誰しも受験の合格発表の時に、この門を目の当たりにしたことがあるのではなかろうか。